見出し画像

差別と区別、排他的思考との戦い|ココカリ心理学コラム

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(ブレイディみかこ著)」が古書店で安くなっていたので購入し、遅蒔きながらきちんと読んでみた。英国に暮らす著者が感じた「差別」について、日常の出来事に触れて描いている逸作である。

差別と聞くと、区別との違いは何だろうと考えてしまう。性でいうと、生物学上での男女(もしくはオスメス)は区別であり、男女の存在そのものは差別ではない。

差異や種類によって分けることが区別である。ここから一歩進んで、特定の個人や集団に対し正当な理由なく生活全般にかかわる不利益を強制する行為がなされると差別になる。その差別的行為の対象となる基準は、自然的カテゴリー(身体的特徴)の場合もあれば、社会的カテゴリー(所属集団)の場合もあるが、いずれにせよ恣意的な分割によって行われるのである。

特徴や得意-不得意で分ければ区別で置いておけるが、評価や利益-不利益が絡むと差別的になってくる。だいぶ粗いが、私としてはこんな理解をしている。

差別について、心理学では「社会的アイデンティティ」の観点から捉えている。社会的アイデンティティとは、自分がある集団に属している、ある集団の一部であるという自己定義のことを指す。自己が所属していることを意識した集団を「内集団」、それ以外の集団を「外集団」という。内集団が褒められると自分が褒められた気持ちになり、自尊心が高まり、やがて自己の中に「内集団ひいき」が発生する。内集団の構成員には自分との比較から個性を感じやすいが、外集団の構成員は等質性が高いと感じられやすい。外集団に対しては一枚のレッテルを貼っておしまい、と成りやすい。偏った認知が進み、やがて差別に発展する、というメカニズムだ。

人は内集団を好む。内集団の構成員は味方で、そこに居れば安全だと思えるからだ。外に出ないと解らない事は多いと頭の中でわかっていても、情報過多な社会では、自分の目で見なくても、一次情報を取らなくても、なんとなく解った気になれるものである。ぬるま湯に浸かってしまう。

差別的思考に傾倒しないためには、外と交わることだ。つまり「自分で誰かの靴を履いてみる」のである。人間は単純である。朱に交われば赤くなる。内集団と外集団の境界を拡大していこう。差別はなくなる。昨日の敵は今日の友である。

内弁慶になっていないか、外に出る勇気を持てているか。異分子は排他した方が楽であるが、その瞬間から進化は止まる。自分の思考と戦い続けねば。