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リアリティについて

割引あり

話のまくら


私のいる短歌の世界では、歌の評では、リアルとか、リアリティがあるという批評用語しかない。実は以前私が「短歌史」を「文学史」に突き合わせる作業をしていたとき、文学には様々な流派があるのに、なぜか短歌はずっとリアリズムを基準にした批評用語をそのまま墨守しているのか、と私は疑問におもったことがある。「あなた写生好きじゃないでしょ」という人でも、リアル、リアル、リアル一択みたいな感じだ。

リアル(現実)の対義語は虚構と言われている。英語でいうとフィクションだという。しかし、この言い方は奇妙だ。リアリティの対義語はフィクショナリティ(虚構性)なのだろうか。

虚構というのは「想像力によって、現実の事柄のように物語や劇を仕組むこと」であるという。つまり意味のなかに、ある程度「仕組む・作り上げる」というニュアンスが入っている。リアリティがあるということは、リアルに近い、リアルに肉薄している、そういう迫真性があることだと英語辞書は教えてくれる。そしてわれわれ歌人の世界ではこの「迫真性」だけが唯一の「褒め言葉」であるように見受けられる。

そう考えると「つくりごとの完成度」を問う「虚構性」はリアリティの正確な対概念ではない。虚構だということがしばしば「悪いこと」とか「つまらないこと」のように取り上げられる。そこにはやや虚構に対する蔑(さげす)みが入っている。虚構という言い方は、リアル一択の評価軸をもとに、リアル側から「虚」を見た言い方にすぎない。リアルを過剰に求められて、短歌はいつも酸素不足で、呼吸困難を起こしているように見える。

「文學界」9月号

1.「橄欖追放」で知ってしまった


なぜこんな話を枕にしているかというと、私は最近「文芸誌」で「ちやほや」されているように見えた若手歌人たちが、おかしな話をしているのを東郷雄二氏の「橄欖追放」で知ってしまったからだ。「文學界」9月号で特集された「短歌と批評」においての話だそうだ。

あわてて私は購入して読んだ。

歌会形式で、私たちがいつもやっている「歌会」に近いようなことを実施し、そこでの歌評を記録したものらしい。

一読、わたしは目眩がした。「短歌と批評」というテーマの特集でオールスターで文芸誌に登場しておきながら、彼らのやっていることはまったく「批評」とは異なる、ただの「鑑賞」と根拠なき「一般化」のオンパレードだったからだ。

私たち歌人は、文章を書くときも、歌会で何かを語るときも、なんらかの共通の印象を前提とし、そのうえで「難しいこと」=理(ことわり)を述べる(あえて理論(セオリー)や論理(ロジック)とは呼ばない)ような経験をそもそもしてこなかった。だから全く感覚でしゃべってもなんとなく話は通じる事があるし、ふわっとしゃべるならふわっとしゃべるで全然大丈夫だ。

しかし彼らの「歌評」を見ると、もはや「それぞれの歌人がその言葉に対して独自の前提を持っている」ようにしか見えない、「それぞれの評者の独自の短歌についての見識」のオンパレードである。そして、それが「短歌の批評」であるという理(ことわり)も見受けられない。このくらいのことは「どこかの歌会」でよく起こっていることだから別に驚きもしないが、活字になって文学愛好者に「これが歌会です」と開陳するとなればそれはただの恥さらしだと真剣に思う。

これがとうとう、私が「文学の総本山」と思っていた文芸誌に掲載されたのだから驚天動地である。こんな理のない「おしゃべり」の一体どこを面白いと思って「文學界」は短歌をピックアップしているのか。しかも今回は「批評」というテーマである。彼らはその批評とも言えない「おしゃべり」で後世のもの笑いの種になりにいっているようにしか思えない。この悲惨さこそが、私が感じた「現代短歌あるある」だったのだ。

いまから原典に即して、いわば具体に沿って指摘するのでぜひ考えて欲しい。私が病に伏したり、結社の旧弊である「人間関係」にとらわれて視界が狭められているなかで、いざ、それをかいくぐって外に出てみたら「もう短歌は滅亡していた」「異人たちに乗っ取られていた」と理解するのはキツい。これは「おもしろい異世界転生物語」ではない。これこそが私たちが招来した「これからの短歌」なのだ。

2.本文の引用

関連する部分を引用する。雑誌の引用になるのであまり多くを引用したくはないのだけれど、「私はこんなことは言ってない」とか「恣意的に人の話を端折っている」というような誤解を産むのも迷惑なので、該当箇所すべてをまず引用することにした。

③夕暮れの色の卵を割り開きこころは慣れていく夕暮れに

我妻 メビウスの輪みたいなねじれた円環、ループの歌だと思いました。卵ってかたちや色が太陽っぽいですよね。夕暮れの色の卵を割り開くというと、夕暮れを割って、 太陽のような卵を取り出したと読める。そして卵が心に引き取られて、心が夕暮れに慣れていって、また最初の夕暮れに戻っていく。夕暮れから夕暮れに戻っていくんだけど、その動きが同じ面での移動じゃなくて、次元の違う話にズレていく。

永井 「夕暮れの色の卵」は赤玉のことを言ってるのかなと最初イメージしました。この歌はとてもリズムがよくて、韻律に集中している歌だなと思います。二回「夕暮れ」を繰り返すリズムを取りながら、少しずつ夕暮れと心との齟齬をなだらかにしてい るのがとても繊細で、僕は好きでした。「割り開き」というのはイレギュラーな言い方ですよね。でもすごく効いている。

井上 私も美しい歌というのが第一印象でした。でも美の目白押しのような感じではなく、抜くところは抜いて調和の取れた感じがする。「割り開き」と同じ意味合いで、 「夕暮れの色の」も丁寧でテクニカルだと思います。夕暮れはイメージが補完されているし、「色の」と言わなくても伝わるけれど、ここで丁寧に「色の」と言うことで夕暮れの盛り上がりを強くしている感じがある。「割り開き」も開くという動作まで補完さ れて、さらに開くと言ったところで「こころ」に差し掛かるから、開かれた心、チルな感じにつながっている。最後にまた「夕暮れ」が登場するんですが、限られた三十一文字の定型の中で同じ言 葉が使われているのに全く二度目に見えない新鮮さが面白い。詠まれている、たぶん生卵の風景と相まって新鮮さがなじんでいくような、丁寧に丁寧に手入れされた盆栽のようなきれいな歌だなと思いました。

榊原 「割り開き」のような丁寧さが、「そこまで言わなくていいよ」、「ここは省いてもいい」という話にならないギリギリを攻めている技術の高さを感じました。この卵が目玉焼きであってほしくないというのが読んだ後、最後に残った気持ちです。これはやっぱり、「こころは慣れていく」の部分で卵を溶いて混ぜていてもらわな いと話にならない。卵をシャカシャカして、赤玉の殻の色と黄身の色と夕暮れの色、三つの暖色に心がなじんでいくのを見たいので、目玉焼きでは絶対にあってくれるなと思いました。
(中略)

穂村 我妻さんがおっしゃったように入れ子みたいで、秀歌に多い構造ですよね。神様が作った夕暮れの中に自分が居て、その自分が夕暮れの色の卵を割る。それがどこまでもクルクル回っていくような魅力があります。
この歌は①の歌と対照的に、共同体が磨いてきた秀歌性に精度高く球を当てている印象。それは簡単なことかというと、逆にとても難しい。みんながそこに球を当てようとするから距離がどんどん延びていって、強く当てることができるのは限られた歌人だけ。高野公彦とか、小島ゆかりとか、吉川宏志とか、内山晶太とか。この人たちとあの的に当てっこするなんて、そんなの無理じゃんって僕は早い段階で思ったわけですが、 この作者は高い精度で球を当てている。秀歌性批判をいつもしている僕も、やっぱり採らされてしまうほど。①の文体を評価しながら票は入れていないけれど、こちらは採ってしまいました。

永井 この歌にある研がれた秀歌性って、穂村さんが名前を挙げた歌人たちが自然に持っている秀歌性とはちょっと違うような気がします。作り込んだうえで出てくるものというのか、そこはむしろ作者の個性、面白いところなんじゃないかなと思いました。

穂村  秀歌を作る人には秀歌性が自然に宿っていたのか。

青松 でも永井さんが言ってくれたことは本当にガッツポーズです。この歌の持っている秀歌性にはレプリカ感がある。いわゆる短歌っぽい卵があって、それを一回メタ卵 にして持ってきている感じが。僕もこの歌めっちゃうまいと思ったし、よっぽど採ろうかと思ったんですけど、それ こそ狙って当てている感じが採れなかった。この歌を作った人の当たりを付けたとき、 この作者なら、この歌が狙って実現しているゾーンよりも高いレベルで成功している歌が他にあるんじゃないかと思ってしまいました。

伊舎堂 完全な秀歌性に投げるとしたら「慣れていく」じゃなく「溶けていく」な気がするんですよね。「慣れていく」って醒めている言葉じゃないですか。ここで「慣れていく」というのは、秀歌性に私を渡さないための最後の抵抗に感じます。

青松 秀歌性に陶酔しきっていないみたいなことですか。

伊舎堂 そう。この作者には、そんな抵抗が常に歌のどこかしらにある印象です。もっと疲れている時に読んだらいい歌に感じるかなと思いました。こういう秀歌は、 疲れてる人が短歌に負けて作るという感じ。短歌に完全には負けないための、「慣れていく」という語彙選択に感じます。

服部 私は心惹かれたのがその「慣れていく」でした。夕暮れって何百回、何千回と 経験するから、慣れてないはずがないんですよ。そのうえで夕暮れに「慣れていく」と 言ったということは、作中主体にとって一回一回の夕暮れが毎回別のものなんだなと。卵って冷蔵庫から取り出したらちょっと冷たいじゃないですか。それを空気とかき混ぜ ることで温度が落ち着いてくるみたいな感じで、ゆっくり自分の心が夕暮れに慣れてい く。そういう言葉で表現できないものを、「ああ、心が場所になじんでいく感覚、分かる」って思わせる歌。見えないものを読者に手渡せることがすごいなと思います。

特集「短歌と批評」(「文學界」2024年9月号:株式会社文藝春秋)

我妻の構造の話

1.メビウスと入れ子

ではこの範囲で、まず第一評者の我妻俊樹の話から見ていきたいと思う。該当箇所を、整理しやすいように我妻と穂村の話だけを再度引用する。

我妻 メビウスの輪みたいなねじれた円環、ループの歌だと思いました。卵ってかたちや色が太陽っぽいですよね。夕暮れの色の卵を割り開くというと、夕暮れを割って、 太陽のような卵を取り出したと読める。そして卵が心に引き取られて、心が夕暮れに慣れていって、また最初の夕暮れに戻っていく。夕暮れから夕暮れに戻っていくんだけど、その動きが同じ面での移動じゃなくて、次元の違う話にズレていく。
(中略)
穂村 我妻さんがおっしゃったように入れ子みたいで、秀歌に多い構造ですよね。神様が作った夕暮れの中に自分が居て、その自分が夕暮れの色の卵を割る。それがどこまでもクルクル回っていくような魅力があります。
この歌は①の歌と対照的に、共同体が磨いてきた秀歌性に精度高く球を当てている印象。それは簡単なことかというと、逆にとても難しい。みんながそこに球を当てようとするから距離がどんどん延びていって、強く当てることができるのは限られた歌人だけ。高野公彦とか、小島ゆかりとか、吉川宏志とか、内山晶太とか。この人たちとあの的に当てっこするなんて、そんなの無理じゃんって僕は早い段階で思ったわけですが、 この作者は高い精度で球を当てている。秀歌性批判をいつもしている僕も、やっぱり採らされてしまうほど。①の文体を評価しながら票は入れていないけれど、こちらは採ってしまいました。

特集「短歌と批評」(前掲書)

まずもって、第一評者の我妻からして私は「我妻がこの歌をどう読んでいるのか」という前提が不明だ。一回立ち止まって、これはなんの話なのか一度聞き手(読者)がチューニングしなければならない。

事実、第二評者から第四評者は、第五評者の穂村弘がこの話を受けるまでは我妻の話をほぼスルーしている。

「メビウスの輪みたいなねじれた円環、ループの歌」という我妻の指摘は、穂村によって「歌の構造」の話だと要約され、さらに穂村によって「秀歌に多い構造」という一般化が付け加えられた。この構造は「仕組み」と言い換えてもいいかもしれない。しかし穂村の言う「秀歌に多い構造」は、我妻が指摘した形状とはまったく異なっている。

我妻さんがおっしゃったように入れ子みたいで、秀歌に多い構造ですよね。神様が作った夕暮れの中に自分が居て、その自分が夕暮れの色の卵を割る。それがどこまでもクルクル回っていくような魅力があります。

特集「短歌と批評」(前掲書)

穂村は我妻が「メビウスの輪」と指摘した歌の形状を「入れ子みたい」と指摘し直している。「入れ子」とは「マトリョーシカ」とか、「箱を開けたら少し小さい箱」がでてくるように、「同じ形が反復する仕組み」と言い換えてよい。

穂村はここで二つの視点を提示している。一つは「神が夕暮れを作った」という神の視点(つまりはメタな視点)。そして主役の人物が夕暮れ色の卵を割っているという現実の視点。それがどこまでも「くるくる回っていく」という、たとえば「同じことの繰り返し」とか難しくいうと「再帰性がある」構造を見てとってもいいのだろう。

残念ながら、私は寡聞にして穂村の言う秀歌は「入れ子」みたいな「再帰性」を持っているという前提の論をそもそも読んだことがない。だから「入れ子」みたいな構造が「秀歌に多い構造」であるという一般化が正しいのか間違っているのかもそもそも私には判断不能だ。(付け足すと我妻がそれに同意しているかもわからない)

わたしも秀歌をつくる「秘訣」のようなものが穂村の指摘にあるのなら進んで取り入れたいが、どうも彼の秀歌に対する見解はそのような「技法(テクニック)」のような話ではないようだ。引き続きこの後、その意図をよく汲んで見よう。

そして我妻がなぜこの歌で、このような指摘をしたのかも、私には不分明で、もう少し詳しく読む必要がある。まず我妻の意見をもう少し詳しく考えてみることにしたい。

2.ループとねじれ


我妻は以下のように言っている。

卵ってかたちや色が太陽っぽいですよね。夕暮れの色の卵を割り開くというと、夕暮れを割って、 太陽のような卵を取り出したと読める。

特集「短歌と批評」(前掲書)


まず我妻は卵のかたちや色に注目し、それが「太陽っぽい」と言っている。言い方は不正確かもしれないが、卵を太陽と似た(類似した)ものととらえていると取れる。文学理論の用語で言うと「アナロジー」(2つ以上の物事の間にある共通点・類似点に着目し、それを応用する思考法)を見て取る西洋的な「見方や理論」が下敷きにあるといえるだろう。

ここまで来て私は我妻が「かたちや色が太陽っぽい」と言っているのは、割る前の卵のことではなく、割った後の生卵のことだと把握することができた。わかりやすくいうと目玉焼き(サニーサイドアップ)の形を保持した生卵であり、あくまで例えだが日の丸の形であり、どうやら太陽もそのような黄身と白身の形でたとえられているという「アナロジー」を我妻は見て取っていると思う。

そして我妻は、「夕暮れの色の卵を割り開く」という行為は、「夕暮れを割って、太陽のような卵を取り出した」と説明するのだ。

私はこの歌を時間に即して、そもそも「卵を割る」歌なのだからこの卵は割る前の卵なのだと理解していた。もっとシンプルに言うと、永井祐の指摘する「赤玉」説なのかと一瞬思った。

しかし、どうやら我妻の歌の読み方は、短歌を「上から下へ読み下した印象を言っている」わけではなく、短歌を読んだ後その短歌がどういう仕組みをしているかという「形状」を一度想像するような「読み」らしい。

そして短歌を最後まで読んだあと、

そして卵が心に引き取られて、心が夕暮れに慣れていって、

特集「短歌と批評」(前掲書)


(とここまでが書いてある歌についての鑑賞だが)さらに我妻はこのように付け足すのだ。

また最初の夕暮れに戻っていく。

特集「短歌と批評」(前掲書)

私は深く考え込んだ。これはこの歌の世界が「反復または輪廻される」という確信の上に立っているか、それとももう一度再読を促すような魅力があると言っているのか、少なくとも「何度も反復する」という前提の上に立っていないとこの言葉はでてこない。さらに我妻はこのように付け足す。

夕暮れから夕暮れに戻っていくんだけど、その動きが同じ面での移動じゃなくて、次元の違う話にズレていく。

特集「短歌と批評」(前掲書)

よく歌に「ねじれ」があるというような言い方を若い歌人から聞くことがある。我妻によるとこの歌は最後の夕暮れから「(確実に)」最初の夕暮れに戻って行く歌だといっていることになる。そしてその動きを前提として、「同じ面での移動じゃなくて、次元の違う話にズレていく。」と今度は次元のズレの話だという。つまり「穂村の言う「入れ子」とは少し違い、たとえば「魔法少女まどか☆マギカ」のような、「少し位相がずれた世界が何度も反復される仕組みだ」と歌の解釈で言っていることになるのだ。

ここまで我妻の話をよく聞いてきて、わたしは頭を抱えた。

少なくともわたしは「歌を読んだあとその歌がループする」ような仕組みとか構造を、「歌に書いていないところから「類推」し、しかも「断定」するような解釈」が出来たことがないし、我妻が何を根拠にそういうふうに言っているのかを理解できる自身もない。

たとえば、作者が歌のなかでそれを明らかにしているなら話は別だ。

たとえば飯田有子の

のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢/飯田有子                              

飯田有子『林檎貫通式』(BookPark)

は、少し見立ては違うのだけれど、一首の無限地獄というか、反復するような感覚を作者が歌で感取しているから、それは「作者がそう気付いた歌ですね」と言う事ができる。しかし

夕暮れの色の卵を割り開きこころは慣れていく夕暮れに

特集「短歌と批評」(前掲書)

という歌に、歌そのものが永遠にリピートするような反復性や輪廻を見ることは私には不可能だ。その根拠が夕暮れが2回登場するだけというのではなんとも言えない。私には我妻が、「多くの人が前提としていない仕組みや理屈」をいきなり出してきたように見える。

可能性は低いと思うが、私が出た歌会に我妻と穂村がいて、我妻が歌会でこのように言ってきて、穂村がそれを受けて「構造」の話をするような展開の歌会があったとしたら、恐ろしくて震え上がってしまうだろう。

かつて「歌会こわい」という話があったけど、わたしだったらこの歌会は非常に怖い。誌上だったからよかったと思うのだけど、居合わせたら怖いし、あまりに場違いな感じを感じて、いきなり逃げ出したくなるだろう。

我妻は冒頭から「他人が聞いてもよくわからない自分のなかの理屈」をマシンガンのように周囲の参加者に一斉掃射しているように見える。理解もできないし反論もできない。同意できる人は発言でき、同意、というか理解できない人たちはその部分については沈黙するしかないことは想像できる。そして真面目な人たちほど彼のいう「構造」に囚われてしまい、違和感で立ち止まってしまう。

こういうふうに活字になったものをゆっくり読んで、いま「それはあなたの独自の理論ですか」と質問することがかろうじてできるという状況なのである。

3.西洋視点と東洋視点

問題は我妻や穂村が言おうとしていることが「メビウスの輪」とか「入れ子」といった「形」や「構造」を提示したことで、果たしてわかりやすくなったのか、ということかもしれない。私は以前から、歌について西洋由来の言葉を使わなければもっと「すとんと、聞いている人の腑に落ちる」ような話ができるのではないかと思っていて、より「どういう構造か」などといわなくても「どういう仕掛けか」のように言い直せば数行で要約できるのではないか、という疑念を持っている。

「構造」は日本語では「仕組み」と言い直す事ができるかもしれないが、仕組みはやや「動いていないこと・止まったこと」を表すニュアンスがあるので、「読者がその仕組みのなかで動かされる」感じは「仕掛け」と言い直したほうがいいように思う。「ぜんまい仕掛け」のように動きを連想させる言葉になるからだ。

このように言い換えて見よう。

「夕暮れ色の卵」の「夕暮れ」と、結句の「夕暮れ」は同じ言葉なので、まず夕暮れ色の卵を割り開くということを起点にして、「自分も夕暮れになれていく」というなにか因果関係のような仕掛けがこの歌にあるように思います。割ったあとの卵は、太陽を表していると私は感じました。夕暮れを割ると太陽がでてくる。もしかすると、またもう一度最初の夕暮れに戻っていくような反復性があるのかもしれません。私は全く同じ反復ではなく、また違う次元へ戻るようなズレがあると感じました。

我妻発言の筆者による要約:特集「短歌と批評」(前掲書)

このくらい歌に即して噛み砕き、書いていないことには「あるかも」と推定のことばを言ってくれないと我妻の言いたことがわたしには全くわからないし賛同も否定もしようがない。

付け加えると、私が数学が苦手ということもあるかもしれないが、メビウスの輪とか入れ子構造というように「どういう構造を見たか」をいきなり言うのは、実は日本由来というより西洋由来の発想なのだと思う。

前も書いたが、西洋には「比喩」だけではなく、「隠喩」(いんゆ:メタファー)、換喩(かんゆ:メトミニー)「提喩」(ていゆ:シネクドキ)、寓意(ぐうい:アレゴリー)など、対象物と表現がどういう関係か、あるいはどういう仕組みかを言う専門用語がそもそもある。日本語にはこのような発想はなかったのでそういう言葉がなかった。「どう見たか」をいう言い回しを細かく指摘するのは、他の日本語話者には非常にわかりにくい場合もあると思う。

もちろん我妻がそういう指摘をすることは全く反対ではないし、「するな」という禁止をしているわけではない。むしろ私は我妻の話をもっとよく聞きたいような気がして入門書を買ったのだけど、「自分がどういう前提で物事を考え、それを人に伝えるか」ということを、話すときに意識しないと、「難しそうなことを言って、わからない人が沈黙せざるを得ないような空気を作っている」と感じられても仕方がないように思う。特に歌会の場は時間が限られている。評者の言うことを考えていたら時間が経過してしまう。最低限、「歌の仕組みの話をする」と言ってくれないと私はこれから何が来るかを予測することが出来ない。わたしは「こころの準備」はまったく出来ないままこの場の「歌評」に放り込まれることを思うと、とても恐ろしい。

4.読者である「私」はどこにいるか?


私の前提というか、私が歌を読む際に必ず注意することをあらかじめ示しておく。

まず、日本語で書かれた一首を読む私は、上から下へと一首の短歌を読み下していく。

(これは誰でもそうだろう。下から上へ読む人はいない。折り句を探す人はいるかもしれない)

歌を読むと、読みながら「こんな感じかな」という歌の「体(てい):=イメージ」が私の頭のなかに再現される。ただ、そのイメージが「歌に即したもの=歌に書いてあること」か「歌には書いていない、自分だけの見解」なのかを注意して、何をいうかを検討する。

また歌を読む「私」は過去の歌や記憶などから、似ているものや経験したイメージを引っ張ってくるだろう。それを私は注意して吟味しながら、あと場の空気を読みながら発言するだろう。

私が「海」という言葉で想像するのは、私にとっては「夕陽が美しい日本海」なのかもしれないが、ある人にとっては「広い太平洋」かもしれない。もちろん他の人には瀬戸内海だったり東シナ海だったりすることもある。

特に指定がなければ、どんな海を連想しても自由だ。ただ、この海は「日本海」だ、とかこの海は「太平洋」だ、というような断定は、特に「海」としか書いてなければ他の人には押し付けようがない。それが私の前提というか、「歌を読むときに注意していること」だ。

歌会の場で私と他の参加者が共有しているのは、眼の前の「短歌」のみである。これは、どんな場合でも変わらない。だから私はまず、理論を言えと言われたら、眼の前の「短歌」に書いてある言葉だけで、どんな人でも再現可能なことだけを一般化していおうとするだろう。

自分の解釈を言えと言われたら、わたしはこの海を日本海と思ったと言うだろう。解釈や鑑賞というのは、個人的なもので全然大丈夫。たとえば歌のなかの海が「日本海だ」いや「太平洋だ」とイメージしたことを、言ったり書いたりすることはとても重要だ。

ただ私はこの文章で、批評はこうでなければならない、解釈や鑑賞はこうでなければならない、というルールを誰かに押し付けて言っているのではない。

理論というのは、「同じ人間であれば、誰がやっても自然と同じ結果になること」を単に前提とするにすぎない。それは人に押し付けるまでもないことだ。これは「私の意見」ではない。常に本を読むという体験のなかで「誰であってもそうなる」という科学的な事実を、単に私は「短歌の場合に置き換えて、前提にしている」に過ぎないのである。

私が「前提がわからない」というのは、欧米などで「人間であれば誰でもこうなること」が既に読書という体験のなかで、受容理論とか読者論という形で、文学的にも哲学的にもかなり言い尽くされているにもかかわらず、いきなり「歌を読んで自分だけが再現できること」と「歌を読めば誰でも理解できること」を、まぜこぜにしていっているのではないか、と感じる場面が多々あるからだ。

自分が言ったことが「自分だけの解釈」なのか「誰でもそう感じることができること」なのかを自分で区別できないのは大変だ。それは自由とか不自由の問題ではない。そもそも「他の人がそう思えないこと」を無理に「そう感じろ」という前提で話すことで、他の人に不自由を強いている、つまりはなにかの暴力をふるっているということに自分で気づいていないということなのだから。

我妻の場合、「卵ってかたちや色が太陽っぽいですよね」という言い方が、あくまで自分の解釈を言っているのか、それとも他者にむけて同意を求めているのか、わからないから私は混乱している。

そもそも卵をという言葉を聞いて、誰もが「卵から太陽を思い浮かべられる」と考えるのはまず持って無理だ。そもそも「割る前の卵」だと私は思っていたのだから、「かたちや色が太陽っぽい」とは私は思えなかったし、それを前提にされるのはとても困るということなのだけど、我妻にはその危険性がわかっていないかもしれない。

メビウスの輪も、我妻はそういうふうに思うんだな、それはなぜなんだろうな、と私は考えることはできるが、歌をそういう構造で読むと我妻や穂村に前提を勝手に作られるのは暴力だ。わたしは全くついていけない。

そのように誰もが再現しようがない「歌に書いていないこと」を、いきなり前提であるかのように話をされても、私は困ってしまう。何か我妻や穂村だけが体験した短歌の書籍があるのか、それとも我妻や穂村のみがその構造を自然と見抜くことができる特殊能力の持ち主だから、彼らから見て当たり前のことを言っているのか、それがわからないから私は頭を抱える。

これは、文学などの授業ではもうみな自然と考えることなのだけれど、短歌の世界では、他の人たちが文学の授業を受けたとは限らないから、私は「歌は上から下に読み下す」とか「私たちが共有できるのは眼の前の57577の言葉のみ」という、ほんとに誰でも自然とそう考えていることを前提にしているにすぎない。

もしそんな場に出くわしたら、ひろゆきのように「それってあなたの体験ですよね。私体験してないんですけど」とか「えっ、それどこに書いてあるんですか?」ってとぼけてみようかと思う。

中入り

ここで筆をおきたいが私はまだ穂村弘の話にも到達していない。もう少し続けたいと思う。

もし付き合えるという方は私のエネルギー補充のためにいくらかコンティニューコインを投入して欲しい。次は穂村弘の「秀歌性批判」を私なりに敷衍して書いている。

そしておそらくこの回ではできないが、次回は「同じ引用」から、穂村以後の歌人たちの感覚を言葉にしたい。穂村弘についての部分は有料記事にするので続きはぜひ購入して欲しい。

やっと有料noteの使い方がわかった気がする。それでは後ほど。


穂村弘の秀歌性の話

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