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ネット誹謗中傷は「呪い」である|ココカリ心理学コラム

通勤電車で目にした内田氏の一節に戦慄を覚えた。と同時にニヤリとしてしまった。「ああ、ほんとそうだな。これだわ」と。

ネット上の貶下的言説は本質的に「呪」である。匿名の彼らは自分の書いたものの責任を取らない。「呪」とは呪いの発信源が知られると、その効果を失う。
「呪い」は「批判」ではない。「批判」は発信者の身体を差し出さない限り機能しないが、「呪い」は発信者の身体を隠蔽することでより効率的に機能する。

「大人のいない国」鷲田清一・内田樹著

ネット誹謗中傷は「呪い」である。恐らくほぼ全員が無自覚で呪っている。なぜなら、呪いといえば藁人形に五寸釘と相場が決まっていた。また、呪いは殺したいほど憎い相手にしか適用しないように思われているからだ。特定の個人を想起しながら匿名でネット上で投げつける誹謗中傷が「現代の呪いだ」と言われても、呪っている本人はぴんとこないだろう。しかし、呪われている側からすれば呪者の実態はみえないのだから、殺気や悪気の濃淡に問わず、自分に対してポストされた汚言は呪詛なのである。

今日言いたいことは2つで、「呪うのやめようぜ」と「呪いを受けない心身をつくろう」である。

「呪うのやめようぜ」はもう議論の余地がない。即刻止めよう。たとえば自分の大切な人が呪われていると知ったらどう思うだろう。ムカつかないだろうか、止めてくれと願わないだろうか。あなたは加害者側でそれをやっているのだ。想像して悍ましいと感じれれば、あなたの精神は健常だ。

もし、呪うことでストレス発散しているのなら、カウンセリングルームへいらしてほしい。ある人は心理カウンセリングを気持ちの嘔吐と称したが、言い得て妙で、その一面は確実にある。お金を払って正々堂々とスッキリしよう。

「呪いを受けない心身をつくろう」であるが、こころの強度を上げるには、認知行動療法が役に立つだろう。「憎くて書いてるわけじゃない、ストレス溜まってるのかな」「私に対して反応している時点で興味もってくれているということ、無興味なら書き込みすらしない」「どんな言葉であれ、反響があるだけありがたい」など、呪いとして了解しない認知力を身に付ける。願わくば、誰がなんと言おうと私は私だと毅然でいたい。自分に対して誠実な自分でいたい。なかなかこの強度まではもっていけないのだけれど。

古来からある盛塩なんかもいいだろう。塩は邪気を飛ばすと言われている。いぶき(息を吹きかけて対象物などを浄化すること)で祓うのもいい。非科学的と一蹴なさるな。呪いこそ非科学的なるもの、非科学で対応してもいいのである。