ミニミニ随筆失敗!!

まとまったテーマのものを書くのは、ほんとに今つらいです。
まあ、最近、ほんとよく喋りますからね。

多分、ワンテーマを上げて一つつづ喋っていくと、すごくあちこちに話題がとんでガチャガチャしてしまうんです。

今日は先日、「書けるかどうかもわからず書く」と言ってしまった「ミニミニ随筆」の話です。そもそもこういうとき、「構想を見誤ってる」ケース、結構あります。

散文の場合は「この話をすると面白くなるな」っていうスパイスみたいなものと、「これ大変だよな」っていう作者の負担を同時に考えないと行けないので、韻文みたいに「思いついたらすぐ表現になる」わけではありません。

なので、今日は「書けませんでした!」という話をして終わります。

「寺山修司について-地方競馬と野球の話をまぜて、父の思い出といっしょに」


という随筆を当初、構想していました。

寺山修司の話、結構やばいことに、短歌俳句「以外」の寺山修司って、自分かなり早く、中学で不登校になったときくらいから知っていて、現代まで「文学者・随筆家・劇作家・映像作家・競馬評論家・詩人」としてめちゃくちゃ影響力を発揮している、寺山修司の魅力について語るのと、「短歌俳句」の寺山修司について語るのに、自分のなかで落差というか読んだ年齢に差がありすぎるという不思議な体験をしています。「寺山さん」は子どものときから知っているのに、「歌人・寺山修司」を見事に省略していたこととか、その辺から、うまく「地方」における競馬と演劇の話につなげようようとしていて、いろいろ調べ物をしていたのです!

 構想1 演劇について

実はいま関心があるもののなかに、「平田オリザさん」がおられます。

youtubeでインタビューとかを聞いてて、演劇には関心があって結構周りの知人で好きな人もいるので、まず第一人者として「平田オリザさんのインタビューでもきいておこうか」と思いました。そこで、たまたま学生と話しているのがあったので、ずっと見てたんです。


ところが、このインタビューがまったくおもしろくない。「何でそんなことを枕に話をはじめるんだこの人は?」という思いでどっちらけながら、1時間くらい最後まで聞いていて、「こんなつまらないことを言う人が、演劇の第一人者だなんてなにかの間違いにちがいない」と思い、他にも2つ最後まで見ました。

簡単に言うと、

「なんで中学・高校の敎育カリキュラムに「演劇」が入っていないか?」という話をオリザさんは良くするんですよ。

うーんそれはいいんですけど、語り方が酷いと言うか、

「世界のほかの国では演劇がほぼ敎育カリキュラムに入っているのに、日本を含めて3カ国しか演劇を教えていない国がない。これははずべきことだ」

ええええっ。こんなん語り方でいいのか…。

確かに公教育が成立した過程って実はすごく面白くて、当時の明治の人たちは、いきなり音楽とか美術をきちんとカリキュラムにとりいれて非常に優れた敎育体制を作ったと思います。

わたしだって、音楽の授業が毎回楽しみで、いまでも音楽というか、クラシック聞くの大好きだし、東京には6つくらいオーケストラがあるので、ふらっと聞きにいったり、チケットも学割とか、いまでも障害者割引があるからすごい安いしね。

美術館にいたっては、公的なところはいま割引が聞いて無料。

「他の科目」と比べて、演劇はまだまだ日本に浸透していないよね、っていうのは事実です。

ただ、「世界ではこうなってるから、日本もそうしないとだめ」みたいな論調って僕が一番キライなことって言うか、「日本が演劇に全く投資してない」という誤解はやめてほしいと思いました。

実はぼく高校のとき、文化系が演劇部しかなかったので、ちょっともぐりこんで演劇を少しだけ見ました。地方だから演劇なんて生で見れないし、BSでたまにやるのを見てた感じ。

青年団の演劇もその時ビデオで見たけど、くっそつまんなくて「うわーっと思った」記憶があります。

日本では演劇という言葉ではないけど、歌舞伎とか能とか大事な伝統芸能として、特に能なんてお客さんまったくいないのに公演はできるじゃないですか。

ただ平田さんが言ってるのは「現代口語演劇」のことですよね。ぼくなんかは1980年代になってから小劇場ブームでちょっとBSで演劇がやった時期に見たくらいなので、夢の遊民社とか、青年団とか、惑星ピスタチオとかは見ました。

あと、大学にいたとき下北沢のスズナリで中島らもさんの演劇を見ました。終演のときに劇団員がいきなりちくわを客席に投げ込みはじめてびっくりした記憶があるけど…。

東京にいたのに演劇にハマらなかったのは、「チケット代」があるかな。1回1500円前後と決めていた大学時代のお財布からすると、演劇は倍以上。「学生料金もないし、あれを毎回行ける人って相当裕福な人か、コミットしてるひとだな」と思った記憶があります。僕自身、体を使った表現がすごいニガテなこともあるけど…。

ただ、口語演劇はほんとこれからでしょ、って感じ。ぼくが直感的に思ったのは、日本人って「生身の身体をさらすのにすごい抵抗感ある人もいる」ということです。

ぼく恥ずかしすぎて演劇は出来なかったですね…。

実際歌舞伎とかすごい化粧するし、能はお面をかぶるわけで、日本人が等身大の姿で舞台にたつってあんまり流行ったことない気がする。

ということで、この話はなんかネタになりそうだ、と思って、思わず今まで読んでなかった、世阿弥さんの「風姿花伝」を必死で読んでおります。

ただ、演劇はすごいブームになってきてるのは把握してて、青年団以降のチェルフィッチュとか五反田団とか、みんな戯曲だけでなく小説も書いてイて、新しい風を送ってるようなイメージです。

80年代のブームだけで「全国で演劇教育」っていうのがちょっと説得力なさそうというのは普通に思うし、演劇を保護してないというのは嘘だし、(演劇とは言わないけど、古典芸能としては非常に高い評価ですよね)突っ込むところしかなくて、どうしようと思って震えたけど、平田オリザさんは豊岡で大学まで作ってしまって、実際に敎育にも携わっておられます。

その話はすごく興味あって、あとオリザさんの「幕が上がる」もリバイバルされてるとか、一体どういうことなんだろうという興味があるので、これからも継続調査。

大学の話を聞くと、「あ、これめっちゃ面白そう」って思いました。

ぼく基本的に興味津々な人なので、ぜひ「演劇の面白さ」を語って欲しいんです。田舎もんだから、わかんないのよ…。ただ、「演劇がないのが恥ずかしい」とか上から言うのはホントやめてほしい。ぼくは「演劇をするほうが恥ずかしかった」ので、こういう言い方あんまり得意ではないです…。

文学→ことば
美術→絵
音楽→音
演劇→からだ

って、伝える媒体が違うだけで、芸術であることは間違いないので、これからもどのジャンルも広く深く勉強しようと思っています。ほんとぜひぼくも頑張るので、内輪の言葉ではなくて「やってない人に面白さを伝える努力を一緒にがんばりたい」と思いました。

。。。。。。。

って話してくと、ミニミニ随筆じゃなくって、ワンテーマの文章になっちゃうんです!!!!!!

寺山の話をきちんとして、演劇とか競馬の話もして、で、短歌俳句の寺山と「その他のジャンルの寺山」の話とかしていくと、ほんと韻文なら一瞬で終わることなのに、散文は著者の負担が半端ないです!!!

読む人も大変そう…


あとこれにくっつけようとしてた話が、

「父親と最初にいった新潟県競馬のイメージキャラクターが高橋源一郎さんだった話」ですよ。

最初「この人小説家なんだ!」と思って読んで、「優雅で感傷的な日本野球」とか読みましたよ。

高橋さん、言い回しは面白いかも知れないけど、野球と競馬の話になると、いきなりチートがかかって、とにかく本質論みたいなことしか言わない田舎のうちの父親のほうが数段高橋さんより役にたって、なおかつ本質的だった、という話とかを織り混ぜる構想とか、

構想だけで「よく書く気になったな」と思いました。

寺山さんを枕に、平田オリザさんと高橋源一郎さんに喧嘩を売りながら、地方競馬と地方の演劇について論ずるとか「構想はした」んだけど、これ絶対おもしろいけど、さすがに「ミニミニ随筆」で収まる話じゃねーな、と思って困ってました。

誰かもうちょっと中身を絞らせて、なんか書かせてくれないかな…と思ったりしてます。絶対面白いから…。

ていうか、書く前に書けるかどうかを判定する能力がほしいです。

             ※

あとこれに、ぼくのなかの「寺山さん」の話ですね。これと「歌人・寺山修司」が全然違うという話も、すごい面白いよ。(といってもいま詳論はしないけど)

はっきりいいますが、僕自身、「歌人・寺山修司」はまったくおもしろくないと思います。

短歌のなかで、ではなくて、「寺山さんの書くもののなかで」。

よりによって一番寺山さんがニガテな分野で、勝手に歴史にされちゃって本人も困ってるような印象しかない。早く前衛短歌なんて辞めてしまえと思っていて、「寺山さんってそもそも歌人じゃないからね」って思うんですよね。

じゃあその他のジャンルでは評価されてるのかって言うと、おそろしいことに最も本領を発揮したであろう他のジャンルでは、寺山さんってまったく拾われてる気配がなくて…。

ほんと、寺山修司の凄さってなんで誰も言わないんだろうと思ってたんですが、ぼく自身よく考えれば、寺山さんの文庫全部持ってるのに綺麗に「短歌・俳句は読み飛ばしてた」ので、拾わないんじゃなくて、やっぱり短歌・俳句と、詩人・小説家、劇作家、競馬評論家、映像作家って、かなりクリエイションの質が違うので、短歌俳句がわからないときちんと寺山論がかけないんじゃないか、と、みんな思ってるんじゃないか、という話です。

ほんと、「短歌俳句」は異質なんだよ。

学生時代のぼくは、短歌や俳句というジャンルを「文学」と認めて読んでいなかったから、相当「小説好き」だったころの僕には、「あれは習い事でしょ」みたいな意識があったので、やっぱりアレルギーがあると思う。韻文の人でも、詩は大丈夫だけど、短歌俳句はダメ、っていう人もいるし。

僕も意味がわかった。ほんとに散文から韻文になるとき、小説家が詩を読むというパターンしかたぶん流通してないから、短歌俳句は知ってたけど、真面目に勉強しようといてなかったなあ…。

それがいざ始めるとなって、
今さら「短歌の神様」とか頼れる身分じゃないな、と思ってました。

寺山さんは歌人じゃないって話、これも、なんか短歌の歴史とか書いてるひとを完璧に敵に回すと言うか、こちらだけに無用な精神的負担がかかるような気がして、また今度書きます。

でも、『起きられない朝のための短歌入門』を読んだ限り、平岡直子さんの疑問は奇異じゃなくて、非常に自然な印象がしました。

「寺山さんは謎」って何度も入門書のなかでいう平岡さんも面白かったけど、たまに平岡直子さんって西洋的な論理=ロジックではないものですごいの釣り上げてくるから怖いね、っていう話を、いちおう知人なので、直で本人に伝えたいです。


…ということで、「ミニミニ随筆」失敗!
全部「思いつくことは面白いんだけど、連動させたら5年かかる」

という話でした!!!

またね!!!

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