さよなら、2022年とキャンディーの嘘。
フランスでは、クリスマスから年明けまでの一連の期間は「ひとつづきのお祝いの時間」と考えられているように思う。日本ではクリスマスとお正月はまったくの別物だし、25日を過ぎてもクリスマスリースを飾っているお店などがあろうものなら、なんだかみっともない感じになると思う。けれどここではそうではない。クリスマスツリーは教会の広場に相変わらず飾られているし、お店のデコレーションもクリスマス以来そのままだ。パーティーから帰ってきたシンデレラが、ガラスの靴を脱ぎ忘れてしまったように。
これを書いている今、ここでは、12月31日の夜10時。だから2022年の話をしてもまだ許していただけるだろうと思う。年末、私にしてはめずらしくたくさんの人々に会った。そしてその人々が素敵な時間をもたらしてくれて、その出逢いがまた次の扉を開いてくれるといったような、不思議なことが起こった。
例えば、このようなことがあった。アランと私は、以前、とあるホテルの中庭に孔雀がいるのを見つけた。エメラルドグリーンの羽根をした孔雀は、アポロンの彫像の置かれた中庭を優雅に散歩してた。おまけにホテル自体も中世のお城を思わせるような素敵な外観で、私たちはすっかり魅了されてしまった。
「『Youtubeチャンネルのために、いつか撮影させてください』と頼むといいよ」とアランは言った。確かに、それはいい考えだなと私も思った。けれどその時はその話は宙ぶらりんのままで終わってしまった。
ところが、である。クリスマスを過ぎたある日、ブルゴーニュ地方から友人が遊びに来てくれた。ここでは仮に「セルジュ」と呼ぶことにする。リヨンに来る用事があるのでついでにこの街にも立ち寄ってくれると言う。
「私たちのアパートは狭くて、泊めてあげられなくてごめんね」と言うと、
「いやいや、ネットで見つけたホテルを予約したから大丈夫だよ」と彼は言う。
小学校で音楽の教師をしているセルジュは、作曲やピアノの演奏も行っているそうだ。私が彼の音楽に感銘を受けたのも、今回会うことになった理由の一つであった。
約束の日、セルジュは彼のアルバムをmp3ファイルにして渡してくれたばかりではなく、出身地の特産品を集めた素敵なプレゼントまで持ってきてくれた。ビールやヌガー、ゴーフレットなどがぎっしり詰まったバスケットである。私はお茶と、マカロンをプレゼントした。
カフェに入って、ひとしきりおしゃべりした。音楽のことだけではなく、フランスの情勢から政治論まで、大いに盛り上がった。
「あなたの言うこと、その通りだと思う。すごくよくわかる」
といった言葉が、お愛想ではなく、くっきりとした真実として自分の奥底から出てくるのがわかった。
そのようにして三時間ほどあっという間に過ぎ、日も暮れてきたのでそろそろ帰ろうかということになった。
「街を案内する」という約束だったのに、結局その日はひたすらおしゃべりしただけで終わってしまったので、このままトンボ帰りさせてしまうのも申し訳ないと思い、翌日、また会おうと提案した。
すると彼はこう言った。
「僕が泊まっているホテル、すごく素敵なんだ。中庭に彫像があって、ホールにはピアノまであるんだよ」
もしやと思い、そのホテルの名前を訊いてみると、なんとアランと私が話していた、あのホテルであった。
翌朝、ホテルまでセルジュを迎えに行くと、経営者のご夫婦が出迎えてくださり、部外者の私にまでコーヒーをご馳走してくださった。まるで映画のセットのような美しいサロンだった。
ひとしきりホテルのオーナーのお話を伺った後、おそるおそる、ホテルの撮影をしていいかとお願いしたところ、快く引き受けてくださった。撮影は年明けの1月9日にお願いすることになった。こうして私は、かなり最短で願いを叶えることが出来そうなのだった。友人がこの街まで来てくれなければ、そしてあのホテルを選んでいなければ、たぶんこうまですんなりことは運ばなかっただろうという気がする。
そのあと、私はこの幸福な連鎖についてしばらく考えた。実を言うと、私は「嘘をつかなくてもうまくいく」ということにとても驚いていた。「嘘」というと言葉が強すぎるかもしれないが、以前の私はキャンディーのように甘ったるい嘘を身にまとって生きていたように思う。
音楽活動に限らず、いわゆるアマチュアのアーティストという人々に、これまでも出逢ったことがある。彼らの作品が好きになれなくても、「知り合いがやっているから」という理由で何回かコンサートを観に行った。花束やクッキーだってちゃんと持っていったし、アンケートには賛辞の言葉を惜しまずに書いた。けれどそうしたコンサートの後にはいつもぐったりと疲れて帰ってくる羽目になった。上演中に体調が悪くなり、申し訳ないとは思ったけれど途中で席を立たざるを得なくなったこともある。私は、彼らの作品を好きになれないのは自分のせいだと思っていた。
私は疲れていれば疲れているほど、嘘をつくようになった。いや、「嘘」という認識さえしていなかった。甘ったるい美辞麗句は、心の中の毒を隠すためだった。真実なんて誰も欲していないし、耳に心地よい優しいことばで世の中が回るなら、これほど簡単なことはない。私はそのように思っていた。しかし砂糖の罠が毒のように躰を侵食するということに関して、私は無頓着だった。自分自身がそのキャンディーの殻に覆われてまったく身動きできなくなっていることに気がつかなかったのだ。
ある日、ある人にこのように言われた。
「ねえ、そうやって『すごいね』って言ってくれるけどさ、本当はそんな風に思ってないでしょ。わかるよ、そんなの。なんだか見てると怖くなる。自動首振り人形みたいでさ」
真摯にその活動に取り組んでいる人々にとって、まったく魂のこもっていない賛辞は、ものすごく失礼なことだということに、その時やっと気づいた。それならば「ごめん、興味ない」という言葉の方がよほど誠実かもしれない。
それから長い時間が過ぎた。私は2018年にフランスに到着してから、その甘ったるいキャンディーのような嘘を、だんだん言わなくなってきたように思う。その背景として、フランス人たちの率直さが後押しをしてくれたことは間違いない。
フランス人は社交辞令をまっく言わないというわけではない。けれど少なくとも、「今度ぜひ会おうよ」と彼らが言う時、それは本気なのだと知っておく必要がある。会いたいと思ったらそう言えばいいし、気が合わない人に対してはそっと口をつぐむだけでいい。こんなにシンプルなことに、私は本当に、本当に長い間気がつかずに生きてきた。そしてキャンディーの殻を破って外の世界に出た時に待ち受けているのは、冷たい北風ばかりではなかった。それどころか、自分自身に素直になればなるほど、日々は楽に、羽根のように軽く、輝くようになってきたような気がする。もちろん、長い間に身に着いた習慣はそう簡単に消えるわけではないだろうけれど。
さよなら、2022年。さよなら、キャンディーの嘘。私はもっと人間らしく生きることにしようと思う。
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