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【掌編】a piece of……

新宿に向かう特急電車のなかで、私はスマートフォンとにらめっこしていた。彼に送ったLINEに、なかなか既読がつかなかったからだ。

私の心は穏やかではなかった。彼が家を出たとき、恐らく彼は私のよく知る彼ではなかったから。彼の中に存在するいくつかの人格の中の、とりわけ好戦的な人格——智行ともゆきとして、彼は夜の新宿へと繰り出してしまったかもしれないのだ。

彼が誰とどのように会っているかを想像するに、寒気がした。智行が私と一緒に行きたいと言っていたライブハウスでのとあるバンドのライブを、私は仕事の都合で断ってしまったのだ。

たぶん、拗ねている。そしてきっと、怒っている。腹いせにとんでもないことをしてしまうかもしれない……。仕事から帰宅してすぐに彼からLINEがあり、文面から察するに、それが智行による送信とわかったので、私は自分の判断をひどく後悔していた。

ついさっき、終点まで乗った京王線の終着駅へと向かう。気がつけば吐く息が白く、星々のさんざめく夜空へと吸い込まれていく。新作のスイーツのポスターの飾られたコンビニの横を通り過ぎたとき、お腹が小さく鳴ったが、そんなことを気にしている場合ではない。

特急電車が新宿に近い明大前駅に停車する頃になって、ようやく既読がついた。「いま、どこにいるの?」という問いに対し、やっときた返信が以下だ。

どこだと思う?

……間違いない、彼は智行だし、しかもちゃんと拗ねてて怒ってる。私は周囲の乗客に気づかれないよう、内心でため息をついた。

夜の新宿なんて、久しぶりだ。いつも通勤の乗り換えで利用するくらいで、降り立つことは滅多にない。

程なくして私のスマートフォンに、智行からライブハウスの情報が送られてきた。来い、ということなのだろう。駅東口方面、つまり歌舞伎町の方にそのライブハウスはあった。ネオンの賑々しい街を、地味なコートに身を包んだ私が歩くのは、全くもって場違いな気がした。

指定された場所は地下で、私は暗いその階段を恐るおそる降った。一段下がるごとに、重低音のビートが少しずつ大きく聞こえてきた。

重い扉を、体重をかけてようやく開けると、お腹を直撃するような圧のある音楽が爆音で流されており、暗闇のなかでミラーボールが妖しげに回っていた。

私は作法がわからず、キョロキョロと周囲を見渡した。スタッフと思しき男性が、こちらを見て何かペーパーを指差していたので、近づいてみるとそれは、ドリンクの一覧だった。

「チケット代はもらってます。ドリンクチャージで750円」
「えっ、と、あ、はい」

よくわからないけれど、ドリンク代が必要なようだ。私は、一番隅に記載されていたトマトジュースを注文した。750円のトマトジュースである。心して飲まなければ。

などと言っている場合ではなかった。彼を探さなければ。ひとまず一息つこうと、トマトジュースに口をつけた途端、

「いいよね、このバンド」

と見知らぬ男性に声をかけられた。バンドの演奏中だったので声を張らなければ聞こえないのは仕方ないが、突然大声で話しかけられて、私は驚いてしまった。

「え、ああ、ハイ」

私のよく知らないバンドが、演奏と演奏の間に、場を盛り上げるためのMCへと入ったようだ。

「よく来るの? ここ」
「いえ……」

話しかけながら、そのスーツ姿の男性が妙に距離を詰めてくる。私は嫌な予感がして、適当に相槌を打って一歩さがった。

「ライブ参戦にしてはおとなしめだね。もしかして慣れてない? こういうところ」
「いや、まあ、ええ」
「じゃあ、教えてあげてもいいよ」

全く意味不明な上から目線を浴びせられて、私はどうしたらいいかわからず、とりあえず視線をフロアに逃した。MCの間もDJが派手なナンバーをかけており、その重低音と自分の鼓動がシンクするように脈打った。

スーツ姿の男性は、ためらいなく私の腕を掴んで、「あっちいこうよ」と人気ひとけの少ない階段の裏へ、私を無理に連れて行こうとした。

やめてください、と私が言うより早く、その男性の姿が視界から消え、私の腕は解放された。一瞬の出来事で、何があったのかと思いきや、私の目の前には、革ジャン姿の彼——智行が立ちはだかっている。

「えっ……?」
「気安く触んな」

見れば、智行がスーツ男の腕を締め上げており、スーツ男は「ギブ、ギブギブ!」と叫んでいる。

「今度、美奈子に触れてみろ。確実にぶっ殺すからな」
「わ、わかった、わかったから放してくれ」

スーツ姿は智行に解放されると、なにか捨て台詞を吐いてライブハウスから去っていった。ライブハウスの中はいっとき静まり返ったが、再びバンドの演奏が始まると、ボルテージを上げて歓声が飛び交う通常運転へと戻った。

「悪かったな、遅くなって」

珍しく、智行が謝った。多少、酒を飲んでいることも影響しているのかもしれない。

「ううん、ありがと」

私がトマトジュースを飲み干すと、智行がこちらをじっと見ていることに気づいた。

「なに?」
「別に」

ミラーボールに彼の表情が照らされている。私が彼の手に手を重ねると、満足げに彼は目を閉じた。ああ、これは——

彼の身体から、ふつと力が抜ける。私は壁にもたれて、彼の体重を肩で受け止め、彼の頭を撫ぜた。

バンドの演奏は最高潮に達し、フロアの熱気も高まり、迫りくるビート音は私を、いや私たちを鋭く包み込んだ。

次に目を覚ました彼は、私のよく知る彼——裕明ひろあきで、慣れない場所、慣れない格好、慣れない爆音に、ひどく怯えていた様子だった。私は「なにも心配ないよ」とだけ伝えて、手を繋いでライブハウスを、歌舞伎町を、夜の新宿をあとにした。

……そっか。智行はきっと、自分が裕明の一部に過ぎないことも、私にとってあくまで裕明の別人格であるという位置に過ぎないことも、悲しすぎるほどに自覚しているのかもしれない。

それって、もしかしなくても、寂しいことだ。智行が拗ねて怒っていたのは、ライブを断ったからじゃなくて、自分を、自分だけを見てもらえないからだった?

「……ごめん」

帰りの京王線は、人混みを避けるために各駅停車に乗った。私が謝ると、裕明は戸惑った。

「なんで美奈子が謝るの?」
「もし伝えられたら、智行に伝えてほしいんだけど」
「なにを?」
「『ちゃんと、大好きだよ』って」
「えっ。ええっ!?」

慌てる裕明。そんな様子を私はくすくすと眺めて、揺れる電車の中で、その手をきゅっと握った。

【END】


この物語は、文学フリマに出品する小説「しあわせのかたち」及び、以前noteに連載した「ゆく夏に穿つ」のスピンオフ作品です。

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多重人格の青年・裕明と孤独な少女・美奈子の出会いの物語です。

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