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2013年の作文・9月

2013.9.1
マルセル・カルネの回想が引用された箇所を引用する。
 
 
──シャンソンかい? とギャバンがきいた。
──そう、とプレヴェールが言った。
コスマはまずいくつかのアルページョ[和音を一音ずつ弾いてゆく奏法]を弾いた。次いで彼はゆっくりとはじめた。ささやくような声で歌いながら、指は軽く鍵盤に触れていく。
 
ああ 思い出しておくれ
ぼくたちが恋人だった幸せな日々を
 
メロディーがゆっくりと立ち上がる。哀調をこめて、心をとらえるように。そして最後は魅了して終わる。コスマが夢みるように忘我の状態で最後の和音を引き終わるやいなや、ギャバンは彼に、「もう一度弾いてくれ」と頼んだ。食事の間中、コスマは十回もピアノの前に座った。十回目に、ギャバンは彼に、「もう一度、いいかい」といったオードヴルのあとで、私たちはもうすでに、二、三のテーマを口ずさんでいた。メイン・ディツシュの丸焼きが終わったときは、私たちは繰り返しの部分を覚えてしまった。コーヒーのときは、コスマの伴奏なしでも私たちはシャンソン全部を歌うことができた。ジャック[・プレヴェール]は幸せで、ゆっくり楽しんでいた。私はといえば、どんなことがあっても、この瞬間の甘美な想いを決して忘れないだろうと思った。ギャバンはジャックの方を向くと、──最初から、と頭を振りながらいった。「枯葉」が誕生した瞬間だった。
 
 
引用は、柏倉康夫『思い出しておくれ、幸せだった日々を 評伝ジャック・プレヴェール』左右社、431頁より
 
名曲「枯葉」はこうして、歌われはじめ、世界へと広まっていった。考えてみると歌が世の中に流れていくことはとても不思議な現象だ。誰かの頭の中にあった言葉とメロディーが他の人の共感を呼び、さらにそれが次の人にも伝播していく。もう「枯葉」という歌なしの世界を考えることは想像できない。そして、今もこの世界のどこかで「枯葉」が歌われ、それに聴き入る人びとがいる。この「枯葉」の冒頭をそのまま引用して、セルジュ・ゲンスブールは「プレヴェールの歌」というシャンソンを作った。そして、そのシャンソンもまた、後世の人びとに歌い継がれている。ぼくは、フランス語で「プレヴェールの歌」がようやく歌えるようになった。次は「枯葉」に挑戦しようと思う。残暑が厳しい今から練習すれば、秋には少しはマシになっているだろう。秋から冬へ「枯葉」はぴったりだろうから。
 
 
2013.9.2
願望として、ヘミングウェイを徹底的に読みたいな。20世紀を掴むためにも、それは必要だから。そのあとは、ヘミングウェイが影響を受けた作家たちの作品を、そしてその次はヘミングウェイから影響を受けた作家たちの作品を読んでいきたい。願望なんだけれどね。時間との闘いかな。でも願望があれば、できるだろう。ほんとうは英語で読めるといいな。でもまず翻訳から。それから、詩をたくさん作りたい。詩を書くことは、ぼくにとって生きることだから。ネット依存症になっているかもしれないから、少しネットと距離を置こうと思っている。年内に、一旦ブログを休止しようと思う。12月31日までは、こうして記事を更新し、そのあとは、作文は続けるけれど、発表はしないことにしたいと考えている。2009年10月からはじめたブログ、ほぼ毎日更新してきた。ツイッターもやった。ユーチューブに動画もアップした。いろいろやった。しかし、依存はいけない。中毒もいけない。それがなくても生きていかなくてはならない。だから、少し距離を置こう。9月、10月、11月、12月、のこり4ヶ月。思い残すことのないように書きたいことは書いておこう。
 
 
2013.9.3
◆夜明けの空の下で  2013.9.3◆
 
「ほら月がすごく綺麗だよ」とKは彼女の瞳の奥を見つめながら云った。
「星もたくさん……」彼女はじぶんの方にばかりKの気持ちが集まることを避けてでもいるかのようだった。
 
Kには分からなかった。
彼女は一体何を畏れているのか。
Kの欲望は今に向けられていた。
しかし彼女には明日の保証のない愛を受け入る余地などまったくなかったのだ。
 
夜明け前の空がみんなで協力しながら水平線の向こうの太陽を引き揚げようとしていた。
「あすは一瞬にしてきょうになるんだ」と云ってKが彼女の手を握ると
彼女もKの手を強く握り返して云った。
「きょうという日もあすにはすっかりきのうになっているわ」
 
 
2013.9.4
今朝、東京は雨がふっていたので、『雨のウェンズデイ』を聴こうと思ったのだが、集中豪雨の被害が出ているところもあったようなので、そんな気分にはならなかった。きょうは、けっこうな長めの地震もあった。栃木では竜巻が起こったという。一日を振り返ると、ぼく個人の身にもいろいろ起こった。朝、オーブンレンジに食パンをいれてトーストを作ろうとしたら、家内が温めっぱなしにしていたコーヒーが入っていたのを知らずにこぼしてしまい、レンジの中がコーヒーだらけになったのを皮切りに、子どもたちを学校に送るため、車の準備をしていたら、足を滑らせ、右足の脛を傷つけて血が出てしまった。そのあと、右の親指の爪が半分めくれるという怪我もあった。そのあとも、右手の肘をクローゼットのドアにぶつけた。なんだか右半身が集中的に狙われている感じだった。そういえば、二三日前から、右足首が痛い。気をつけていてもこうなる時はこうなる。逆らいがたい不運な出来事は続くものだ。ぼくは何かに呪われているのかもしれない。それならそれで、呪い返しを喰らわしてやるだけだ。呪文は、何にしようかな。
 
◇死んだ男の残したものは  谷川俊太郎◇
 
死んだ男の残したものは
一人の妻と一人の子供
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
 
死んだ女の残したものは
しおれた花と一人の子供
他には何も残さなかった
着物一枚残さなかった
 
死んだ子供の残したものは
ねじれた足と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった
 
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃と歪んだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった
 
死んだ彼らの残したものは
生きてる私 生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
 
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない
 
この詩に武満徹さんが曲をつけた。すげえ話だ。
 
 
2013.9.5
ラブについていくつかの命題を思いついたので書いてみる。
ここでの「ラブ」は恋でもなく愛でもない特別な意味の何かである。
 
ラブはシャボン玉のようなもの
なぜなら
手にした瞬間にパッと消え失せてしまうから
 
ほんとうに好きな人とは結婚してはいけない
現実を見ないことと
理想を追い続けること
この二つを永続させるためには
恋人とは極力離れている必要があるから
いちばん近くにいたいのに
いつも遠く離れていなくてはならない
これがラブの最大矛盾である
 
ぼくには、いまでも心の片隅に思い続けている恋人がいる。高校時代のクラスメートで、卒業するまでずっとプラトニック・ラブだった。しかし、卒業後、彼女はぼくから遠ざかっていった。お互い、その理由はうまく説明できない。でも、おかげで、ぼくは彼女の現実を見ないで済んだ。ぼくのなかの理想の女性として不変のものとなった。追い求め続けることができる存在となった。これは恋ではない。そして、愛でもない。だから、ラブという言葉を使いたい。その後、彼女は結婚し、ぼくも結婚した。結婚は結婚で素晴らしいことだ。そして、そこには恋もあり、愛もある。しかし、ぼくはラブを求めることをやめることができない。少年は冒険がしたい。異性への限りなき冒険がラブを支えているのかもしれない。このラブを維持することは至難のわざである。定義にもあるように、ラブは現実的に手にすると簡単に消えてなくなってしまうからだ。性欲でもない、恋愛感情でもない、この不思議な願望をぼくは文学で表現したいと思っている。
 
 
2013.9.6
『ヘミングウェイ短篇集』(西崎憲・編訳)ちくま文庫から「この身を横たえて」の中のぼくが気に入った箇所を引用する。
《けれど、祈りさえ思いだすことができない夜もあった。「地上にても、天国にいるがごとく」までしかぼくは思いだせず、また最初からやりなおすのだが、どうしてもそこから先へは進めなかった。だから認めるしかなかった。祈りが思いだせないのだから、今夜は祈ることを諦めて、代わりを見つけなければならないと。そういうわけでぼくは幾晩か、世界中の動物の名前をぜんぶ思いだそうとしてみた。それから鳥の名前、魚の名前、国、街、食べ物の名前、シカゴの知っている通りすべての名前を思いだそうとした。そしてまったく何も思い出せない時は、ただ音を聴いていた。音の聴こえない夜というものはなかったと思う。もし明かりがあったら、眠ることを恐がらなかっただろう。なぜなら魂が抜けでていくのは暗い時だけだからだ。だからもちろん明かりがある場所で寝る時はたいがい眠れた。ほぼつねに疲れていたし、たいていの場合ものすごく眠かったのだ。知らないうちに寝てしまったことも少なくなかっただろう──けれど眠ろうと努めて眠ることはどうしてもできなかった。そして今夜ぼくは蚕の音を聞いていた。蚕が葉を食べる音というのは夜であればずいぶんはっきりと聞こえるもので、ぼくは目を開け、蚕たちのたてる音を聞いていた。》(148頁から149頁より)
主人公は前線にいる兵士だ。戦争で相当なストレスを心に抱えているのだろう。心的外傷が、眠りたいのに眠れない状態に「ぼく」を追い込んでいる。暗闇の中で聞こえる音が蚕の葉を食べる音だなんて、あまりに衝撃的なイメージだ。映画のワンシーンとしても、印象深いカットが撮れるだろう。ぼくは戦争を知らない世代である。ほんとうの意味でその悲惨さ、残酷さ、恐怖、不安を知ってはいない。しかし、「眠ろうと努めて眠ることはどうしてもできない」という状態を想像することはできる。考えてみると、小説というものは、不眠症の人間が作り出した筋書きのある妄想であると云ってもよいのではないか。限りなく夢に近い、それでいて意識的な構想力で綴られた文章を読むと心はぎゅっと掴まれる。過敏な神経がたんたんとじぶん自身を語る。ドストエフスキーの作品にもよく出てくるような、こういう種類の独白は、やっぱり面白いんだな。
 
 
2013.9.7
最近、世代論が面白い。たとえば『アラフォー独女あるある!図鑑』(扶桑社)を書いた牛窪恵さんによれば、いまアラフォーの人びとは団塊ジュニア世代(1971~76年生まれ)とバブル世代(1966~70年生まれ)の2つの世代に分類できると云う。ぼくはバブル世代で、家内は団塊ジュニア世代である。バブル世代は自慢するのが好きらしい。当たっている。団塊ジュニアは自慢しないそうだ。確かに家内は自慢が嫌いだ。ヘミングウェイは、そういう世代論のはしりである「失われた世代」の代表格である。今村楯夫『ヘミングウェイの言葉』新潮新書には次にようにある。
《第一次大戦が「聖戦」と呼ばれ、また「戦争を終わらせるための人類最後の戦争」と謳われ、アメリカの若者は政府の求めと呼びかけに応え、軍隊に応召し、戦場で戦争の現実を知り幻滅し、また平和が訪れた戦後にもさしたる希望を見いだすこともできずにふたたび幻滅した。/そんな若者たちがアメリカからパリに大挙して押し寄せ、パリの左岸、カルチェ・ラタンの酒場を渡り歩き、文学を語り、芸術を語り合い、パリの芳醇な文化を楽しんだ。そこには見習い作家、似非芸術家、すでに確立した作家や芸術家などが混在していた。1924年、パリに住むアメリカ人は三万人を越えていた。時代が生んだ特徴ある若者たちを新たな「世代」ととらえるようになったのはこの「失われた世代」に端を発する。》(15頁)
ヘミングウェイは必然的にパリにいたわけだ。1920年代のパリか。
 
 
2013.9.8
◆泳げない魚  2013.9.8◆
 
かつてゴンドワナ大陸から地殻変動によってできた南半球の島々には何種類もの飛べない鳥が生息していたと思われる
なぜそれらの鳥は飛べなくなったのか
学説は天敵の不在が原因だと云う
ダチョウやキウイはそのまつえいである
天敵の不在で鳥が飛ばなくなったなら
反対に天敵から逃れるために鳥類は空を飛べるようになったのだろうか?
博士は云った。
「飛べない鳥がいるなら、泳げない魚もいるはずだ」
それでぼくらの研究チームは「泳げない魚」を探している
スイミーたちはマグロやサメから逃れるためにすいすいと泳いでいる
マグロやサメは巨大イカが怖くてずんずんと泳いでいる
じゃあ巨大イカはなんでじゅわんと泳ぐのだろう
たぶん目に見えない敵に脅えているからだ
と博士は云う
「泳げない魚」を探すヒントはそこにある
おそらく一切の恐怖を克服し
逃げる必要がなくなった時
魚は泳がなくなるのだろう
とぼくらは考えている
勇気の魚を探せ
王者の魚を探せ
世界の頂点に立つ魚を探せ
 
 
2013.9.9
ヘミングウェイ『武器よさらば(上)』(金原瑞人・訳)光文社古典新訳文庫から引用する。
《しかし、ハルツ山脈はどこにあったっけ? カルパチア山脈では戦闘が行なわれている。もともと、あそこにはいきたくない。だが、いいところなのかもしれない。戦争さえなければ、スペインにいってもいい。日が落ちて、涼しくなってきた。夕食を終えたら、キャサリン・バークリに会いにいこう。いまここにいればいいのに。いや、いっしょにミラノにいられたらもっといい。〈コーヴァ〉で食事をして、夕暮れの暑い頃、いっしょにマンゾーニ通りを散歩して、運河を渡って、運河ぞいにホテルにいく。たぶん、キャサリンはいっしょにきてくれるだろう。そして戦死した恋人に接するように接してくれるだろうから、いっしょにホテルの前までいくと、ポーターが帽子を取って挨拶をして、おれはコンセルジュのデスクでキーをもらい、そのあいだ彼女はエレベータのそばで待っていて、おれといっしょにエレベータに乗ると、エレベータはゆっくり上がっていきながら、各階ごとにちりんと音を立てて、やがて目的の階につくと、ボーイがドアを開けてくれて、彼女が降りて、おれが降りて、いっしょに廊下を歩いていって、ドアにキーを差しこんで開けて中に入って、おれが電話の受話器を取って、たっぷり氷をいれた銀のアイスペールにカプリの白を入れてもってきてくれと頼むと、氷がアイスペールにぶつかる音が廊下をやってきて、ボーイがノックをするから、ドアの外に置いておいてくれという。というのも、ふたりとも裸で、なにしろ暑いから、窓は開け放してあって、ツバメが家々の屋根の上を飛んでいて、やがて暗くなると、小さなコウモリが家の上や木の梢あたりで餌をあさっているのが窓から見えるし、おれたちはカプリを飲んで、ドアはロックされていて、暑いし、シーツ一枚あれば充分で、朝まで愛し合って、一晩中、暑い夜をミラノで過ごす。こうでなくちゃいけない。さっさと夕食をすませて、キャサリン・バークリに会いにいこう。》(第7章、67頁より)
男の欲望が見せるキザな妄想だ。しかし、この部分だけ取り出してみても、散文詩として成り立つのではないか。それほど、流暢に舌は回っている。イメージも豊富でリアリティーがある。きのうの夜、ぼくは高校時代の親友のY君とさしで酒を飲んだ。男同士、久しぶりに遠慮なく語り合った。色恋の話はいくつになっても変わらず盛り上がる。お互い妻子もちの四十過ぎのオッサンだが、ときめきのない人生は寂しすぎるという結論に至った。問題は現実にそれができるか。やっぱり空想に終わるしかない。そこで必要なのが、小説なのだとぼくは思う。ヘミングウェイのように、妄想のなかで楽しむしかないな。ミラノとかパリとかロンドンとかニューヨークとか、活字のなかなら世界中どこへでも飛んでいけるのだから。きのうのウイスキー、うまかったな。
 
 
2013.9.10
きょうも、ヘミングウェイ『武器よさらば(上)』(金原瑞人・訳)光文社古典新訳文庫から引用する。
《その夏は文句なしに楽しかった。外に出られるようになると、キャサリンを連れて馬車で公園にいった。あの馬車はいまでもよく覚えている。馬が一頭のんびり馬車を引き、見上げると、光沢のある山高帽をかぶった御者の背中があって、隣にはキャサリン・バークリが座っていた。手が触れあうと、ただ手の横が触れあっただけでも、ぞくぞくした。松葉杖が使えるようになるとガレリアにあるレストラン〈ビッフィ〉や〈グラン・イタリア〉にいって店の外に並んでいるテーブルについた。ウェイターが店から出たり入ったりして、通行人がそばを通りすぎ、シェードのついたロウソクがテーブルクロスに置いてあった。そのうちにふたりとも〈グラン・イタリア〉が気に入って、給仕頭のジョージがおれたちのために席を用意してくれるようになった。ジョージは信用できるウェイターだったので、料理はすべてまかせて、おれたちはただながめていた。通りを行き来する人々、夕暮れ時のガレリア、そしておたがいを。飲み物はアイスペールで冷やした辛口の白のカプリ。もちろん、ほかのワインもかなり試してみた。フレーザ、バルベーラ、甘口の白ワインも何種類か。戦時中なのでソムリエはいなくて、おれがフレーザという名前のワインについてたずねると、ジョージは照れくさそうにほほえんだ。/「フレーザーというのはスペイン語でイチゴのことですが、イチゴ風味のワインなんて作っている国はありませんよ」/「あら、いいじゃない」キャサリンがいった。「素敵だと思うわ」/「ではひとつ、試してみますか?」ジョージがいった。「しかし中尉にはマルゴーをお持ちしましょう」/「おれも、フレーザを試してみるよ、ジョージ」/「いえ、あまりお勧めしません。イチゴの味さえしませんよ」/「するかもしれないわ」キャサリンがいった。「もししたら、素晴らしいじゃないの」/「では持ってきましょう。奥様に納得するまで飲んでいただいて、下げることにします」》(第18章、189頁から190頁より)
きのうは、主人公の妄想のなかでのデート、きょうはようやく実現したミラノでの実際のデートの模様である。しかし、読者は忘れてはならない。負傷して入院してきた、この小説の主人公フレデリック・ヘンリーと看護婦キャサリン・バークリは架空の人物であるということを。主人公の妄想のデートも、物語のなかでの実際のデートも、ぼくらからしたらどちらもフィクションである。それにしても、この場面の幸福感は、どうだろう、あまりにも生き生きとしているではないか。恋人同士のとても楽しげな様子が、こちらにも伝わってきて、ウキウキしてくる。これは、作者ヘミングウェイの実体験に基づいているのであろうが、事実を記述しただけではこの気分は伝わらない。やはり描写の仕方に秘密があるように思えてならない。
 
 
2013.9.11
9・11だ。朝から雨の水曜日だった。晴れそうでなかなか晴れない一日だった。ヘミングウェイ『武器よさらば(上)』(金原瑞人・訳)光文社古典新訳文庫から、ちょっと素敵なシーンを抜粋しよう。
 
「ざんざん降りだな」
「あなたはわたしをいつも愛してくれる。そうでしょ?」
「ああ」
「それは雨が降っても変わらないわよね」
「ああ」
「よかった。わたし、雨がこわいの」
「なんで?」おれは眠かった。外では相変わらず雨が降っている。
「わからない。でも、ずっと前から雨がこわかった」
「雨は好きだけどなあ」
「雨の中を歩くのは好きよ。でも、雨って、恋人には冷たいの」
「いつでも、きみのことは大好きだよ」
「わたしも大好き。雨のなかでも、雪のなかでも、雹のなかでも──あと、何がある?」
「さあなあ。そろそろ眠くなってきた」
「じゃ、寝てちょうだい。わたしはどんな天気でもあなたが好きよ」
「本当は、雨なんかこわくないんだろう?」
「あなたといっしょなら」
「なんでこわいんだ?」
「わからない」
「いってごらん」
「いわせないで」
「いって」
「いや」
「いって」
「わかった。ときどき雨のなかで死んでいる自分が見えるからよ」
「ばかばかしい」
「ときどきあなたが死んでいることもあるの」
「そのほうがまだありそうだな」
「ちがう、そんなことないわ。だって、わたしが守ってあげるもの。わたしにはできるの。ただ、だれも自分で自分を守ることはできない」
「もうやめよう。スコットランド人ときたら、本当に頭が変なんじゃないかと思うよ。今晩はそういうのはやめだ。これから先、何日いっしょにいられるかわからないんだから」
「そうね。だけど、わたしはスコットランド人だし、頭が変なの。でも、やめましょうね。ばかばかしいもの」
「そうそう、ばかばかしいよ」
「ばかばかしい。ほんとにばかみたい。雨なんかこわくない。雨なんかこわくない。ああ、こわくなければいいのに」キャサリンは泣きだした。おれがなだめると、泣きやんだ。しかし外ではまだ雨が降り続いていた。
  (引用は、第19章、213頁から216頁より)
 
雨のなかでの恋人たちの会話は、絵になる情景だ。たとえそれが別れ話であっても、口説いている瞬間でも、雨は何かを象徴していると、読者に思わせる。この場面も、美しい会話詩のように流れている。言葉のやりとりだけで情景が充分に伝わってくる。
 
 
2013.9.12
◆さしのみ  2013.9.12◆
 
彼はパイロットだ。ハイスクールでいちばん気の合う友達だった。ぼくは彼に恋の悩みを相談するために蒲田駅の近くのバーで待つことにした。となりの客のおしゃべりが耳に入ってくる。
「マジ、神」
「元カレじゃん」
「つきあえなあい」
「つうか、しねっつーの」
呪文は彼女たちには通じあっている。ぼくがこれから親友に語る言葉は彼女たちにはどう聞こえるのだろうか。日本語で話すと聞耳を立てられそうだ。英語で話そうか、いやいっそうフランス語の方がいいかも知れない。そんな心配は杞憂に終わった。となりの客は早々にひきあげていった。カラオケがしたくなったらしい。
「1時間だけだよ。1時間」
「90分いけるよ」
どうでもいい。ウェイターがやって来た。
「ハイボール、お待たせしました」
グラスを持ち上げるとウイスキー特有の香りが広がる。一口、うん、うまい。息をゆっくり吐いて、店内を見渡す。個室には何人かいるようだが、このフロアにはぼく以外の客はいない。もう一口、ああ、懐かしい味だ。少し時間がある。ぼくは読みかけの文庫本を開いた。いまぼくはヘミングウェイにハマっている。きょうは『武器よさらば』を持ってきた。ヒロインはキャサリンという看護婦。キャサリンのような彼女が欲しい。この夏、そんなことばかり考えていた。出会いはいくらでもあったのだけれど理想のタイプにめぐりあうチャンスはそうあるもんじゃない。好きでもない相手と交尾をするのは生理的な処理以外のなにものでもない。誰かが言っていたけれど、それは相手のあるマスターベーションだ。それに後味が最悪。ぼくはぬくもりと共に愛がほしいのだ。そういう考えをぼくは親友のパイロットに話してみるつもりでいたところにちょうど彼が姿を現わした。
「いや待たせたね」
「大丈夫。これがあったから」ぼくは本を掲げてみせた。
「こんどは何読んでるの?」
「第一次世界大戦のことをおさらいしたいと思ってさ」
「ああ、武器よさらば、映画にもなってるよね」
「原作の方がいいよ。やっぱり小説でないと細かいところまではね」
「ヘミングウェイは『老人と海』しか知らないなあ」
「ピューリッツァー賞受賞作品だしね」
「そうなの?」
「そうだよ」
「自殺したよね」
「散弾銃でね」
「なにがあったの?」
「ノーベル賞もらってからのスランプに悩んでたみたい」
「ノーベル賞と言えば川端康成も自殺したよね」
「注文しようよ」
「あ、そうだね。じゃ俺、生」
「ハイボールもおいしかったよ」
「ほんと。じゃそのあと」
「ハイボールってさ、高校の時、はじめて飲んだ酒がウイスキーだったからかもしれないんだけど、なんか懐かしい味がするんだよね」
「俺はチューハイだった。でもゲロして嫌いになっちゃった」
「あの頃、けっこう飲み会やったよね」
「やった、やった。すぐ吐くクセに」
彼は出てきた生ビールを一気に飲み干すとハイボールを注文し、ぼくは、ジンライムとチーズの盛り合わせとトマトをたのんだ。彼は、ぼくの相談が深刻な悩みであることを心配して切り出した。
「相手はどんな人なの?」
「女優でね。すごく可愛い人だよ。写真みる?」
「どれ、おお、これはべっぴんさんやね」
「13年前、ぼくが劇団にいた時に一緒だったんだ」
「へえ」
「先日、彼女の舞台、みにいってさ。再熱しちゃったんだよね」
「いちどふられてるんでしょ」
「一緒に食事いった帰りに、駅の階段で告白したら、あたし彼氏いますし、だって」
「おんなはそういうのがわからんからねえ」
「13年ぶりに会って、彼女を見たら、じっとぼくの目をみつめてぜんぜん視線ずらさないし、ずっと笑顔なんだよ」
「まあ、女優さんだからねえ」
「でも、なんか、こう、うまく言えないけど、ずっと待っていたんじゃないかなあ」
「いやあ、待ってないでしょ」
「待ってない、かあ」
「待ってない」
「そう否定しなくても」
「いや、否定とかじゃなくて」
氷だけを残して飲み干した彼のグラスがカランと音を立てた。ぼくは、じぶんのグラスからライムをつまんで、また元に戻したりしながら、話を続けた。
 
 
2013.9.13
◆スイーツ  2013.9.13◆
 
ノスタルジイ

ソース

たっぷりかかった
センチメンタル

かじりながら
少しにがめ

コーヒー

すする
 
ぼく



笑顔

きみ



スカート

ゆらしながら
駈け寄ってくる
 
クラリネット

音色

似合う
午後

木蔭


やわらかい会話
 
 
2013.9.14
私はジープの後部座席に座って本を読んでいた。上空ではプロペラの音が近付いてきて、すぐにまた離れていった。運転席に向かって私は話しかけた。あれはユダのヘリじゃないか、きっと何か見つけて追跡しているんだろう、まあ、こちらは指令があるまでのんびりやろう、タバコをくれないか、そう言って私は火をつけると、けむりを深く吸い込んで、肺の中の二酸化炭素を青い空に向かって全部はきだしてみせた。砂漠の真ん中にいると時々みえる筈のないものがみえたりする。きょうもすっぱだかになった女神が波打ち際ではしゃいでいる姿が何度もちらついていた。私は少し笑ってすぐにまた活字に目を落とす。書いてある文字は知らない国の言葉だったので中身はさっぱり分からない。もしかしたらそれは文字なんかではなかったのかもしれない。しかし、そんなことはさして重要ではなかった。私は運転席に向かって再び話しかけた。最近、女を抱いたか、それとも男に抱かれたか、どっちにしたって、そこまでには言わなくてもいい事を何度も囁いたり、言うべき事を何にも言わなかったり、喋り過ぎたり、沈黙したりした筈だ、そのプロセスと肉体の結合にはなんら必然的な連関はない、いくら試しても結合を正当化できる言い訳などこの世界のどこにもありはしないんだ、ただ言葉と肉体と快楽と後悔と黄昏と疲労が不連続に、そして並列にそんざいしているだけだ、と私は言ってみたが、そんな意見に耳を傾けてもなんの価値もないことくらいは初めから知っていた。知っていてあえて口にしなくてはいられないのは暇潰しにタバコを吹かさなくては気が済まないというのに似ている。女神がはしゃぎすぎて転んだ。起こしてあげに行きたいと思ったけれどすぐに思い直して空を見上げた。もうすっかり星がきらめいている。運転手は黙ったまま白骨化している。耳をすましてみたけれどプロペラの音は全く聴こえなかった。
 
 
2013.9.15
台風が接近しているせいで、具合が悪くなっている人もいるだろうが、笑顔の大風で立ち向かうこともできるのだから、ぼくらはくよくよしてはいられない、ということで親友のKくんと朝から電話で励ましあった。Kくんの発想は実にユニークで、ここでは発表できないが、そのアイデアを実行したら、おそらく21世紀の芸術として後世まで語り継がれることになるだろうとぼくは思った。次の作品はそんなKくんとの会話の中から生まれたものの一つだ。
 
◆不運  2013.9.15◆
引いたカードがジョーカーだった。じぶんで仕掛けた罠にじぶんがはまってしまった。人生によくある不運である。しかしゲームをはじめたのはじぶんの意思なのであれば責任を他になすりつけるわけにもいかない。河馬事件による彼のダメージは意外に大きく、いまだあとを引いて傷口は癒えない。このまま膿んで腐ってしまうのではないかと心配になる。煙草を再び吸いだした。日に日に本数が増えている。悪い兆候だ。考えることも貧弱になり、唯一の楽しみが酒をかっくらっての友達との猥談という具合だ。男尊女卑に逆戻りしている。目標はない。顔がだらしなくなってきた。目がいやらしい。口がわるい。怒鳴る。けちる。面倒臭いしウンコ臭い。堕落は始まったら歯止めがきかないのも世の常なり。どんどん転がり転がり続けて最後は地獄の壁に激突してこっぱみじんに砕け散る。さあさあKくんどうするこれから。ひたすらメスのおしりを追い回す日々かな。それもよし。生殖活動を終えた生物は基本的に死骸に成らざるを得ないのだから、オスと言えばメスと応えるのも健康増進につながっているのが道理である。不運でも、そいつ不運と思わずに、13年後にまた鳴こう。うん。
 
嵐の前の静けさに、ちょっとそこまで出かけてこよう。そして逃げるように帰ってこよう。やっぱり台風こわいし。仕事だし。
 
 
2013.9.16
◆ド氏の部屋  2013.9.16◆
 
私はある悩みを抱えて池袋へ向かった。昔の友人がそこで占い師をやっているということを人伝に聞いていたのだ。住所を確認しながら、民家の立ち並ぶ、駅から少し離れた通りを歩いていき、その館を見つけた。雨が急に激しくなったので躊躇する間もなく扉に手をかけると、中から先に人が出てきたので、私は後ずさりした。ハッとするほど美しい少女が「どうぞ」と云って私を招き入れた。長い廊下の先に、小さな部屋があり、その中に私は案内された。壁全体が本棚で、天井までぎっしりと色とりどりの背表紙が並んでいる。椅子が四つあり、真ん中に直径60センチくらいの円いテーブルが置かれている。そのテーブルの上には一冊の本があった。ドストエフスキイの『二重人格』だ。私がそれを手に取ろうとすると、ドアが開いて三人の人物が入ってきた。社会学者の男、詩人の女、そして小説家の男。唐突に議論が始まった。二重の人格という言葉から類推するに、この本には主人公が二人出てくるということだと思う、と社会学者。二重は二十の間違いなのではないか、だから主人公は二十人いるということだと僕は読むね、と小説家。「二重人」という名の主人が営む「二重人閣」という中華料理店の話だったらどうするつもり、と詩人。私は彼らの話を理解しようと必死に頭を回転させたが、首が疲れて目の前がくらくらするばかりで、口を挟む余地が見つからず、途方に暮れてしまった。視線が集まってくる。社会学者の目が、詩人の瞳が、小説家の眼光が、私に向けられている。さあ、お前は何を云う、どんな意見を持ち、どのような視点で、どんな風に表現するつもりだ、と謂わんばかりの重くて強い視線。咳払い一つしてから私は語った。あなた方は、その、つまり、その本をお読みになったことがない、否、たとえお読みになっていたにしても、中身を理解していない、もしくは敢えて知らないふりをしている、ということだと私は理解してよろしいのでしょうか、という前に、私が、ええもちろん、ここで私が発言してよいということを前提としてお話しているわけですが、あなた方は、この本についての意見を、この私にお求めになられているという場合に、ええ、そうですとも、そのように私が思って至極あたりまえの状況がこうして作られているわけで、それをこの期に及んで否定する者がいたら、それこそまったくのまぬけというやつです、はい、私はやっぱり、ドストエフスキイについて何かしらの意見を、一つの立派な思想を、いまここで披瀝することが求められているのだと考えて、たとえば、それは『二重人格』という小説のタイトルが小沼文彦氏の訳であり、米川正夫、江川卓、両氏の訳では『分身』となっており、もしそちらの翻訳の方がそのテーブルに置かれていたとしたら、これまでの議論は一体どのように展開されたのだろうか、と想像することはここでは意味がないのかどうか、そういうような話を私はしたと思うのですが、と私は一気に語ってみた。一同は、じっと私を見つめたまま、ちっちっちと秒針が一回りする間にごくりと私が唾を飲み込む音の他は何も聞こえないくらいの静寂を守っていた。沈黙を破ったのは、ドスっという声、詩人の女が右手の甲で鼻と口をおさえながらの笑い声だった。つられて社会学者が歯を見せてトエフと笑い、次いで小説家が手を叩いてスキスキーと大笑い、それから私の方へ右手を差し出し、いやあ、お見事、感服しましたよ、セニョール、と握手を求めてきたので、ようやく私も安心して、溜息を一つしてから、自己紹介をしようと思った。はじめまして私は、と云いかけると、入り口で案内をしてくれた少女が、どうですその本は? と声をかけてきた刹那、私はじぶんが一冊の本を手にしていることに気がついたのである。『タイトルだけで想像するド氏の作品世界』というその本には、著者名も出版社名も記載は無かったのだが、私はそれを400円で購入して帰った。
 
 
2013.9.17
ぼくの友人はドストエフスキイだ。よく似ているのだ。母親をこよなく愛し、父親を敬愛するも憎んでいた。母親が重い病気で急逝したとき、原因は父親にあると考えた。そして、実の弟とも絶縁状態である。彼は時どき躁になり全世界と和解するが、すぐにまた全世界を敵にまわして鬱になってしまう。ギャンブル好きで、競馬やパチンコに熱を上げたらそればっかりになる。また高級ブランド品を買い漁るのが趣味で、好きなものにはいくらでもお金を出してしまう。ドストエフスキイは案外ぼくらのとなりにいるものだ。もしかしたらじぶんがドストエフスキイかも知れない。亀山郁夫『ドストエフスキー父親殺しの文学』NHKブックスには次のように書かれている。
《ともあれ、フロイトの存在も、フロイトの理論も知らなかったドストエフスキーは、父親の殺害と癲癇の発作を結びつけている見えざる謎を、ひたすら直感にしたがって論理化し、表象化するほかに手立てはなかった。》(35頁)
ドストエフスキイ自身は「エディプス・コンプレックス」を知らなかったが、フロイトは「エディプス・コンプレックス」の好例としてドストエフスキイを研究対象にしたという。○○コンプレックスの○○に何が入ろうと、おそらくドストエフスキイの作品はそういう病的な人間を包含してしまうのではないか。ドストエフスキイを読むということは、理解に苦しむ行動に出てしまう人間を、たとえそれが他人であろうと自分であろうと、ひとつの典型として捉える強靭さを養成してくれるとぼくは思う。亀山氏は続けて書いている。
《父親の殺害と癲癇の発作──、それはまさにドストエフスキー文学の根本に大きな空白をうがつミッシングリングである。彼の小説において、癲癇の発作は時として二重性をおび、暴力的に人間をねじ伏せる力のメタファーとなり、ある時はまた、万物調和という美しい夢の尽きることのない泉ともなった。そしてこの二重性こそ、ドストエフスキーの小説の基本構造をなぞる二つの力と呼んでも過言ではないのである。》(35頁)
ドストエフスキイを体験した後とその前とでは、明らかに人間観が変更されている。読者はみなそれを知るだろう。だから、読まない方がいい人もいる。じぶんの人間観に自信がある人は特に要注意だ。逆に、人間不信に陥った人にはこれ以上の頓服薬はない。絶望せる若者よ、もし君が人間にとことん嫌気がさしているのなら、騙されたと思って、ドストエフスキイの小説を手にするといい。
 
 
2013.9.18
思考が調子いい。秋めいてきた所為かな。夏の欲情が少し沈静化して秋の知性が回復している感じ。先日、池袋にある古書店(古書ますく堂)にて、『荒地詩集1955』を購入した。そこには、荒地出版社行きの読者カードも挟まっていて、そのレア感に身震いした。荒地読者カードには、項目として「御氏名」「年令」「職業」「御住所」「御買上書店名及び住所」「御購読新聞名」「御購読雑誌名」「最近御購読になつた書籍名」「外国で最も好きな詩人名」「日本で最も好きな詩人名」「月刊荒地についての御希望」、そして最後に「☆この読者カードによつて、今後種々の御連絡を計りたいと思いますから、お手数でも是非御記入の上後投函願います。」と但し書き。今はその名も消えてない出版社の旧住所に、空欄を埋めてこの葉書を出したらどうなるだろう。宛先不明で戻ってくると思うが、もしかしたらあの世にいる鮎川信夫や黒田三郎、北村太郎や田村隆一の元に届いて、「死せる詩人の会」から招待状が送られてきたりして、そんな想像をすることはとても気分を高揚させてくれるのだ。外国で最も好きな詩人は、20年前はユゴー、10年前はリルケ、最近はプレヴェールである。日本で最も好きな詩人は、20年前は宮沢賢治、10年前は黒田三郎、最近は尾形亀之助かな、人間は趣味が変わり趣向が動くものである。『荒地詩集1955』の104頁には田村隆一の「にぶい心」が載っている。
 
◇にぶい心  田村隆一◇
 
ぼくの知つている子供といえば
下町の死んだ子供たちだけだ
 
空から落ちてきたとしか思えない
あかさびた非常梯子をよじのぼり
 
つめたい電線より高いところが
きみの最初の隠れ家だ
 
ぼくを呼んだのは?
きみの仲間だよ
 
二度目に呼ぶのは?
きみの妹さ
 
三度目に呼ぶのは?
おかあさんかな
 
四度目は?
コンクリートにふる雨だよ
 
五度目は?
黒い蝙蝠傘をさした人だよ
 
六度目?
その人の疲れた心だよ
 
七度目?
世界のおおきな嘆息だよ
 
八度目?
さあ下りたまえ! ぼくは忙しいんだ
 
 
ぼくはこの詩を使って、「ぼくの知つている詩人といえば荒地の死んだ詩人たちだけだ」と云ってみたくなる。それで八度目に「さあ下りたまえ! ぼくは淋しいんだ」と叫んでみたい。詩人は年をとってもエロだった人が多い。田村隆一をイメージキャラクターにした「おじいちゃんにも、セックスを。」という広告が懐かしい。ぼくも詩をいろいろ書いてみているが、最近はエロが表面化しているような気がする。エロティックである方がいいと思い始めている。年令のせいかな。20代は、極力じぶんの性的な部分を隠蔽しようとしていたと思う。30代は、それが少し漏れ出したが、うまく誤魔化せたと思う。40代になって、とたんにエロ志向が強くなってきた。プラトン『饗宴』岩波文庫には次のようにある。
 
「例えばこうです.創作(ポイエーシス)にも沢山の種類があることは貴方も御存知ですね。実際、およそある物が無から有へ推移するとき、その原因となるものは、皆つまり一種の創作活動です。ですからあらゆる芸術の範囲に属する作品は創作で、またそういうものの制作に従事する者はすべて創作家(ポイエータイ)なのです。」
「その通りです。」
「しかしそれにもかかわらず(と彼女はいう)、御承知の通り、この人達は創作家とは呼ばれずに、他の称呼を持っています。人は創作の全領域からその一部を、すなわち音楽(ムーシケー)と韻律(メトラ)とに関するものだけを引離して、これに全体の呼称を与えています。実際これだけが創作(詩作)と呼ばれまたこの種類の創作に携わる者だけが創作家(詩人)と呼ばれているのです。」
「たしかにそうです、」と私はいった。
「ところがこれは愛(エロス)の場合でも同様なのです。一般にいって、善きものや幸福に対するあらゆる種類の欲求はすなわち何人にとってもきわめて強大にして狡計に富む愛(エロス)にほかならないのです。それにもかかわらず種々異なった途を取って、たとえば蓄財とか、運動とか、愛智(フィロソフィヤ)とかいう方面からそれに向う人達を指して、あれは愛しているとか、または愛者(エラスタイ)だとかいう人はいない、が、これとは反対に、一つの特定な種類の愛に向い、これを熱求する人々のみが愛という全体の称呼を独占して、愛するともまた愛者ともいわれるのです。」
(113頁から114頁より引用)
 
創作と愛、ポイエーシスとエロスについて、言及されたこの部分からぼくはインスピレーションを受けた。それで、ポエム+エロス+ジジイで、ポエロジイという造語を考えた。ぼくは、西條八十や金子光晴や黒田三郎や田村隆一のようなポエロジイな男たちから多くのことを学んでいこうと思う。ここに「ポエロジイ宣言」の第一を掲げておこう。
一、    詩人は知的であらねばならぬ
二、    詩人は霊的であらねばならぬ
三、    詩人は性的であらねばならぬ
 
 
2013.9.19
満月をじっと眺めていた。生命の奥からふつふつと力が漲ってくるのを感じた。うおーと叫びそうになった。叫んだら、あいつ変身するぞ、と周りの人に思われたかも知れない。変身できるなら変身してみたい。狼男ではなく巨大なマンモスか鯨に変身してみたい。ティラノサウルスもいい。ゴジラみたいに火を吐けるともっといい。でも街は壊さない。忍び足で、人に迷惑がかからない様に、静かにしている。そして、じっと月を眺めるのだ。きょうはクラシック音楽が似合う。ベートーヴェンのピアノソナタ第14番、作品27の2「月光」。その次はドビュッシーの「月の光」を三回リピート。それから、シューマンの「トロイメライ」。最後にマスネの「タイースの瞑想曲」。穏やかな気分になって眠ろう。
 
◆満月に向かって  2013.9.19◆
 
まんげつにむかって
まんげつにむかって
まんげつにむかって
ああ ぼくはきみとサイクルしたい
きみのサドル
きみのサドル
きみのサドル
おお
ぼくのハンドル
ぼくのハンドル
ぼくのハンドル
 
まんげつにむかって
まんげつにむかって
まんげつにむかって
ああ ぼくはきみとサイクルしたい
きみのペダル
きみのペダル
きみのペダル
おお
ぼくのベル
ぼくのベル
ぼくのベル
 
まんげつにむかって
ああ ぼくはきみとサイクルしたい
うおう うおう
まんげつにむかって
まんげつにむかって
まんげつにむかって
 
ふたりのブレーキ
 
 
2013.9.20
友人に誘われて生まれてはじめて酸素カプセルに入った。なんだかこれから宇宙に行くような大げさな機械の中に閉じこめられたので、思わず笑ってしまった。カプセル博士に呼ばれた。サンソエフスキイ兄弟は、機械の説明を間抜け面したまま聞いていた。博士は云った、「じゃあね。そのままこのカプセルのね。なかでね。死んでね。いやいや休んでてね」。兄弟は口をあけたままその中に閉じ込められた。これから、この機械でタイムスリップの実験が行なわれるのだ。兄は100年前に、弟は100年後に、それぞれ目標到達点を設定され、いよいよスタートボタンは押された。インターフォンで、博士と兄弟たちは繋がっていた。「はは、はかせ、な、な、なんか、耳が痛いのですが」「それは気圧のせいね。耳から空気をだすとね。ぬけますから」「はかせ? 100年前に知り合いがいないのですが」「ああ、きみのおじいちゃんがそろそろおばあちゃんと出会っているころだからね。心配いらないね」「100年後の世界がもしなかったら、おれ、そこで何すればいい?」「ないかもね。そうか、もうないか」。そんな会話を想像して、ぼくは酸素を吹き出すくらいひとりで笑っていた。60分して、外へ出た。なんの効果も感じなかった。ぼくは笑いすぎて酸素を台無しにしてしまったのかもしれない。
 
 
2013.9.21
人間は、誰もが生まれて、生きて、死ぬ。その三様態だけみると、みな全く同等である。それを逸脱することを企てても無駄である。どんなに短くても、長くても、濃くても、薄くても。生まれて生きて死ぬ。そう思って、図書館に本を返しにでかけ、新たに本を借りて帰った。人がいた。男、女、子ども、大人。みんな平等だ。なのに、どうしてこんなにもみな違うのだろう。杖をついている高齢者。車を運転しているおじさん。自転車で駆け抜ける女学生。子連れのご婦人。やあ、どうしたの? 知り合いに挨拶する青年。ぼくの旧い友人が、気軽に詩をみんなで学びあう場ポエトリーカフェを主催して四年になる。2009年10月31日に開催された記念すべき第一回にぼくは参加している。ここまで続くと、さすがにこの第一回参加が伝説と呼べるかもしれない。詩は作品鑑賞がメインである。詩を目で見て、声に出して、それを聞いて、また読んで、そして作品の意味や作者の意図についてあれこれと考えを巡らせる。この行為をひとりで行なうことが詩の楽しみ方にちがいないのだが、ポエカフェの場合、参加した10人20人の人たちとその場でそれをシェアする。独特な空気が生まれる。詩を真ん中にして人が見えない糸でつながってゆく。素敵なことだ。第一回で取り上げられた詩人は三人。島崎藤村、北原白秋、中原中也。手探りではじめた会だったので時間配分も予想通りにはいかない。作家の経歴を追っているだけでどんどん時間が過ぎてゆく。主催者は焦る。休憩しよう。あ、もうこんな時間。いやあ、濃いね。作品を読む時間は足りなかったが、このあとをひく感じがいいのだ。ぜんぶ知らなくても、宿題が残れば、また作品に触れたくなる。こうして、近代詩熱が感染し、伝染し、発症する。近代詩中毒。ポエトリー中毒。ポエ中。死せる詩人たちが夜空で笑っている。おい、そんなにかいかぶらなくていいぞ、おれの言葉なんぞ、そんな大したことじゃねんだからよ、かっかっかっか。ぼくは会場だった珈琲&jazz喫茶去の一室で、100年前にタイムスリップし、藤村らの隣で彼らの笑い声を聞いていた。それは幻なんかじゃなかった。詩を持ってくれば、彼らはそこにやって来る。これは間違いないことなのだ。言葉にはそういう力がある。祈りとは、呪いとは、願いとは、望みとは、ぜんぶ言葉で行なう営みではないか。そこに死者と生者の区別はない。死んでいる人もぼくらに望むし、ぼくらも死者に願うのだ。生まれて生きて死んでいく。それだけのことだ。それだけのことに、言葉は執拗に付き合っているのだ。明日の課題詩人が、北原白秋だという。ぼくの親父は佐賀県出身で福岡に親戚がいる。九州から上京し早稲田大学に通う。東京で事業を興し、結婚。ぼくらが生まれた。北原白秋の経歴と無縁ではない。だから、どこか郷愁を共有できる気がする。日本でもっとも有名な童謡の一つ「この道」。四番まであるこの詞で、ぼくには考え中のことがある。一番が「この道は」、二番が「あの丘は」、三番が「この道は」、四番が「あの雲も」となっている。ところが、ある本にはこれが「あの雲は」となっている。例えば、ハルキ文庫の『北原白秋詩集』がそうだ。なぜ「も」が「は」に変わったのか? その疑問を角川春樹事務所に電話をかけてぶつけてみると、「いやあ、すみませんでした。どうやら『も』の方が正しいようです」と担当。しかし、他の文庫にも「も」が「は」になっているものがあった。おかしい。これには何か他にわけがあるにちがいないと名探偵ポエムがつぶやく。では作者はどう考えていたのだろう。「も」でなければならないなら、その理由はなにか? 「も」が「は」に変わった経緯があるなら、それはなんだったのか? 答えが知りたい。知りたいけれど、ぼくにはそれを調べる暇がない。ほんとうは徹底調査したいのだ。でも面倒臭いのだ。真相をつかんだ者に、ぼくは賞をあげたい。詩における助詞の意味についての研究賞。北原(拍手)。いい宿題でしょ。かっかっかっか!
 
 
2013.9.22
都会の片隅で飛蝗(ばった)に出会ったことはあるだろうか。ぼくは今朝、マンションのロビーでばったりと殿様飛蝗に遭遇した。じっとこちらを見て動かない。死んでいるのか。いや、複眼で、ぼくの動きを監視している。すきがない。こちらも覚悟を決めた。男と男の一騎打ちである。幸い、飛蝗は角にいる。正面から攻めれば、跳ね上がってもこちらの掌のなかだ。勝算はある。右手を徐々に彼の頭に近づけていった。飛蝗はごくりと唾を飲み込んだ。がまんの限界。とうとうホッピング! よし、取ったり。やったぜ! こいつを家に持ち帰り、子どもたちに自慢してやろう。どうだ、今年はトノサマバッタをしとめたぞ、ぶはははは。車にもどったぼくは、ビニール袋に彼を入れて、仕事の作業の続きをした。ビニールの中でおとなしくしていた殿様は、しばらくすると、再びもがきだした。ホッピン、ホッピン。そのたびにビニールはバカバカと大きな音を立てた。威勢がいいな。おい、殿様、往生際が悪いと皆に笑われるぞ。こちとら、鳴く虫も黙る、虫取りの翁ことグラスホッパーマン1号だぞ。ビニールが跳ね上がる。凄い力だ。うん、このままじゃ、窒息死してしまうかもしれない、と油断したのがいけなかった。わずかの隙間から、殿様は逃げ出した。あわてて両手で押さえ込もうとした瞬間、彼は羽を大きく広げてビタビタビタビタと茂みの奥へと飛んでいってしまった。ぼくはバッタに羽根があることを忘れていたのだ。飛蝗(ばった)! 飛蝗(ばった)! 名前の通りの威厳にみちた逃走劇。まったく見上げたもんだぜ。あっぱれだよ。それにしても、久しぶりの興奮を味わった。少年時代、草原を、イナゴやバッタやカマキリを追い回していた日々が懐かしい。少年は無垢だと云われるが、それは残酷さと裏腹な無垢なのではないか。哲学的に表現すれば、純粋は愚かさと表裏であり、無垢は残酷さと表裏である、と云えるだろう。大人は、子どもに勝手な理想を投影したがる。少年の心のカンヴァスは真っ白だが、出会いや経験が次第にその白さに色を加え、気が付いたら汚れた大人になっている、誰も純粋のままではいられないし、無垢のままにとどまることはできない、と。ほんとうだろうか。否、ほんとうはそんなことはないのだ。ぼくは少年の頃から十分に残酷だったし、計算高かった。ひねくれた心や妬む気持もあったし、ある時は殺意を抱いたことだってある。昆虫や小動物をむやみに死に至らしめ、へへへと笑っていたこともある。恐ろしい生き物である。大人が考えている以上に悪魔的だ。その少年が、きょう飛蝗を一匹捕まえた。そして、逃げられた。すごく残念な気持になった。なんか100万円を損したくらいがっかりした。正気に戻ったぼくは思った。ああ、バッタくん、逃げられてよかったね。虫かごなんかに入れられたら、もう君は自由に飛び跳ねることができなくなる。それから君には、草原を思いっきり跳ねている姿がやっぱりいちばん似合っているのだから。こういう温かい眼差しこそが、大人の視線なのではないだろうか。子どもたちよ、今はどこまでも残酷でいいし、愚かで構わない。しかし、知ってほしい。人間は賢く成長し続けるから人間なのだ。そして、心優しく慈悲が深まるからこそ大人と云えるのだ。純粋なんて言葉に騙されるな。無垢なんてどこにもありゃしないからな。
 
 
2013.9.23
◆時にタイタン  2013.9.23◆
 
俺さ 
夜中になると巨人になるんだ
すごくでっかくなるんだよ
山なんか一つまみだし 
クジラがメダカみたいになっちゃうんだ
このまえなんか背伸びしたら月に手が届いちゃって
危なかったよ 
月の軌道が少しずれてたら今頃たいへんだったろうな
時間が狂って
潮の満ち引きも狂って
一年が12ヶ月から13ヶ月になったり
いろいろ変えなくちゃならなくなっただろう
マーラーの交響曲第一番第三楽章のメロディーを口ずさみながら
俺は散歩をするのが好きで
気が付いたら土星まで来てたりする
朝までにじぶんの部屋に戻らないと
妻や子らが心配するからさ
あわてて戻るんだ
でもほんとうはアンドロメダまで走ってみたいんだよ
銀河を飛び越えるなんて
すごく素敵なことだろ
 
 
2013.9.24
今月もずっと書いてきた。書いていないと気がすまないのだ。書いている時のじぶんが一番リラックスしている。遠慮がない。特に、詩を書いている時の自由度は他と比べものにならないくらい大きい。どこまでも羽ばたいていける。ことばの遊びに過ぎないと云われたらそれまでなのだが、およそこの世に生まれて、君は何がしたかったのかと問われれば、遊びたかったのさ、と答えるしかない。遊びに来たのだ。のだ。のだ。ぼくのだ。それはぼくの、なのだ。とまたことばで遊んでしまう。うちには小学生の娘がふたりいる。彼女たちが、机のうえに消しゴムや鉛筆を並べて、それぞれに役を与えて、セリフを語らせていた。聞いていると面白い。「それって浮気じゃない」「ラブホにいく?」「ええ、スケベ」。おいおい、と思う。テレビドラマや小説のなかのことばから、お話を作って遊んでいるのだ。わが娘ながら、耳どしまもここまでくると、立派な役者じゃわい。そういえば、ぼくが小学6年生の時、移動教室から帰ってくるバスの中で、こんな論争があった。女子A「男のからだと女のからだをくっつけると子どもができるんだよ」。女子B「それってセクシイっていうヤツでしょ」。ぼく「おい、それはセクシイじゃなくてセックスだろ」。女子B「ええ、ちがうよ、セクシイだよ」。セクシイ&セックス論争をぼくらが大声でやっていたら、担任が居たたまれなくなったのか、「やめなさい、そんな話は!」と顔を真赤にして怒鳴った。その担任は授業中、いつもカメラをいじっていた。女性の裸の写真が掲載されている写真専門誌を教室に持ち込んだりしていた。今思えば、ろくでもねえ教師が世の中にはたくさんいたのだ。理想的な教師なら、そこで大江健三郎を持ち出し「それは違います。セクスです。セクスという言い方の方がきれいですよ」と教えてくれただろう。「サシスセソでいえば、サックス、シックス、スックス、セックス、ソックス、という言葉が出てきます。今のところスックスの使い道が決まっていませんね。どうでしょう。君たちでそのことばの意味を作ってみてはいかがでしょう」なんて、宿題を出すくらいの先生がいたっていいのに。
 
コルトレーンのサックスを聞きながら6杯目のカクテルを飲み干して
激しいスックスで踊りつかれてしまった
だからもうセックスする気はないのだと彼女は云って
ソックスを脱いで丸めるとダストボックスめがけて投げ捨てた
 
ここでのスックスはダンスの名前かな。スックス:モダンジャズをバックに盆踊りのような舞踊をすること。または、その踊り手。
 
 
2013.9.25
雨のウェンズデイですよ。でも、仕事が忙しくてゆっくり音楽が聴けなかった。それよりも、もっと大きな出来事があったので報告する。今朝、仕事を終えて帰宅すると、マンションのエレベータホールで殺気を感じた。見上げると、天井に大きな蜘蛛がいる。ぼくの手のひらより大きい。でた! と思った。こいつはリベンジのチャンス。おととい飛蝗(ばった)を逃したぼくである。よし、と態勢を整え、蜘蛛に軽くモノをなげると、どかっと落ちて来た。八本の足で素早く逃げようとするスパイダーを両手で捕獲。やったぜ! みたか平成のスパイダーキラー蜘蛛丸さまの技のキレ。コーガ忍法蜘蛛糸封じなり。昨年カブトムシ用に使っていた虫篭が空室だったので、そこに入れて、子どもたちに自慢した。どうだ、この大きな蜘蛛。「キモイ」「いらないよ」「はやく捨てて来て」。評判が悪い。しかし、そこは父親の権限を利用して、「これはぼくの友人です。落ち着く先が決まるまでここに置かせてもらいます」と主張。今、スパイダー君は、虫篭の天井に捕まって休んでいる。手足がながくてとってもスタイルがいい。お腹の部分が頭だとすれば、足が八本あるから蛸(たこ)にも見える。足の付け根はタラバガニに見える。蜘蛛は六本足の昆虫たちとは別の種類に属する。実にユニークな存在だ。しかし、上手に手足がうごくなあ。滑らかに移動していく。この柔軟さが獲物を捕らえるときに有効なのだろう。さあ、気分を上げていくために、音楽の時間だ。今夜はくるりの「ロックンロール」。
 
◇ロックンロール  岸田繁◇
 
進めビートはゆっくり刻む
足早にならず確かめながら
涙を流すことだけ不安になるよ
この気持が止まらないように
 
それでも君は笑い続ける
何事も無かった様な顔して
僕はただそれを受け止めて いつか
止めた時間を元に戻すよ
 
裸足のままでゆく 何も見えなくなる
振り返ることなく 天国のドア叩く
 
たったひとかけらの勇気があれば
ほんとうのやさしさがあれば
あなたを思う本当の心があれば
僕はすべてを失えるんだ
 
晴れわたる空の色 忘れない日々のこと
溶けてく景色はいつもこんなに迷ってるのに
8の字描くように無限のビート グライダー飛ぶよ
さよなら また明日 言わなきゃいけないな
 
 
2013.9.26
(一回休み)
 
 
2013.9.27
◆串刺し  2013.9.27◆
 
お団子が四つ
串刺しにされている
みたらし
みたらし
みたらし
みたらし
漢字に変換すると「御手洗」
おお 
おてあらい
おてあらい団子じゃ売れないぞ
やっぱり
みたらし
でも
換言すると「見たら死」
おお
怖いよ
 
ところで台風は?
太平洋上で低気圧に変わったらしい
 
星がきれいだ
 
三つまでは前からいける
だが
四つ目は横からしかいけない
もし無理にでも前からいこうとすれば
串が喉の奥に突き刺さってしまうだろう
 
ああ 夜空が美しい
半月が星座にまじって鮮やかに光っている
 
みたらしは女たらしとどこが違うのか
女たらしと鼻たれ小僧はどこが違うのか
 
四つ目のお団子を横からくわえて食べきると
君はいつまでも串をペロペロと舐めている
 
そしてぼくはといえば
星の降る街をジョバンニのように駆けて行く
 
 
2013.9.28
◆赤の中の世界  2013.9.28◆
 
Taxi
から出てきたハイヒールは赤だった
Umbrella
の下に隠れているくちびるは赤だった
Cigarette
を挟んでいる爪の色は赤だった
CHANEL
の店頭に飾られていたショルダーバッグは赤だった
Maria
が舌を出したら赤だった
Note
に書いた文字の色は赤だった
Poem
はいつも赤だった
Balloon
はどれも赤だった
 
赤だったものを広場に集めて写真を撮る
もちろんフィルムはモノクロ
だから
白黒

Photograph



写っている
世界

赤だった
 
 
2013.9.29
◆ぼくが聴いた永遠の声  2013.9.29◆
 
雲の切れ間に青空が見えると
どうして幸せな気分になれるのですか
とぼくがきくと
それはあそこへゆけば君が君らしく居られる場所がみつかるからだよ
とぼくはこたえた
ぼくがぼくらしく居られる
ああ 確かにそれは幸せにちがいない
これからの人生 
果たしてあとどれくらい
ぼくはぼくらしく居られるだろうか
きょうの雲はゆっくりと流れている
そして
青い光は永遠をそっと届けてくれる
 
 
2013.9.30
没後80年の宮澤賢治。ああ80年というのはあっという間だ。現在90歳の人なら、賢治さんに会えたのかと思うと、すごく身近な存在のようにも感じる。いや、実際日本人のぼくらにとって、宮澤賢治さんはとても身近な存在だ。作品がこれだけ出版され、研究も次々出されている。1933年(昭和8年)9月20日急性肺炎の兆候、短歌二首(絶筆)を墨書する。夜、来訪の肥料相談者に応対して疲労。21日容態急変、『国訳妙法蓮華経』一千部の刊行頒布を遺言し永眠。その年の事項を見ると、岩手県豊作。1月ドイツ、ヒトラー内閣成立。2月小林多喜二虐殺。3月三陸大地震大津波。日本国際連盟を脱退。5月米国ニューディール政策実施。『図説宮澤賢治』ちくま学芸文庫(2011年5月10日発行)の略年譜には、そのように記述されている。詩を引用しよう。
 
ちひさな自分を劃ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ
 
(宮澤賢治「小岩井農場」パート九より)
 
いやあ、さすが賢治さんだわ。ぼくのポエロジイ第一宣言は、この詩を源としている。この詩句に遭遇したのは20歳の時だった。友人のMくんが宮澤賢治の詩集を片手に、大学の図書館の会議室に現われ、『春と修羅』の序を朗読してくれた。それを聴いてぼくの全身に電流が走ったのだ。すぐに図書館で詩集を借りて読み耽った。ぼくがずっと知りたかったことがそこに書かれていた。性欲から恋愛へ、恋愛から宗教情操へ。昇華。これで生きよう。一本の筋道がぱあとひらけた。知的な営みは頭で行なう。性的な営みは下半身がになう。これが恋愛に於いてずっと対立していたのだ。理性と欲望の相克だ。理性は禁欲を迫ってくる。性欲は解放を要求する。ぼくは女の子を好きになる。恋愛はイメージの世界だ。言葉にならない気持を必死に言葉に変換する。詩でウソをつく。知的な操作でごまかすのである。性的慾動(リビドー)はすべての動力である。それを完全に抹殺すれば、人間は動かなくなる。性的な爆発を知的に制御しながら、ぼくらはなんとかじぶんというかたちを保持している。そうした葛藤のなかに生き続けることは実に辛い。ぼくは21歳から28歳までの7年間、みずから恋愛禁止(禁欲)という戒律を設けて実践した。どのような誘惑にも負けず、性的慾動を知識欲で制御しながら、霊的に生きることを選んだのだ。宮澤賢治さんがぼくの先導役だった。この7年の蓄積が、その後の詩的爆発につながっている。この破天荒な試みは周囲には理解されなかった。道化師である。だがそれでいいのだ。霊的であることをここできちんと定義しておこう。それは知的であることと性的であることの総合である。知性(理性)と感情(欲望)との対立を止揚して全体性を回復すること、それを霊的であると考えたい。この時、身体と精神との区別は消滅する。つまり身体こそが精神であり、精神とは身体のことであるということになる。この段階では、論理的な表現では矛盾に陥る。そこで詩人の言葉が要請させる。
 
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
 
(宮澤賢治『春と修羅』序より)
 

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