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キム・ヘジン『中央駅』〜路上生活の物語として読む場合〜③

※ネタバレあります。

①この記事を書く前提/『中央駅』で読む、所有することについて

②『中央駅』で読む、選択することと支援について

①②の続きです。

焼酎で守った自尊心とその喪失

物語の序盤、「俺」は買ったばかりの焼酎を年老いた女にせがまれる描写があります。「俺」がまだカバンを失っていないときです。

いいか、俺はここに属する人間ではないのだ。金や酒なんか人にねだったりしないのだ。俺は残った自尊心と焼酎二本を喜んで交換する。(P.23)

「自尊心」という言葉が、この物語のなかで初めて出てきます。「俺」はカバンを失っていないとはいえお金がほとんどない状況でありながら、焼酎を失うことよりも(この焼酎は人に頼まれたもので、「俺」はもう1度購入することになりました)自尊心を守ることを優先するのが印象的です。

ところが物語の後半に差し掛かるとき、「俺」は次のように変化しています。いくつかの教会を渡り歩き、お金を得る場面でのことです。

見知らぬ人の前に手のひらを差し出したことのある者は知っている。その小さな手のひらがどれだけ多くのことを代弁するか。すなわち俺は、羞恥心や侮辱感と引き換えにいくらかの金を手にするのだ。そうしていると、そのうちそれがなんだったのかさえ忘れてしまう。路上で一度失ったものは二度と取り戻すことはできない。(中略)羞恥心や侮辱感の次はまた別のものを差し出さなければならず、差し出すものがなくなるまで失い続け、ついに全てを失った自分自身を想像するのは切ないことだ。(P.172)

自尊心は失われていいものなのか?

この変化は、貧困であることは羞恥心や侮辱感を感じる経験を与えるのみならず、自分自身についての感じ方を失わせてしまうのだということを表しているように感じました。

自分自身についての感じ方を失うというのはつまり、自分を尊厳あるひとりの人間としてみなす感覚、自尊心すら失ってしまう、ということになります。

②で、選択の余地は他人に判断できないのだから貧困を自己責任とするのは乱暴だと書きました。しかし、仮に100%あなたが悪い!みたいな状況があったとして、その人は自尊心を失って生活しなければならないのでしょうか。私はそうではないと思います。

ひとりの人間としての物語

「俺」はこの物語の中でたくさん失敗をするし、せっかく得たお金をふいにするようなこともあります。そこがこの物語の良さだと思います。そうした人も含めて社会をつくっているんだということを考えられるからです。

「俺」について貧困状態にない人が描くというのは、一歩間違えれば典型的な「貧困者」として書くような、暴力的な行為になりかねません。しかし著者は(支援センターでボランティアをしていたという経験もあってか)、「俺」を「良い人」にも「悪い人」にもせず、ただ生きている人として描くことに成功していると感じました。

ひとまず読んでみて!

なによりこの本は小説。最初に紹介したような「愛」や「希望と絶望」といったテーマも含んだ物語で、それ自体面白く読めそうです。路上生活の何が問題かよく分からんという方にも、何かしらの関心がある方にも、読み応えのある作品だと思います。

そして今回は「俺」にフォーカスしましたが、登場する人物それぞれがまたユニークで読みどころがたくさんあります。こうした細かさや、一定して抑制された筆致、それから言葉の用い方など、著者キム・ヘジンさんの凄みを非常に感じました。読んでほしい。

読んでほしい!!!

結局はこれに尽きます。

ぜひ読んでみて、もし読まれたらどうぞ感想教えてください!

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