自分よりすごい人がゴロゴロ居る世界で、あえて頑張る意味ってなんだろう?
頑張ってきた。はず。だけど自分よりすごい人はこの世界に沢山いる。
インターネットを知ってしまった日には、もうおしまいだ。数検1級を取得した小学五年生、IPhO/APhyO/湧源 etcの文字をヘッダーに輝かしく並べる科オリ科甲常連高校生、学部生が主著論文投稿、海外PhD複数合格……
Twitterを見ているとそんな情報は珍しくもなんともなくて、自分はなんてコンテンツ力のない人間なのだ、全ての能力が自分より優っている完全上位人間は沢山いるのだ、と悲観してしまうのにそう時間はかからないだろう。
出来る人への嫉妬、憧れ、そして小さな挫折感の連続は心を掻き乱し、やがて一つの疑問を生む。
「自分よりすごい人がゴロゴロ居る世界で、あえて頑張る意味ってなんだろう?」
この考え方は本当はすごく危険だ。誰かより劣る自分を許せない姿勢は、自分より生産性が低く劣った人間に対しても、優しくできなくなってしまう。優生思想にもゆるやかに繋がってくるだろう。
きっと松戸のヤンキーならこんな考えをしないだろう。彼らは地元という井戸を愛し、井の中の蛙であることに誇りを感じて生きている。この考え方は、受験などの数多の試験をそれなりに努力してきて必死に生きてきた中で大海を知り、その広大さに絶望した人間に取り憑いてしまうのかもしれない。
""虎""の感情
「山月記」とは、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を抱えて陽の目を見ることなく消えていく話だ。
この思想もまた、ある程度努力してきたエリート意識と挫折感が作り上げるのだろう。この考え方もまた危険だ。文字通り、人の道を離れ""虎""になってしまうだろう。
美しい才能が沢山きらめく世界で、小さな自分を見失わないために。
表題に戻る。
「自分よりすごい人がゴロゴロ居る世界で、あえて頑張る意味ってなんだろう?」
そんなこと当たり前だ。この気の持ちようで心を保つには、最も小さな井戸であるところの心に籠るしか解決策がないだろう。
才能が美しくきらめく世界で生き抜くために大事なことはまず、
「自分よりすごい人がゴロゴロ居る世界でなお、それでも今日をやるんだ!!!!!!!!!!!!」という迫力、もはや正気の無さではないだろうか。
"正気の無さ"と表現したように、本当は自分よりすごい人がゴロゴロいることを完全に理解している。理解しててなお、「それでも俺はやるんだ!出来るんだ!」と信じるのだ。信じるということは、何があっても信じるということだ。信じるために条件がつくのであれば、それは信じるとは言えない。報われなくても心を傾けること。自分の弱きをただ受け入れること。それが、信じるということだ。
これはジョージ・オーウェルに出てくる二重思考に近いかもしれない。
この態度を笑う者もいる。「無理だよ」「意味あるの?」と。
だが、そういったシニカルな態度こそ卑怯ではなかろうか。自分のフィールドから外に出ず、自分の価値観だけで自分と異なる価値観を笑う態度はさぞかし楽だろう。しかしその態度では結局己の人生の問題は何も解決してないではないか。
インターネットを見ていると特に、頑張るための翼をもがれた気持ちになる時もある。
詭弁でもなんでもいいから自分を奮い立たせるための狂気が必要だ。自分の人生を燃焼させるために。
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