見出し画像

『アリスのための即興曲』Vol.40 今だけ僕は森田になる

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちらから。

Vol.39 Mの正体


本編 Vol.40 今だけ僕は森田になる


 僕たちはすぐに森田に連絡した。これまでの経緯を電話で説明すると、彼はすぐにアリスの居場所を割り出すために動いてくれた。僕たちは彼女が行きそうなあらゆる施設に連絡を取った。インターネットカフェや、スポーツジム、それから森田の会社の人間にも当たってみた。けれどどこにも彼女の軌跡は見当たらなかった。諦めかけたころ、森田が都内のSホテルに連絡してみると言いだした。それは彼女が初めて日本に旅行に来たときに宿泊したホテルだったのだ。すると受付嬢が確かにフランス人らしい女性を見たと電話口で証言した。僕と中山伊織、そして森田はホテルで落ち合うことを約束し、電話を切った。




 Sホテルに到着したころにはすでに夜の10時を回っていた。森田が身分証明書を提示しアリスの夫だと名乗ると、受付嬢はすんなり部屋番号を教えてくれた。403号室。エレベーターを待つのももどかしく、僕たちは階段を駆け上っていった。

 すべての音が吸い込まれてしまったのではないかと思うほど、部屋は静かで、暗かった。灯りを付けると、真っ白な壁が雪明かりのように浮かび上がった。部屋の中央にシングルベッドが置いてあり、その上にバスローブ姿のアリスが横たわっていた。長い亜麻色の髪が扇のように広がり、ひかりを受けて輝いていた。肌は青白く透き通っていて、頭のてっぺんから爪先までヴェールに包まれているみたいだった。床には点々と白い錠剤が落ちていて、まるで真新しい雪のようだった。それはとても美しい光景だった。誰かが丁寧に造り上げた舞台の一場面のようにさえ見えた。僕は一瞬、その非現実的な美しさが何を意味するのか理解できなかった。中山伊織も凍り付いたようにその場に佇んでいた。

「アリス!」

 森田が叫んだ。彼は急いでベッドに近づき、アリスの手首を握り脈を取った。それから彼女の口元に耳を近づけ、息をしているかどうかを確認した。そしてぽかんとしている僕たちを尻目に携帯電話をポケットから取り出し、救急車を呼んだ。すべては瞬く間に滞りなく行われた。




 あっというまに救急車が到着し、アリスは車内に担ぎ込まれた。僕たちも同乗したが、僕の脳はまだ事態を把握できずにいた。空気を切り裂くようなサイレンの音と、名前のわからない様々な種類の機械、薬の匂い。救急隊員の質問に答える森田の冷静な声と、隣で震えている中山伊織の膝小僧。それから担架に横たわっているアリスの陶器のような肌の白さ。そういったものが、まるでモザイク模様みたいに断片的に僕の脳に入り込んできた。



   一時間後、僕たちはT***救急病院の病室にいた。森田が受付で手続きを済ませている間、僕と中山伊織はアリスのベッド脇の椅子に座っていた。胃洗浄を済ませた彼女は、点滴の管を細い腕に繋がれて眠っていた。青いパジャマを着ているせいで、肌の白さが不気味なほど目立って見えた。手首に浮き出ている青緑色の血管は、彼女を守る小さな虫みたいにひそかに脈打っていた。

 中山伊織はそっと咳払いをし、家族に電話をしてくると言って待合室の方に行った。そういえば僕も祖母に電話しなければと思ったが、ふと彼女は入院中なのだと思い出した。今頃祖母は暗い病室の中で眠っているのだ。薬の匂いの染みついた闇の中で。祖母は僕の身代わりになって兎穴の底に沈んでゆこうとしているのではないか。ふとそのような考えがよぎった。祖母の病気とアリスの件は無関係であるとわかっていても、僕は闇の中で遠くなってゆく祖母のイメージを振り切ることができなかった。

 僕はポケットからそっと携帯電話を取り出して時刻を確かめた。夜の11時を少し回ったところだった。するとその青白いひかりの中で、アリスがぽかりと目を開けた。僕は息をのみ、彼女の手を握った。彼女はかすかに微笑み、唇をもどかしそうに動かして言った。

「タカユキ…」

アリスの瞳は水晶玉みたいに澄んでいて、そこに僕の影が映っていた。僕は目をそらし、反射的に手を放そうとした。すると彼女が手を握り返した。小鳥の骨でも握っているような、冷たくて頼りない手だった。その手を離したら、彼女は二度とこの世界に戻ってこないかもしれない。そう思うと僕は手を振りほどくことができなかった。今だけ、僕は森田嵩幸になろう。この手の感触を、肌の匂いを、瞳のきらめきを、自分だけのものにしたかったけれど。僕は森田の代わりに彼女の髪を撫で、額にくちづけをした。そして彼女の冷たい手をいつまでも握っていた。


 アリスは午後に退院する予定だと、翌朝森田が告げた。彼の眼は真っ赤に腫れていたが、不思議なほど清々しい表情をしていた。まるで激しい夕立がやってきて、何か悪しきものを洗い流していったみたいに。病院から外に出ると、目が痛くなるほどの青空が広がっていた。空気は冴えわたり、遠くの方でつぐみの鳴く声がした。最後にもう一度アリスに会いたかったが、それは許されないことだとわかっていた。僕は彼女の病室を見上げ、小さく手を振った。

 森田は僕たちに丁寧に礼を言い、タクシーでそれぞれの家に送り届けてくれた。
「坂本くん、本当にありがとう」
帰り際に森田が言った。彼の瞳は冬の海みたいに澄んでいた。僕は頷き、タクシーを降りた。

 家に帰ると、埃っぽい空気の中に冬の朝のひかりが射し込んでいた。それは夢の中で見た一場面みたいに、すべての物をまばゆく包み込んでいた。これまで起こったことは幻だったのではないかという気がした。ふと、祖母の声が聞こえたような気がした。何をしけた顔してんだい、情けないねと。けれどもちろん彼女はそこにいなかった。ただ、深い森の中にいるような静寂が部屋の中に満ちていた。


 一週間後、森田と僕は彼の会社の近くのオープンカフェにいた。冬にしては暖かい日だったので、僕たちは外のテラス席に座った。しばらくするとホットコーヒーが運ばれてきた。森田は煙草を吸っていいかと聞き、僕は頷いた。彼の指の間から細い煙が上がり、大人しい龍のように昇っていった。

「あけましておめでとう、と言っても松の内も過ぎたね」

彼は静かに言った。そうだ、時間の感覚というものをすっかり失っていたけれど、いつの間にか年が明けていたのだ。森田は足を組み換えて優雅に微笑んだ。

「おばあさんはどう?お元気?」
「はい、おかげさまで。予定より長引きましたが、あと数日で退院できるみたいです」
「それはよかった」

そこで彼は口をつぐみ、また煙草を吸った。彼が煙草を吸っている間、僕は聞くともなく街の喧騒を聞いていた。雑踏の中の足音、OLたちの華やいだ声。そうした明るい街の営みを耳にしていると、ここ数日のことが現実味のない悪夢のように感じられた。



 森田は何かを考えるような瞳で宙を睨んでいたが、アタッシュケースに手を伸ばし、一通の封筒を取り出してテーブルの上に置いた。それは何の変哲もない茶色の封筒で、A4の用紙が入るくらいの大きさだった。僕は訝しげに森田を見た。

「アリスの日記のコピー。たぶん、真相を知りたいんじゃないかと思って」

彼は微笑んで言った。

「でも、大事なものなんじゃないですか?僕が読んでもいいんでしょうか」
「君に読んでほしいんだ」

彼はきっぱりと言った。それから静かな声で付け加えた。

「ここに書いてあることは、君にとってショックなことかもしれない。真実を知るのは、そんなに心地いいことじゃないから」

僕は黙って頷いた。
沈黙が降りた。冬の朝の雪のように、すべての音を包み込む沈黙だ。
森田がこほんと咳払いをした。

「悪いけど、これから会議があるんだ。もう行くよ」

彼はテーブルの上の伝票をさりげなく取り上げた。それからふと思い出したように言った。

「ねえ、坂本くん。信じてもらえないかもしれないけど、俺は君のことを大切な友人だと思ってるよ」

彼は笑った。それは僕の知っているクールな彼の笑顔に、ほんの少し人間味を加えたような表情だった。店を出るとき、彼はもう一度振り返って僕を見た。彼は小さく手を振った。僕も手を振り返した。そして森田はドアの向こうに吸い込まれるように消えてしまった。


この記事がいいなと思っていただけたら、サポートをお願い致します。 いただいたサポート費はクリエーターとしての活動費に使わせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします!