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Mー1グランプリでよみがえるトラウマ(12月24日)

近年、Mー1を見ていると自分ならどういうネタを書くかなと勝手にクリエイター側に立って物事を考えている自分に驚愕する。1年に一度の日本一のお笑い芸人を決める祭典「Mー1グランプリ」の決勝戦がある日。僕は昨日に続いてライブに参戦していたので生放送では見れなかったのだが、この日に「Mー1」が開催させることを事前に知っていたらライブに行くのを躊躇っていたかもしれないくらいには毎年楽しみにしている。昔はさほどではなかったが、自分の年齢が上がってくるにつれて単純な面白さだけでなく漫才の複雑さや凄みみたいなのを感じるようになった。

漫才の何がすごいのか、まず笑いに来ているお客さんを笑わせなきゃいけない。「今から面白いことしますよー」と大々的に言われたら誰だってハードルが上がるし、そこに対して構えてしまう。なのにそのハードルを越えていかないと職業として成立しないというのはあまりに酷な気がする。

笑わせるためには他の障害も多い。まず面白いネタを書かなくてはいけない。僕も最近毎日文章を書いているので分かるが、考えれば考えるほど面白いが何かわからなくなる。僕は面白くなくても「いや全然そういうつもりじゃないし!」と白々しく、タメになるとか共感できるに最悪方向転換して逃げることができるが、芸人はそうはいかない。面白くなければ意味がないのだ。そういう中でMー1の決勝戦でさや香という実力派の漫才師が分かりにくいネタを披露して優勝を逃していた。結果だけ見ればその選択はダメだったとしか言えないのだが、その場面なら誰しもが守りに入って堅実なネタを選ぶところで優勝するために一か八かの挑戦ができるそのメンタルと芯の強さが芸人たる所以なんだろうなと見ていて感じた。

面白いネタが例えできたとしても、それを読めば誰でも面白くなるようなものでもない。「なんでこのネタ選んだんだろう」とつまらないネタに対して疑問を抱くことがある。しかしそればっかりは披露してみないことには分からないのだ。テンポ、テンション、表情、リアクション、自然さ、いくつもの要素がその場の空気を作り面白さへと繋がっていく。当たり前だがミスなんてできない。一瞬でもセリフを飛ばしたり、噛もうものならその場の空気は一瞬で完全に止まってしまう。止まったら最後動揺を観客に汲み取られしまい、二度とその空気を取り戻せないなんてことになりかねない。そんな緊張感の中でネタをしているのを見ているだけでこちらが吐きそうになる。

極め付けは芸人という職業はこれだけのハードルを常に越え続けなければいけないのに加えて、まあそれで食べていける人が限られている。こんな正気とは思えない状況に晒されながらお金をなかなか稼げないなんてどう考えても割にあっていない。たがらこそその覚悟と好きなことへの探究心はまさにプロであり、いつも見習いたいなと思わされる。

なぜ芸人なんてやったことがない自分がここまで感情移入できるのか不思議に思っているかもしれない。今年、親友の結婚式で初めて挨拶の大役を任された。初めてのことだった僕は「面白いこと期待してるぞ」の言葉に張り切りすぎたあまり、目も当てれないほどスベってしまうという鬼のような経験をした。しかも自分なりにウケを狙いにいってしっかりめにスベり「長尺ながスベり」という不名誉なあだ名までつけられる羽目になった。二度と思い出したくないトラウマである。

それからというもの僕はさらにお笑い芸人という職業を尊敬するようになった。千鳥の大吾が芸人を目指すきっかけに文化祭で鬼スベりした経験を話していた。その反骨心から今に至るらしい。この忌々しい経験もあと10年早ければ、僕も今頃お笑い芸人を目指していたのかもしれない。


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