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『アリスのための即興曲』Vol.41 アリスの日記 (1) もうひとりのM

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


初めての方は、こちらからどうぞ。


Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。


Vol. 40 今だけ僕は森田になる

本編 Vol.41 アリスの日記 (1) もうひとりのM


 帰宅すると、僕は机の上に例の封筒を置いた。それから深呼吸をし、中のものを取り出した。アリスの日記はとても綺麗な筆記体で書かれていた。ところどころに子どもが書いたような字で日本語の単語がいくつか書いてあったが、ほとんどはフランス語だった。以下は、翻訳サイトと辞書を使ってなんとか訳した彼女の日記の内容である。


20**年 12月**日

どこから始めればいいかしら。
頭の中に蜘蛛の巣でもかかっているみたいに、色々なことがうまく思い出せない。
病院の窓辺から見る空は、涙が出るほどまぶしい。
あんなことがあったなんて信じられないくらい。
タカユキは少し休んだ方がいいと言ったけれど、私は書きたいのだ。
少しでも記憶が残っているうちに。

                                             
あのひとがわたしの目の前に現れたのは、確か11月の初めだったと思う。
ある日タカユキがだしぬけに言ったのだ。
「今晩、大事なお客さんを連れてくるからおもてなししてくれ」と。
昔のアルバイト先の先輩なのだと、彼はかんたんに説明した。
私はいつもの接待かと思ってがっかりしたけど、
ひととおりオツマミやらお酒やらを用意し、その「お客様」が現れるのを待った。


その晩現れたのは、すらりと背の高い若い男性だった。
顔立ちは東洋風だけれど、普段見る日本人とはどこか違うような気がした。
髪は暗褐色で豊かに波打ち、小さな顔を覆っている。
長いまつげに縁どられた夢見るような瞳。
ギリシャ彫刻のようにつんと尖った鼻。
かたちのいい唇は血のように濡れている。
彼はどことなく暗い森の中に棲む狐のような美しさを持っていた。
その男は私の頬にキスし、初めましてとフランス語で言った。
とても自然な発音だったから、私はちょっとびっくりした。

「俺、真崎まさき瑠生ルイ。ハーフなんだ。父親がフランス人で、母親が日本人」
「そうなの。どうりでね」

彼は舐めるように私を見つめていた。それは初対面の女性に向けていいような視線ではなかった。
彼の視線は、何か私でさえ知らない、躰の奥に隠された深いものを見通すみたいだった。
そしてそこには、言葉にできないなつかしいものが含まれていた。
頭がくらくらし、肌が熱くなるのを感じた。

「ねえ、私たち、どこかで会ったことがないかしら」
私は半ば彼の視線から逃れるために言った。
「何それ、ナンパしてるの?」
「そんなんじゃないけど…」

彼は魔法みたいに私の腰を抱き寄せ、くちづけをした。あっというまの出来事だった。

「ちょっと…」
「いいじゃない。君だって、本当は望んでいるんだろう?」
彼は私の手をひっぱって、寝室へと導いた。
そして私は彼に抱かれた。
まるで生まれたてのひよこでも扱うみたいに、彼は私の躰を触った。
こんな風に大切にされたことは今までになかった。
彼は、私の中に内包されている少女のような部分をそっと引き出してくれた。
それは生まれて初めて息をしたような、真新しい感覚だった。
そうだ、私はいつも男性の荒々しさを恐れていたのだと、その日気が付いた。

その晩、タカユキは帰ってこなかった。
急な出張が入ったと、翌朝連絡があった。
それは私たちにとっては都合のいいことだった。
先生の目から逃れたいたずらっ子みたいに、ルイと私は顔を見合わせて笑った。

            

                                         ***

僕はそこで目を閉じた。
かわいそうな森田。僕は自分の立場も忘れて、心から彼に同情した。
ふと、いつか彼が言ったことを思い出した。「アリスの相手は君が初めてじゃない」と。
闇の中に浮かび上がる星のひかりみたいに、その言葉が蘇ってきた。すると森田はアリスの浮気のことを知っていたのだろうか。もしそうだとしたら、なぜ黙っていたのだろう。魚の骨が喉にひっかかっているような違和感を感じた。けれどとにかく読み進めなくては。僕は唇を結び、また翻訳作業に取りかかった。
 
              ***



それから真崎瑠生はちょくちょく家に遊びに来た。
彼が来るのは決まってタカユキのいない時間帯だった。
私は彼が来るのを待ちわびるようになった。
彼は私にとって魂の恋人であり、父親であり、親友のような存在となっていった。
知性も、美貌も、繊細さも、大胆さも、すべて併せ持った完璧な男性だと思った。
私が長い間探していたのはこのひとなのだと思った。

彼と私は少しずつ色々な話をした。
というより、彼が私の話を聴いてくれる場合がほとんどだった。
大抵の場合はお酒を飲みながら。
彼は「ハイになれる魔法の薬」と茶化して、いくつかのお酒を混ぜて素敵なカクテルを作ってくれた。
それらのアルコール類は彼が自分の家から調達したものだった。
これまで黙って私の話を聴いてくれる男性なんていなかったから、彼の優しさが身に染みた。


ある日、私はふと気になってタカユキとルイとの関係について尋ねた。
お酒を飲んだせいかいつもより饒舌になっているようで、ルイはすらすらと答えた。
彼はホスト時代のタカユキの先輩で、タカユキはルイに頭が上がらないということ。
タカユキがその仕事を辞めて会社を設立した後も交流が続いていることなどを。
「あら、あなたの方が先輩なの?ずいぶん若く見えるけれど」と私は言った。
「この世界では、年齢じゃなくて芸歴勝負なんだ。タカユキの方が年上だけど、俺の方が経験値は多い」
「そういうことね。ねえ、あなた一体いくつなの?」
「内緒」
彼には妙に秘密主義めいたところがあって、自分自身のことについて多くを語ろうとしなかった。
ある一定のところまではいいのだが、それ以上踏み込むと貝のように黙り込む。
だからその日もそれ以上のことを彼は語ろうとしなかった。
けれど私にとってはそれで十分だった。
いつか彼が心を開いてくれるまで待とうと思った。


それからは幸せな日々が続いた。
生まれて初めて味わう感覚だった。
まるで七色の泡に包まれているみたいな気持ち。
彼と知り合ってから一か月くらいしか経っていないのに、
まるで千年前から一緒にいるような気がした。
時間の概念も、物事の細部も、タカユキを裏切ったのだという気持ちさえ、
霧に包まれて遠ざかっていくような気がした。
今から思うと例の小さな記憶の欠如もしばしば起こっていたのだけど、
そんなことどうでもいいくらいに幸せだった。

サカモトさんとのレッスンも続いていた。
いつからか、彼はレッスンの後に私の躰を欲するようになった。
(実を言うとそのあたりのことはよく覚えていない。)
まるで赤ん坊がママの乳首を咥えるみたいに、
彼は若く、盲目的で、利己的に私の躰を貪った。
私はされるままになっていた。
抵抗しようと思えば出来ただろう。
でももう何もかもが面倒くさくなっていたのだ。

私はルイに隠し事をしたくなかったので、サカモトさんとのこともありのままに語った。
ルイは黙って私の話を聞いていたが、やがて「男なんて若いうちはそういうものだよ」とあっさり言った。
「怒らないの?」と私は尋ねた。
「怒るって、どうしてさ。君の人生なんだから好きにすればいい」と彼は答えた。
それはごく自然に彼の口から出た言葉だった。拗ねているとか、突き放しているとかいうのでもなさそうだった。彼はいつもと変わらぬ様子で微笑んだ。
「ちょっとくらい嫉妬してくれるかと思ったんだけど」
私は彼の肩に頭をもたせかけて言った。
「嫉妬というのは、魂の毒だ。百害あって一利なし」
彼は私の髪の毛を撫でながら穏やかに言った。
「それとも『悪い女だね』って言ってほしかった?」
彼は私の耳たぶを噛むふりをしてみせた。それから飲み物を作りに台所に向かった。



               ***

 そのくだりを読んでいると、猛烈な吐き気がこみあげてきた。熔鉱炉に投げ込まれたみたいに躰中が熱く、そのくせ冷汗が毛穴から吹き出してきた。僕は自分が嫌らしい虫にでもなったような気がした。激しく地面に叩きつけられ、人々の靴の下で踏みにじられ、醜く縮んでいく汚らわしい虫。
 僕はアリスを愛していたし、彼女の方でも同じだと思っていた。だって彼女は言ったのだ、「私たち、きっと来世で逢いましょう」と。あのときの彼女の瞳は真正そのものだった。そこにはひとかけらの嘘も混じっていなかった。少なくとも僕にはそう見えた。それともそれは僕が都合よくでっちあげた記憶だったのだろうか。目の前の白い壁が歪んで見えた。その壁は一枚の紙みたいに、僕の住む世界と遠くにある異次元とを隔てていた。今、それがめりめりと剥がれ落ちようとしている。その異次元の果てに見える世界は、僕が生まれて初めて目にするものに違いなかった。
 僕はもう続きを読むのをやめてしまおうかと思った。吐き気はひどくなり、耳鳴りまでしてきた。けれどそうしなかった。そこにあるのは、ただ続きを知りたいという病的な好奇心だった。僕は熱に浮かされたように翻訳を進めた。


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