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離乳食をつくりながら料理と、アートとデザインの違いを考える瞬間。

離乳食を作ることの難しさ

離乳食をつくるのは難しい。子供が産まれて、最初は母乳とミルクだけだったのが生後6ヶ月過ぎから離乳食がはじまって、一歳になる今では完了期食に入っている。大人とほぼ同じ料理だが、薄味で、1cm角くらいに刻んでいる状態。「大人とほぼ同じ」と言っても、やはり同じではない。これがなかなか難しい。なかなか食べてくれない。


気分が乗らないと食べない息子。


なにぶん、初めての子育てだからどんなものを食べてくれるのか見当もつかない。適量もわからない。大人のレシピであれば、冷蔵庫にあるものを適当にみつくろってチャチャっと15分くらいで名前のない料理が作れるのだけど離乳食はそうはいかない。食材のアレルギーも気にしなければいけないし、普段通りの味付けでは濃すぎる。かと言ってまったく味付けをしないとマズくて食べてくれない。薄味ってなに?という感じだ。使ったことがないのだから当然だけど、根本的に離乳食に関する知識と経験が不足しているのである。料理は、トライ&エラーだ。失敗の数だけ成功に近づく。経験の浅さゆえに、難しい。

ある日の離乳食

何が根本的に難しいって、赤ちゃんは自分と同じではないことだ。
舌の味蕾の数も大人よりはるかに多くて強い刺激は食育に悪いし、胃も未発達なので塩分過多では胃が荒れてしまう。そもそも本人が言語を話さないので美味しいのか、満腹なのか、何が気に入らないのかもわからない。何が気に入らないのか、食べずにポイポイ床へ投げ捨てる。歯は生えてきても前歯が上に4〜5本と下に2〜3本で、食べ物を噛み切ることはできても、僕たちが無意識にやっているように奥歯ですり潰すことはできず、3cmくらいより大きく硬い肉のかたまりなどはぺっと吐き出してしまう。
そしてものすごいスピードで成長するので、昨日まで求めていた料理がある日突然口にあわなくなる。慣れてきた頃には次のステージで、また試行錯誤のはじまり。
とにかく、赤ちゃんは自分とはちがう生きものだ。
この、自分とはちがう生きものにチューニングをあわせて料理をすること。僕の感じている難しさの原因はそこにある気がする。

料理とアート、料理とデザイン。

小さな頃から料理が好きだった。たくさんの夏野菜が実る庭の畑から、たとえば小ぶりなナスをもいできて輪切りにしてオリーブオイルで焼いて、小皿に綺麗に盛りつける。それを肴にして父や兄が喜んでくれるので楽しかった。
考えてみると、ぼくにとっての料理はいつもアート的なものだった。つくりたいと思いついたものを自由に作ってみること。食材や器から感じたことを自分なりに表現すること。

大好きなサラダ作り

料理は自分にとって自由を感じさせてくれる大切な行為で、なによりとても楽しい時間だ。
大切な会食の用意では、うまくいくか緊張するけれど、そこへ向けて構想を練り、準備する時間もまた楽しい。


パーティの楽しい料理。

だけど、離乳食は難しい。楽しむ場にまでできていない。たぶん、それは離乳食に必要なことがアート的な思考よりもまず、デザイン思考だからなのではないかと思う。
赤ちゃんのためにつくるということは、自分とはちがう他者へチューニングをあわせてモノづくりをするということ。そのためにはまず、赤ちゃんという受け手のもっているメカニズム、胃の力であったり咀嚼力であったり、行動パターンを理解することからはじめなくてはいけない。
受け手のことを予め考えること。たぶん、デザインとはそういうことなんじゃないかと思う。
食材から感じたことを表現して受け手へ届けるのとは、矢印の方向が違うと思う。

10代の頃、アートを学んで、20代は文学を学び、そのあとに造園という理系の多い職場で働いてきた。
デザインのことはいつも横目に見ていたけど、真剣に学んできたことはなかった。
学生時代に学んできたことで後悔していることはあまりないけど、デザインの勉強をもっとすればよかった。受け手のことを考えるのは僕の苦手分野であり、弱点だ。これから、デザインを学びたい、と離乳食を作りながら考えている。

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