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キム・ヘジン『中央駅』感想文~路上生活の物語として読む場合~①

※ネタバレあります。『中央駅』をなにも知らない状態でお読みになりたければ、こちらはソッと閉じてください。読まれた後またこのページを開いてもらえると喜びます。

『中央駅』ってどんな話?

『中央駅』(キム・ヘジン著、生田美保訳、彩流社、2019)は、韓国を舞台とする、路上生活となった若い男=「俺」の物語です。

彩流社のホームページでは以下のように紹介されています。

路上生活者となった若い男、同じく路上で暮らしながら、毎晩、際限なく酒をあおる病気持ちの女。ホームレスがたむろする中央駅を舞台に、二人の運命は交錯する。『娘について』(亜紀書房刊)を著したキム・ヘジンによる、どん底に堕とされた男女の哀切な愛を描き出す長編小説。

この紹介からもわかるように、この小説の主題は「愛」、それも極限状態での「愛」についてといえます。ネットで見られる紹介や感想文でも「愛」や「希望と絶望」に触れるものが多く、「路上生活」についてはあまりフォーカスがありません。

路上生活の物語としての読み応えを伝えたい!

しかしこの小説、路上生活についての描写が実に生々しいのです。修士のときに勉強した貧困についての社会学的な考察や、私の知っている路上生活をしている方と重なるお話が驚くほどあちらこちらにありました。この読み応えをお伝えしたい!

そこで今回は、路上生活の物語として読んだ時の『中央駅』の感想を書いていきたいと思います。次の通り3つに分けて書いてます。どれも大して長くないので、気楽に読んでもらえると嬉しいです。

① 盗まれたカバン/モノを持つことと失うこと

② 療養所に送られた「女」と部屋があるのに路上で寝るハンさん/選択することと支援について

③ 焼酎で守った自尊心とその喪失/ひとりの人間としての物語

盗まれたカバン

この小説は、「俺」がキャリーケース(カバン)を引き駅舎で寝床を探すシーンから始まります。

路上で生活する人たちと空間を共有しつつも、そうした人たちと必死に距離を置いて日々を過ごす「俺」。
しかしあるとき「一緒に寝たい」と言ってきた「女」にカバンを盗まれ、事態は一変します。

カバンを失った今、ようやくそれが俺の全てであったことを悟る。たかだかカバンをひとつなくしただけなのに、俺の状況は果てしなく悪化している。ありとあらゆる不幸な予感が浮かんでは沈む。(P.42)

唯一の所有物を失うという経験。
これはその後の路上生活を決定的なものにします。

想像の中で、カバンはどんどん大きくなる。実際になくしたカバンのサイズとは関係なしに喪失感は深まり大きくなる。(中略)俺は生気を失った老人のように広場を徘徊し、ほかの人たちと似たように行動するようになる。そうして、彼らと何も変わらないということを認めるようになる。(P.59)

カバンを失った「俺」は、路上生活をする人たちと自分との境を無くすことになるのです。

この経験から、「俺」も盗みを働くようになります。

ここではものが絶えずぐるぐるまわっている。所有という概念は成立しない。(P.60)

ものを失うことは「自分をかたちづくるもの」を失うこと

どうでしょう、自分の部屋で所有しているものを見渡すだけでも、いかにそれらが自分をかたちづくっているか感じませんか?たとえば自分の選んだ服、感銘を受けた本、それらを好きな時に引き出せる自分の部屋そのもの。

私は小さなころ自分の机にお気に入りのものを置くスペースを作り、拾った石やもらいものの外国の硬貨を並べていました。姉との小さな2人部屋でも、そのスペースと石と硬貨は私だけのもの。そういう「私だけのもの」たちが成長の過程で変化しつつ、私をつくってきています。そしてそういうものたちは、自分にちょっぴり自信を与えてくれるようにも思います。

そんなことを考えると、「俺」がカバンを盗まれたことは単に生活に必要なものを失ったということにとどまらず、「自分をかたちづくるもの」を失ったということになります。だから、「俺」がカバンについて「俺の全てであった」「サイズとは関係なしに喪失感は深まり大きくなる」といっていることは、決して大げさではないと思います。

この小説では、なにかを所有するということについて全体を通して様々に語られていると感じました。ネタバレが過ぎるので言いませんが、そうした視点を持って読むとまた面白いかもしれません。

②に続きます→

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