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『アリスのための即興曲』Vol.42 アリスの日記 (2) 悪魔

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。


Vol.41 アリスの日記 (1) もうひとりのM


本編 Vol.42 アリスの日記 (2) 悪魔


ある朝、タカユキが防犯カメラを設置すると言いだした。
それも空港のセキュリティチェック顔負けの、うんと本格的なものを。
「物騒な世の中だからね。危険な奴らがうようよいるし」
彼はこう説明した。けれど私にはそれが本当の理由じゃないとわかっていた。
私には彼の考えていることが手に取るようにわかった。
タカユキが仕事に出かけた後しばらくして、ルイがふらりと現れた。私は彼の腕の中に飛び込んだ。

「ねえ、どうしよう。タカユキは何か感づいたみたい。あのひとは嫉妬深くて、悪魔のように頭が切れる。私たちのことがばれるのも時間の問題よ」

「タカユキは君を守りたいだけだよ」

ルイは淡々と言った。その瞳は翳っていて、ほんの少し悲しそうに見えた。
それから私を元気づけるみたいに明るく言った。

「気にするなよ。君は被害妄想に陥ってるだけなんだ。魔法のカクテルを作ってあげるから待ってて」

彼はそう言って台所に向かった。居間に戻ってくると、私の手に綺麗なピンク色の液体の入ったグラスを握らせた。それは毒々しいほど鮮やかな色だった。彼は私の隣に腰かけ、肩に手を回した。

「安心できることを言ってあげようか。いつか君、俺たちはどこかで会わなかったかって聞いたよね?」
「そうだったかしら」
「そうだよ。初めて俺がこの家に来た日に。忘れちゃった?」
「そんな昔のこと、覚えてないわ」
「昔のことって、たかだか一か月前だぜ。もしかしてフランスに旅行したときのことも覚えてない?」
「旅行って、私の・・フランス旅行のこと?」
「そう。君、今年の10月に旅行したでしょう。そのとき、誰かと会わなかった?」
「会ったわよ。両親と、幼なじみの友人に」
「それだけじゃなくて、誰か他のひとに会わなかった?思い出してみて」
私は目を閉じてそのときのことを思い出そうとした。
記憶への入り口は魔法の迷宮みたいに閉ざされていて、うまくアクセスすることができない。
頭に靄がかかったようになり、いやな汗が全身の毛穴から吹き出てきた。
私は誰かの暗い視線を肩のあたりに感じた。
呪いでもかけられたみたいに、空気がもったりと澱んでいる。
躰に力が入らない。
「お前は悪魔だよ」
誰かの声が聞こえた。
それはどこか暗い穴の底から響いてくるようだった。
誰かが私の手首を強く掴んだ。声にならない叫びが漏れた。
男の躰が音もなく覆いかぶさってきて、酒臭い息が私の口を覆った。
唾液に濡れた鋭い歯が見えた。息が熱い。
それから、それから―。


思い出そうとすると頭が割れるように痛む。
記憶の破片が脳みそを突きさしているみたいに。
だけどあれがルイのはずがない。
あの優しいひとが、そんなことできるはずがない。
私はきっと悪夢を見たんだ。
自分の躰がいくつもの肉片に砕けて、じゅるじゅると地面に溶けていくような気がした。

それから後のことは断片的にしか思い出せない。
その晩遅く帰ってきたタカユキが、私を抱きしめて狂ったように泣き叫んでいたこと。
誰がやったのかと問い詰められたこと。
明け方に目を覚ますと、すでにタカユキはいなかったこと。  
それから震える指でルイに電話をかけたこと。
そうしたことがフラッシュバックのように、断続的にまぶたの裏でちかちか光って消えていった。  


その日の早朝、ルイが私の家にやってきてこう言った。
「いいかい。今のところ容疑者はふたりいる。君はタカユキが、俺はサカモトが怪しいと睨んでいる。
 いずれにせよどちらかが君に卑劣な行為を行った。ここまではいい?」
私は首を縦に振った。
「じゃあ、こうしよう。罠を張るんだ」
「でも、どうやって?」
そこでルイはゲーム・・・のルールを説明した。
まず、ふたりの男性に連絡する。タカユキにはサカモトが犯人で、サカモトにはタカユキが犯人だとそれぞれ告げる。話に真実性を加えるため、内容に合った証言ビデオを2本用意する。
「でも、それだけじゃ生ぬるい。サカモトはもうちょっと懲らしめる必要があるな」
ルイは考え深げに言った。
「サカモトはタカユキと君の間に紛れ込んだ邪魔者だ。制裁を加えなくちゃいけない。そうだろう?」
私はまたこくんと頷いた。そこでルイはこう説明した。
証言ビデオと暗号の書かれた紙を封筒に入れ、サカモトさんの自宅と大学に郵送する。
(ルイがどうやって彼の住所を調べたのか私には見当もつかない。)
それからサカモトさんがどう動くか、それとなく監視する。うまく暗号を解けば彼の勝ち。
同時に私はここから姿をくらます。
タカユキがサカモトさんより先に私の居場所を見つければタカユキの勝ち。
勝者となった者はめでたく疑いが晴れ、私の愛を勝ち得ることができると。
「大丈夫。封筒の郵送とホテルの手配は俺がする。そこは安全な場所で、
   誰も君に近づけない。君はラウンジでくつろぎながら、事の次第を見守っ
   ていればいい。ただし、携帯から足がつく可能性があるから電源は切って
   おいてくれ」
「でも、どうやってあなたに連絡すればいいの?」
「宿泊先のフロントに業者を装って手紙を届ける。あそこのホテルは何度か
   利用したことがある。スタッフは信頼できる人間ばかりだ。俺を信じて待っていてほしい」
「わかった」
そしてルイは出て行った。まるで冬支度をする狩人のように。


ルイからは週に一度手紙が届き、私は彼の指示通りに動いた。
面白いほど予想通りに事が進んだ。
一種の快感さえ感じながら、私はこの役割を演じた。
もしかすると女優の才能があるんじゃないかしらと思ったほどだ。
唯一の失敗点は、サカモトさんのおばあさんに目撃されたことだと、手紙の中でルイは語った。
彼曰く「ホスト経験で培った魅力的な笑顔でなんとか乗り切った」らしいけれど。

そしてある日、とうとうサカモトさんは暗号の謎を解いた。
二重に張られた罠の、その奥にあるものを彼は見つけたのだ。
どうも協力者がいるらしいとルイは手紙で告げた。奴の恋人かもしれない、と。
サカモトさんの携帯電話にあらかじめ仕掛けておいたGPSによって
居場所を割り出したルイは、店員を装ってインターネットカフェに侵入した。
そして彼らが「M」にメールを送る様子をじっと窺っていた。
(それにしてもGPSだの何だの、どうやって成し遂げたんだろう。
彼にはハッカーとしての才能があるのかしら?)


それからまもなくホテルの部屋に小型のノートパソコンが届けられた。
添えられていた手紙の指示に従い、私はMとしてサカモトさんたちとメールのやりとりを開始した。
そこでのメールのやりとりは、初めて彼とフランス語レッスンをした日のことを思い出させた。
彼のフランス語はなかなか上達しているようだった。
私は妙にくすぐったいような気持ちで、いつ彼がMの正体に気づくかと待ちわびた。

「どう、うまくいってる?」
振り返るとそこにルイが立っていた。
いつのまに部屋に入り込んだのだろう。
彼は黒いタートルネックに黒のスリムパンツ、それに黒の革靴という格好だった。
猫のようにそっと近づき、彼は私の耳元で囁いた。

「ねえ、悪者を罰する気分はどう?」
「罰するだなんて、そんなつもりじゃないわ」
「彼が君を襲った卑劣な犯人だとしても?」
「だから、そんなはずないって言ってるじゃない。タカユキが―」
「なぜタカユキを信じてあげないの?」

彼は備え付けの冷蔵庫から琥珀色の瓶を取り出すとグラスになみなみと注いで差し出した。私はそれを一気に飲み干した。

「タカユキが君をどんなに愛してるか、少しでも考えたことがある?」

彼は私の背後に回り、ごく低い声で私の耳元で囁いた。
熱い息が耳を溶かしてしまいそうだ。

「あのときだってそうだ。
    君がフランスにひとりで旅行すると言い出したとき、
     タカユキは死ぬほど心配していた。それで俺に相談を持ちかけたんだ。
 『アリスを誘惑してほしい』と」

一瞬、彼が何のことを言っているのかわからなかった。
音は耳に入って来るけれど、その音は意味を成さない。
ひとつひとつの音が奇妙に絡まりあい、不協和音みたいに私の脳裏に響いた。そしてその不吉なメロディーに導かれるように、私の脳裏にF*** の姿が浮かんだ。
あの浅黒い肌のいやらしい男。
けれどF***とルイに何の関係があるのだろう?
あの男のことは誰にも話したことがなかったし、私だけの秘密のはずだった。でもルイは私の心をちゃんと読んだみたいに言った。

「そう、そのフランソワ・ルグランという男。あれ、俺だったんだ」

彼は私の前に跪き、じっと目を見つめて言った。底知れぬ闇を秘めたような瞳だった。

「そんなはずない。あなたと初めて会ったのは11月のことよ。それも日本で」

彼は相変わらず穴のような暗い目で私を見つめている。

「それに見た目だって全然ちがうじゃない。フランソワはもっと筋肉馬鹿って感じで…」
「筋肉馬鹿とは光栄だな。
     日焼けサロンでわざわざ焼いていった甲斐があったよ。
 それに髪の色も染めて、カラーコンタクトを入れてね」
「どうしてそんなことを…」

私は信じられない思いで目の前の男を見つめた。
舌が紙みたいにひからびて喉の奥に張りついている。
心臓が小鳥のように震え、指が痺れていた。

「タカユキは君が俺になびくかどうかを知りたがった。
    君の愛を確認したかったんだ。ところが君ときたらどうだろう。
    あっさり落ちてしまった。おもしろくもなんともない。
    賭けてもいいけど、君はあのとき罪悪感のかけらも抱かなかった。
    ちがう?」

彼はそっとグラスを取り上げてテーブルの上に置くと、私の首にゆっくりと手を絡めた。
首がねじ切れるのではないかと思うくらい、力を込めて。

「タカユキが…」

タカユキが私にしたことを思えば、あんなことどうってことないのだと言いたかった。
けれどそれは言葉にならなかった。
私の声は瀕死の鶏のようにしわがれていて、手は虚しく宙をもがいた。
彼は手にいっそう力を込めながら言った。

「君は悪い女だ。それなのに法律も神も君を裁くことはない。だから俺が制裁を加えてやったんだ。タカユキの代わりに」

私は遠のいてゆく意識の中で叫んだ。
いや、声を出したつもりだった。
けれど意識は肉体から剥離しようとしていた。
四肢がもぎ取られていくみたいだ。
部屋中の空気がブラックホールに吸い込まれていくみたいに脳から酸素が蒸発していった。
誰か―



気が付いたとき、私は病室のベッドに横たわっていた。
遠くの方で医者がタカユキに何かを説明する声が聞こえてきた。
私は混濁する意識の中で、まぶたがどろりと覆いかぶさってくるのを感じていた。
どうしても目を開けることができない。
それから椅子のきしむ音がして、誰かが近づいてくるような気配を感じた。
そのひとは優しく私の髪の毛をなで、額にくちづけをした。
しっとりと押しつけられた熱い唇だった。
だれなの?
私を本当に愛してくれたのは、一体だれ?
けれど私の叫びは声にならず、ただ涙がこぼれただけだった。

      ***

 そこで日記は終わっていた。
僕は深いため息をついた。なんだかよくできた映画でも観ているような気分だった。 
あの日、真崎まさき瑠生ルイに絞殺されかけ、自殺を偽装するためアリスは睡眠薬を飲まされました。このように書くと趣味の悪いおとぎ話のように聞こえる。それは正しく真実を伝えていないように思われる。ある部分は生々しくグロテスクに強調され、別の部分は容赦なくそぎ落とされている。

 真崎がアリスを暴行した人物であることに疑いの余地はなさそうだ。暴行罪に、殺人未遂罪。これだけの罪を犯していながら、世間が彼の名を知る日はとうとう来なかった。彼は煙のように消えてしまったのだ。森田はおそらく告発さえしなかったのだろう。

 僕はこれまで、罪を犯せば翌日にでもそれが明るみに出るものだと思っていた。それからしかるべき機関に回され、素早く的確に処理される。けれどどうやらそういうものでもないらしい。悪魔は僕らの眼をかいくぐってするりと逃げおおせる。そして何食わぬ顔で普通の人たちと同じように生活をする。そんなことは日常茶飯事のようにこの世界で起こっているのかもしれない。

 僕は急に寒気を感じ、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。するとそこに何か紙切れのようなものがあった。広げてみると、そこにはフランス語の単語がいくつか書き連ねてあった。中山伊織と僕がMのつく単語を探り当てようとして、インターネットカフェで書き残したメモだった。その言葉の羅列の中から、ふとある単語が僕の眼を引いた。

Mauditあくま

     魔法の森に迷い込んだアリスは、悪魔の手から逃れることができただろうか。それとも、彼女もまた兎穴に落ちたまま、元の世界に戻れないでいるのだろうか。あるいは―あるいは真崎の言うように、彼女もまたこの世界に野放しにされた悪魔だったのだろうか。

 そんなことどうだっていい、アリスが無事であれば。彼女が何者だって構わない。彼女が求めているのは僕じゃないとわかっているけど、遠くから幸せを祈ることくらい許されるだろう。僕は目を閉じて彼女の顔を思い浮かべた。初めて会った日の、どこか少女めいた白いほほ。長いまつげでふちどられた夢見るような青い瞳。絹のような亜麻色の長い髪。星くずみたいな笑い声。そうした彼女の幻影が、小さいころに読んだおとぎ話のように胸の中に沈んでいった。


 僕は窓辺に立ち、カーテンを開けた。早春の陽射しが部屋の中に淡く射し込んでいた。レースのカーテンに反射するひかりが不思議なモチーフを描いて床の上で踊っていた。僕はしばらくその陽だまりを見つめていた。

 どこからかピアノの音が聞こえてきた。どうやら演奏者は練習中であるらしく、何度も同じところでひっかかっている。ソからシのフラットへの移行がスムーズにいかず、そのせいで次のモチーフに進むことができないでいる。気が付くと僕はそのへたくそな演奏に合わせて口ずさんでいた。それはセヴラックの『ロマンティックなワルツ』だった。僕がアリスの家で初めて弾いた曲だ。ピアノの旋律は何度も同じモチーフを描いて舞い戻ってくる。まるで時間が止まってしまったみたいに。気が付くと僕は床の上に座り込んで泣いていた。あの日から僕は何ひとつ変わっていなかった。


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