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気の遠くなるような果てしなさの中で



いつも心音のnoteをお読みくださりありがとうございます。

日々揺れる波の中で、いろんな自分に向き合い、一個ずつ認めながら解毒、解放し、その繰り返しで今日まで、たくさんのnoteを綴ってきました。

明るさとはほど遠い内容にも関わらず、変わらずに見守ってくださる方がいることは、わたしの救いになっていました。

なかなかみなさんのnoteを読みにいくほどの心の余裕がなく、読んでもらうばかりになっていましたが、とても感謝しています。

先日、この一年、お世話になっている整体の先生の三週間に一度の施術がありました。

その時、わたしは、また呼吸困難と腹痛で立てなくなるほどの体調不良に見舞われていたのですが、先生が、体調不良の原因になっている、わたしが抑圧してしまっている想い、わたしという性が切実に訴える望みを端的に伝えてくださいました。

そのあとで、自分の性が言わんとすることにしっかりと耳を傾け向き合うことを、しんどくても今、この瞬間にやらなければいけないと、いてもたってもいられなくなり、取り憑かれたようにそれを文章にして、これまで以上に必死に自分と向き合いました。

先生は、わたしの性の訴えには、ひとりでは埋めることが難しい寂しさがあると仰られました。

いろいろあって、ひとりでなんとかしなければと思い、自分を奮い立たせてみるもののうまくいかず、体調不良になってしまったそのことをちゃんと認めて、本当にわたしの魂が望むものは何か、何でも許されるなら、どんな世界で生きたいのかってことを、ひたすら問い続けました。

何度も文章を読み返して、書き直して、かなり納得いくところまで書けたのですが、身体中が痛くてヘロヘロで、なのに全く眠れなくて、なんとか、昼から身体を起こし、家事して、子どものことして、ご飯食べていたら、突然、あんなに許せなかった人の姿が遠くにポツンと見えて、なんだ、ただの個性なんだ、ということが腑に落ちました。

昨日の夜中中、物心ついた頃から変わらず持ち続けていた望みを文章に書いても、言い訳してないか?都合のいい捉え方をして逃げてないか?って、まだ自分を疑って責めていたけれど、向き合った分だけ、いろんなものがあるがままに見えてきていて、今のぶり返しのような体調不調も、ぜんぶ必要だから起こってるんだなって、結局いつもの穏やかな場所に戻ってきました。


人間は、最も愛すべき自分という存在のどんな姿も認めることが出来て、初めて他人のことを認められる。

ここまで辿り着くのがこんなにも大変だとは正直思っていなかったけれど、苦しくても向き合って本当によかったなぁって、今すごく感じています。


いつも必要最低限の助言にとどめ、わたしが自分で大切なことに気付くように導いてくださる整体師の先生、支えてくれる家族、心温かく見守ってくださるnoteのみなさまには、感謝しかないです。本当にありがとうございます。


どんなわたしも認める、その行為の奥行きの深さを、気の遠くなるような果てしなさの中でなんとか捉え続け、今本当に少しずつ腑に落ちて細胞ひとつひとつに浸透していってるのがわかります。

人間の身体が宇宙と言われる所以がわかった気がします。

そして、性の望みって、とってもシンプルです。

こじらせていたのは、外側の情報に翻弄され、自分の感覚を信じられなかったという理由だけで、本来なら自分の感じることは、どんなジャッジメントもせずに、そのまま受け入れ、本当はどうしたいか?その問いに繋げるだけでよかったのに、間違ってる!ダメ!そんなの通用しない!と否定していたのは自分でした。


自分と向き合うということは、果てしない、本当に果てしない作業だなと思うのですが、向き合った先の何とも形容し難い安堵感を知れば、もっともっと悦びを感じるために自分の望む世界を、自分のために創造しようって思えます。

そして、自分が自分を認められた分だけ、他人を認め許せる。そんな穏やかさの中で、自分の本当にしたいことへのパフォーマンス力みたいなものを育んでいきたいって思います。


以前投稿した記事で、【せつなさ】とは悲しみと悦びが溶け合った感情である、という気付きを書きました。


【せつなさ】は、わたしに最も快楽を与えてくれる感情です。それはとても官能的であり、恍惚にまで至ります。

これまでの人生をそんな【せつなさ】とともに生きてきた中で、この感情を敢えて紐解くなら、【せつなさ】とは喜怒哀楽すべてを包み込む、許しにも似た感情でもあるんだって、わかった気がしました。


人間という存在は、本当に神秘ですね。

美しさや正しさ、ポジティブであることへの執着を捨てたとき、醜い汚い狡い怖いと思って目を背けていたものの奥の奥に、キラリと光る誰にも壊されないダイヤモンドのように美しい輝きが眠っていたことに気付けるようになっている。

女神や天使のような柔らかな精神性は、悪魔だ呪いだと思っていた何かを受容した先にだけ見出せるもの。

そもそも悪魔はただの役割だから、そんなに嫌わないで逃げないで責めないであげて欲しいです。

責めたら、しんどくなるのは自分だから。

憎い、許せないの中に隠されているのは、ずっと外ばかりを探し求めて、見失っていた宝物。

そう思えた時、この世界には救いや助けしかない愛の世界だと気付くように出来ているみたいです。

忘れることもありますが、忘れたらまた、思い出せばいいだけだから、結局何でもOK。


そしてわたしは、これからもこの【せつなさ】というすべてを包括する愛しい感情を思う存分味わいながら、生きていきたいなって思っています。

好きな音楽に浸るように、せつなさに浸っていられたら、しあわせを見失わないでいられるから。

ありのままの自分を認めるという、あまりにざっくりとしたその言葉が指し示すものを、探して求めて、今日まで翻弄され続けてきたわたしですが、これからも翻弄されると思いますが、ようやく言葉にできるところまで腑に落ちたので、ご縁のある方に届いたらうれしいです。

それでは、本日もお読みいただき、ありがとうございます✨




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