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キム・ヘジン『中央駅』感想文~路上生活の物語として読む場合~②

※ネタバレあります。

前回の記事の続きです。

療養所に送られた「女」

物語は進み、「俺」は「女」と再会して関係を深めます。しかしある日、アルコール依存で腹水が溜まっている「女」は「俺」のいない間に療養所に送られてしまいます。

訳あって医療費の補助金がおりない「女」は、治療するには地方の指定された民間病院にいくしかありませんでした。受け入れ先の病院が政府から助成を受ける仕組みになっているとのこと。

「女」を送った支援センターのチーム長は「強制ではない、本人の同意の上でだ」と言いますが、「俺」は納得しません。

それがどうして強制でないというのか。選択の余地のない人間にたったひとつしか方法が与えられないならば、それが強制でなくてなんなのだ。(P.167)

選択の余地は他人に判断できない

この言葉は「女」が地方の療養所に行くしかなかったことを指していると捉えるのが妥当な場面です。ただ少し引いた目で読むと、「女」が路上生活となり数多の男と性行為を重ねお金を得てアルコールに浸り病気に至るまで、を指しているようにも私には思えました。

誰かにとっての選択の余地は、よくよく話を聞きその人のことを知らないと、なかなか他人には判断できないものだと思います。側からみれば「こうすれば良いのに」と思うけど、当人はそうした情報を得る手段を持ち合わせていないとかいうこともあります。

貧困問題というととかくいわれるのが自己責任ですが、選択の余地がごく限られてしまっている場合を考えると「そんな選択をしたあなたの責任だ」と安易に主張することは乱暴だし正しくないなと思います。

部屋があるのに路上で寝るハンさん

さて場面は異なり、「俺」やまわりの人たちが「自活勤労」をしているハンさんに酒をおごってもらう描写がありました。

「自活勤労」とは、低所得者に労働の機会を提供する政府の自立支援プログラム。その収入で長屋などに住み、自立のために努力することを求めるものです。

しかしハンさんは夜遅くまで部屋に帰らないどころか、部屋代を使い込んだという理由で路上で寝泊まりします。

「えー、あそこじゃ寝られないよ。今までこんな広いところで寝てたのに、あんな狭いところで寝るなんてムリ」
酒をおごってもらう側は彼をハン社長と呼んでおだてるが、実は彼がひっそりとした闇を避けて通りに逃げてくるのだということを知っている。電気の光と騒音、人波が途絶えることのない通りに慣れた人々は、闇と静寂に耐えることができない。(P.65)

路上生活という選択は保障されるべきものが欠けてきた結果

日本でも、住む部屋のない人が安心できる個室で過ごせるよう尽力している支援団体があり、それを望む人もいます。その一方、ハンさんのように路上生活にあまりにも慣れてしまい、そこから離れることに前向きになれない人もいます。

とはいえ、じゃあ路上でお好きにどうぞ、というわけにもいかない。その理由は様々に考えられるかと思いますが、路上生活に慣れる(それは長く苦しい時間の末だということをこの小説は伝えています)までに社会が果たすべき責任を果たしてこなかった、というのは大きな1つではないでしょうか。

「俺」の視点で考える、用意されるべきもの

自ら選択したように見えて強制させられたのかもしれない「女」、用意された安全な屋内より路上を選ぶハンさん。これらはほんの細部ですが印象的な場面で、選択について考えさせられました。

また、この2つはどちらも支援する側の人間がかかわっている場面でもあり、選択というのはどのような支援によってなにが用意されるかと関係しているように感じました。

支援センターのチーム長はほかの場面でもたびたび出てきて、チーム長目線の「俺」を想像しながら読むこともできます。そんなチーム長に「俺」がぶつける言葉は鋭く、残酷さすら感じました。でもその言葉の数々に向き合ってこそ、何が用意されるべきなのか考えることができるのだと思います。

③に続きます→

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