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物を書くことから逃げていた自分

 ここ数年の間に、あらためてぼくは物を書くことが好きなのだ、ということに気が付いた。

 ぼくが、文学らしきものに触れたのは、中学生のときだった。まるで本など読まず、好きな野球ばかりやってきていたぼくだった。

 そんなある時、同級生が星新一のショートショートの文庫本を貸してくれたのだ。

 「絶対おもろいから、読んでみ」

 そう言われて、しぶしぶ読んでみると、本当に面白かった。本を読みなれていないその時のぼくにとって、ショートショートはとても読みやすく、そしてその星新一氏の書くちょっと不思議な世界がとても魅力的に思えたのだ。

 それ以来、ぼくは本が大好きになり、いつしか自分も小説を書いて、小説家になるのだ、という夢を抱き始めることとなる。

 そして、高校受験のころから、受験勉強の傍ら小説を書いたりしていて、大学に入っても文芸部というサークルに入って小説の習作を書いたりするのだが、社会人になり、仕事も忙しくなり、次第に創作からは離れていくことになる。

 その後結婚し、子どもも生まれ、いつしか昔小説を書いていたことなどは、妻や子供に対しての単なる自慢話のひとつのネタのようになってしまった。

 暴走族をやっていた男が、更生してまじめな社会人になった後も、かつての武勇伝を語りたくてしょうがない、というような感じに似ているかもしれない。

 仕事が忙しいから。

 その言葉を理由に、ぼくは文章を書くことからとても遠いところにまで行ってしまっていたのだろう。

 でも、心のどこかで、いつも何か空虚感を感じていたことは確かだった。そして、その空虚感は何なのか?

 それは自分ではよくわかっていたのだ。

 しかし、いつか割り切ることができるだろうと、何かで埋まる時がくるだろう、と無意識に思っていたのだと思う。

 小説以外に、陶芸、写真、オカリナやガラス細工なんかに手を出して、自らの創作欲を満たそうとしたが、どれも実らず、空虚感も埋まらなかった。

 そんな中、ブログというものに出会うのだ。

 ブログで表現する愉しみ、そして文章を書く喜びをそこで再び見出すことになったのだ。

 そして、小説をもう一度書き始めようという気になった。

 しかし、いざ書き始めてみると、なかなかうまく書けない。
もともとそううまく物語や文章が書けるほうではなかったけれど、それでも長いブランクは取り戻すのが難しかった。

 学生時代に書いた習作を読み返してみると、内容は浅くてお話にもならないものだけれど、感性や文体は、とても今に書けるようなものではないくらい光るものを感じたりした(自分で言うのもなんだけれど)。

 長い年月、ビジネス文書のような、味気ない、物を確実に伝えるだけの文書ばかり書いてきた結果かもしれない。

 でも、小説や、想いを伝えることを、今noteでしていると、とても充実感を味わうのだ。

 多分、これまで小説を書くということから逃げていたんだろうと思う。

 それは、ぼくにとってとても大きな夢であったし、それがかなわなければ書く意味なんてないのだ、と思っていたから・・・だろうか。

 今、感じることは、小説を書くこと、文章を書くことは、ずっと昔から自分の一部として、消えずに残っていたのだ、ということ。これが、ぼくの正体、真に望んでいたことなのだ、と。

 たとえ、駄文でもいい。売れなくてもいい。しかし、言葉というもので自らの想いを形にしたい、小説というもので形にして、誰かに伝えたい。

 逃げていたのは、夢は叶いっこないと思い込んでいたから。

 だけど、書くこと、その行為そのものがぼくの望みであり、夢であるのだと、なんとなくわかってきた。

 趣味で、音楽をやる人、絵を描く人、陶芸をやる人、写真を撮る人。そのような人はいっぱいいる。もちろんその人たちの中には、プロを目指しているけれど。

 ぼくはでも、小説を書くことは、職業でなくてはならない、と思い続けていたのだ。だからもう、書くことができなくなっていたのだ。

 だけど、noteに小説やエッセイなんかを投稿するようになり、そうではない、ということに思いいたったのだ。

 好きだから書く。
 書くことが自分の一番やりたいこと。

 ただそれだけだったのだ。

 もちろん、自分の作品が認められることはとてもうれしいことだけれど、それ以前に、書くことで、欠けていた自分のピースを見つけられたように思う。

 今は、書くこと、そして創作を、時に苦しみながらでもあるけれど、楽しくやっている。
 ようやく本当の自分を取り戻したような気がするのである。

 本当に長い回り道をしてしまったけれど。

#創作にドラマあり

読んでいただいて、とてもうれしいです!