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【短編小説】夏ーあるいはとても個人的なある夜(1/2)

  季節外れではありますが、”ある夏の一夜”を題材にした短編小説です。
 過去に「小説家になろう」に投稿した短編小説を、note用に少しだけ手直ししたものです。
 微妙な長さのため、2回に分けて投稿します。

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 大学に入って、もう三度目の夏だった。

 このところ、毎日のように激しい雷鳴を伴う夕立が訪れていた。
 そんな時彼はいつも、幼かったころ二人の姉にしがみつきながら、夕立が行き過ぎるまでぶるぶると震えて丸まっていたのを思い出すのである。古い家の薄暗い部屋の下、ひんやりとした畳の冷たさを感じながら。

 大学が長い夏休みに入り、いやに分厚い長編小説を一冊読み終えたころ、彼はまるで何かの儀式を執り行うかのように、何度も電車を乗り継ぎ、時間をかけて生まれ育った家へと帰省した。
 それは多くの学生たちが、渡り鳥のように一斉に大学から姿を消してしまったあとのことだった。

 ある夜。
 それは、色褪せた校庭の隅っこに、ポツンと忘れられたように転がっている、そんな古い記憶のような夏の夜だった。
 長かった日もようやく暮れて、彼は縁側にうつ伏せに寝ころびながら、傍らに缶ビールを置いて小説を読んでいた。
 窓からは、時折涼しい風が入り込んできてはレースのカーテンを柔らかく揺らしている。夕方に激しい夕立があったせいか、風は少し湿気を含んでいた。

 庭にある敷石や、こんもりとしたつつじの葉が月明かりに静かに照らし出されている。
 年の離れた二人の姉が、子どもたちを連れて帰ってきていた。
 二人の姉とは、年が一回りほど離れていて、そのため彼は兄弟で喧嘩をするということはほとんどなかった。彼はどちらかと言えば競争心に乏しい性格であったのだが、それはもしかしたらそういった環境によるのかもしれなかった。
 次女の方は彼が十歳の時に、長女の方は十四歳の時にそれぞれ結婚し、両方ともに二人の子どもがいた。次女の方には、八歳の女の子と六歳の男の子、長女の方には六歳の男の子と四歳の女の子だ。

 いつに間にか、缶ビールは空になっていた。彼は読みかけの小説を縁側の板の上に伏せて、ビールをもう一本取りに台所へ向かった。
 居間には、綿の下着姿の父親がいた。父は大きな背中を丸めながら、籐でできた敷物の上に胡坐をかいて座っていた。
 言うのもはばかられるが、彼は父のことを掛け値なしに優しい男だと思っていた。そして、その物静かな男は、孫たちから間違いなく好かれていた。
 
  ※  ※  ※

 彼は、父が怒ったところをほとんど見たことがない。しかし、そんな父がたった一度だけ、十二歳のころの彼に向って怒鳴ったことがあった。その出来事は、彼にはとても理不尽に思えて、どうして父があんな風に怒ったのかわからなかった。
 それは、彼がある本を探すため、父親に頼んで、家から少し離れたところにある本屋まで、車で連れて行ってもらう時のことだった。
 車は、ブルーの色が少しはげかけた、古い日産バイオレットだった。
 彼の父は仕事でよく車に乗っていたため、多くの道を、その狭く込み入った路地に至るまでもよく把握していた。そのため、彼は当然その本屋の場所のことも父は知っているだろうと、大まかな場所だけ父に伝えたきりで、道案内をしなかったのである。
 時刻はもう夕方で、その日は今にも雨の降りだしそうな黒くて重たい雲が空を覆っており、実際走り出してから間もなくすると、叩き付けるような大粒の雨が激しく降りだした。
 本屋までは車なら十五分もあれば着くはずの距離だった。
 ワイパーがまるで折れそうな勢いで水滴を左右に吹き飛ばしている。彼は、子どもがよくするように、雨粒がワイパーによってフロンドガラスの端に追いやられ、そして小さな小川のようになって流れていく様子を何とはなしに目で追いかけていた。
 父は一言も話さなかった。
 雨足がだんだんと強くなり、彼は本屋に行くには少し時間がかかりすぎているのでは、と疑問に思った。
 窓の外を見やると、道路はまるで蚊帳をかけたように暗い鼠色をしており、立ち並ぶ家々はまるで見覚えのない景色になっていた。
 彼は不安になり、無表情にハンドルを握る父の横顔に目を向け、小さな声で、ここはどこなのか? と父に尋ねた。
 そのあと、一瞬の沈黙があった。暗い森の中で一人取り残されてしまったかのような、そんな感じのする沈黙だった。
 そして、父は突然、なぜ店がどこにあるのか言わないのか? と彼に向ってイライラしたように怒鳴り、おもむろに車を急転回させると、父は、もう本屋にも行かず、一言も話すことなくそのまま家まで帰ってきたのだった。
 普段は温厚な父だったため、この出来事は、彼にとってとてもショッキングな出来事であった。
 そのあと、どうやって家に入ったのかは、彼は覚えていない。ただ、帰り道の灼けるようなエンジンの音、雨水をはねるタイヤの音、そして急転回の際の押さえつけるような遠心力だけは、なぜか今でも彼の記憶のへりにこびりついて離れないのであった。

  ※  ※  ※

 父は今、四歳の女の子を膝に乗せて、他の三人の孫たちとスイカを食べながら、テレビの野球中継を眺めていた。
 台所では、母親が姉たちと洗い物をしていた。
 二人の姉たちは、しきりとそれぞれの夫のことについて不平を言い合っていた。
 母は、彼が来たことに気づくと、
「ビールか?」
と振り返った。
「なんか、おつまみでも作ろうか?」
と言うので、彼は、
「いや、大丈夫」
とだけ答え、冷蔵庫から缶ビールを一本抜き取って縁側に戻っていった。
 いつのころからか、家の中での彼の口数はとても少なくなっていた。また話す時でも、時折ぽとりと落ちてくる雨だれのしずくのような、そんなわずかな分量の言葉しか話さなかった。
 そのため、親はいったい彼が何を考えているかよくわからない、と漏らしていた。

 この縁側の場所は、子どもの頃から彼のお気に入りの場所だった。居間に少しだけ張り出した感じの小さな縁側で、冬はそこにストーブが置かれ、夏はその板の間のひんやりとした冷たさが心地よかった。縁側というものはたいてい日当たりのよい方角にあるものだが、この家の縁側は北側にあるので、昼間でも薄く墨を溶いたような暗い様子で、その感じがなぜか昔から落ち着くのだった。
 押し入れや公園の土管の中が落ち着くのと同じ感覚だったのかもしれない。

 しばらくすると、子どもたちがおじいちゃんを連れて、外へ花火をしに行く気配がした。そしてテレビをつけたまま、外へと出て行った。
 子どもたちのはしゃぐ声が、まるで余韻のように居間の中に残っている感じがした。
 彼はビールを一口飲んだ。外から、涼しい風が入り込んできた。
 夏のこの時間帯、少年の頃の夏の様々な思い出が、透き通った湧き水のようによみがえってくる。そしてなぜか、そのほとんどすべてが心地よい思い出なのが不思議だったが、同時にまた、そのほとんどが子供の頃、おおよそ中学生時代の頃までの思い出であるのが、なんだか少し悲しくもあったのである。


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 ここまででちょうど半分くらいです。
 次回、近いうちに続きを投稿するようにしようと思います。


 読んでいただき、ありがとうございました。

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