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オリンピックイヤーに生まれる君たちへ

東京オリンピックの開会式は素晴らしかった。
日本の伝統、ポップカルチャーというホスト国の個性を表現するだけでなく、新型コロナウィルスの感染拡大と向き合ってきた世界中のアスリートの孤独、苦悩、決意も十分表現されていたと思う。今年だからこそできた表現だと思う。

57年ぶりの東京でのオリンピック。
私はその57年前の東京オリンピックの年に東京で生まれ、東京で育った。

両親を含めオリンピックを迎えた東京の様子を目の当たりにした大人たちのなかで育ったせいだろう。オリンピックをめぐる話題は日常の会話のなかに普通に紛れていた。

一番よくきいたのは「オリンピック開会式(10月10日)の前日が土砂降り雨で、当日がドピーカンだった」という話であった。
幼稚園の時、明日は体育の日でようちえんはお休み」ときかされ、「たいいくのひ、ってなあに?なんでおやすみなの?」と母に尋ねたのが最初だ。

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その母の定番の話は、「オリンピックの年の夏は水不足だった」である。
深刻な水不足だで蛇口をひねっても水がでなかったそうだ。

当時お腹に私を宿していた若き母。大きくなってきたお腹をかかえ、両手に水の入ったバケツを持って給水車から帰る道、ご近所さんが「あなたお腹に赤ちゃんがいるんだから」と手伝ってくれたそう。
「全然大丈夫だと思ってたのよね〜。無謀よねー。若さよねー」とケラケラ笑うのが母のオチ。
この話をきくたびに私は母の身体と私の命に想いを寄せてくれたご近所さんたちに心のなかで深く感謝を伝えたくなる。

次に出てくる話が両親二人ででかけたサッカー観戦。
当時の日本、サッカーは今ほどの人気ではない。おまけに日本から遠く離れた小さな国同士の試合だったこともあり、観客はガラガラ。二人が出向いたのも「たまたま誰かからチケットをもらったから」。
チケット争奪戦だった今回のオリンピックからは信じられないような牧歌的な話だ。

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オリンピックをめぐる東京の街並みの変化についてもよく話題になった。

特に聞かされたのは首都高、の話。
首都高を車で走ると、父は「首都高はオリンピックのときにできたんだ。皇居のなかに道路を走らせるなんてとんでもない、っていわれたんだぞ(※千代田トンネルのこと)」と話すのがお決まりだった。

日本橋に長いこと勤めていた伯母からは「首都高ができちゃったから、日本橋がすっかり見えなくなっちゃった。」と何度となく聞かされた。その眼差しに、がっかり感が透けて見えたのも覚えている。

山手線の原宿駅から渋谷駅の間に広がる「ワシントンハイツ」(米軍家族の居住地)の景色は本当に異国の夢のような土地だったと母はいう。
電車から垣間見えるだけで、足をふみいれることのできない別世界。そこはやがて、オリンピック競技場として代々木体育館が、報道機関としてNHKの局舎が建てられることになる。

大河ドラマ「いだてん」のなかにでてきたような話を、日常の中で聞きながら、私は戦後急速に変わりゆく東京のダイナミックなエネルギーを学んで行ったように思う。

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私自身もオリンピックの「遺産」にもお世話になっていた。

子供の頃によく連れて行ってもらった駒沢オリンピック公園。
中学、高校の修学旅行は新幹線で京都だった。オリンピック開催わずか10日前にオープンした新幹線。

大学受験「共通一次試験」の会場はオリンピックの選手村跡地の「国立オリンピック記念青少年センター」。
オリンピック競技場だった日本武道館、代々木体育館には何度とライブに出かけたことか。

川の上に、道の上にと作られ東京の景色を一変させた首都高は、大人になった私の生活を支えてくれた。
夜遅く、ネオンの中を縫うようにタクシーに乗って帰った若い頃。

東京オリンピックは、そうして長きに渡りそれとなく私の人生を彩り支えてくれていたのである。

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そして2021年7月23日、57年ぶり、2度目の東京オリンピックの開会式。
開会式の入場行進でゲーム音楽とアニメの吹き出しが用いられていた。

ビデオゲームやアニメが「今の日本文化」として世界中に紹介されている。そうだ、世界中でビデオゲームやアニメは受け入れられている。
現役バリバリの「日本らしさ」だ。

私たちの子供時代には想像できないことだった。
その頃は、音楽といい、ファッションといい、文化は「外国から入ってくる」ものだったのだ。

その時に思った。
私の子供時代は、文化的には日本にとっても「子供時代(成長期)」だったのかもしれないと。外からの文化を貪欲に消化し、大きくなろうとしていた時代だ。

そして今や文化は「とりいれる」ものではなく、ゲームやアニメという自分たちのお家芸を世界に発信し、受け入れてもらえている。
日本は成長した「大人」として今回オリンピックのホスト国になったのだな、と。

その瞬間、「多様性と調和」というオリンピックのコンセプトが心にスッと入ってきた。
そうだ、これからはそういう時なのだな。長いこと、私たちが忘れかけていたこと。

子供は成長して大人になろうとしている。
大人を目指し、「より早く、より高く、より強く」と日々をすごす。

けれど、いつのまにか忘れてしまう。
「より早く、より高く、より強く」なるのは
「今よりも」であって「他者よりも」ではないことを。
それを忘れていくうちに、
自分のまわりにある「多様性」を受け入れ「調和」する力をも失っていく。

そして成長が終わって大人になった時には
「他者よりも」「より早く、より高く、より強く」ことばかりになる。
そして気付くのだ。
なんかおかしくないか?、と。(でも何がおかしいかがよくわからない)

大人には息を吹き返すために、一旦自分の持っていた「多様性と調和」を思い出す時が必要だ。

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ただ「多様性と調和」は「相手の言い分を飲み込むこと」でも「自分の言いたいことを認めさせること」でも「場の空気を読む」ことではない。

自分のなかに認めたくないものや相手への恐れがある時、私たちは異質なものを認められず、多様性を否定したくなる。
だから「多様性」の実現は、自分と相手の弱さを率直に認め合い、理解し合うということからはじまる。徹底的に自分自身にへの正直さが必要になる。

自分のかっこ悪さを、正直に認めてみよう。
相手のかっこ悪さも、ほら、大差ないだろう。

相手との違いを受け入れ難いときは
自分の中にある臆病さと、まっすぐに向きあってみよう。
その震える声を、ちゃんと抱きしめてあげよう。

相手を恐る必要はない。
否定する必要もない。

ただ、違うだけだ。

そして、育っていこう。一緒に。

まわりより秀でようとしなくていい。
今より一歩先に踏み出すことを大切にしていけるように。

みんな、それぞれにすばらしくて、かっこ悪くて、臆病なんだ。
それでいいんだ。

オリンピックイヤーに生まれてくる君たちへ。


昨日の開会式を見ながら、
その昔大人たちに託されたバトンを、次に渡す時がようやく巡り来た
ー 不思議とそんな気持ちになった。
私たちが伸びゆくことを託されたように、私たちも託していこう。

21世紀に入って20年。
このオリンピックは
21世紀らしさが本格的に始まる、幕開けになるのかもしれない。

オリンピックイヤーに生まれくる君たちへ。
おめでとう。君たちはみんな祝福されているよ。
きっとオリンピックをめぐる様々な話をきいて大きくなるだろう。
さあ、新しい時代へ。私たちは、ちゃんと見守っている。

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