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「文学の自然主義・自然と写生・日本人の自然観」ーいま何の勉強してるの?

おっ。短く考えをまとめていたら、意外とからだへの負担が少なくて、ヘッダーとかも作る余裕がありました。

そこで、もう一本「ミニミニ随筆」を書いてみます。

「いま僕が何の勉強をしているか」

についてわかりやすく説明するミニミニ随筆です。


短歌史と文学史


実はぼくって結構「知識がある」ほうだから、そんなに勉強する必要ないじゃないか、と思う方もおられるみたいなんですけど、ぼく自身は全然足りんと思っていて、膨大な知識を整理するためにさらに勉強する必要があるんです。

ぼくの勉強歴はこんな感じ。

大学で小説を中心として明治以降の近代文学を勉強しました。

29歳で短歌をはじめて、近代から現代短歌史について勉強しました。

文学史と短歌史を知ってる、というと聞こえはいいのですが…。

社会人になったり、「短歌に入門する」って初心に戻るなかで、大学時代に1000冊くらい買ったはずの「詩や小説中心の文学史」をすっかり忘れてしまっていたのです。

だから短歌史は短歌史で興味深く勉強したんだけど、「あれ、日本の文学史とあんまりつながってない」という、ほんとの「短歌バカ」になってしまっていました。

わたしたちが考えるような「主題」とか「素材」って、だいたい戦前までには既に登場したりして揃ってたから、ぼくのなかでは「バラバラ」に見えますけど、「文学史」と「短歌史」は繋がってないとやっぱりおかしいですよね。

だから文学の知識と、短歌の知識を糊で貼り付ける作業、みたいなことをしています。

「あ、こんなことあったな」

とか。

「この概念とこの概念ってどう結びつくのかな」

とか。

で、ある程度メドが立ったので、わたしは歌人から「文人・文学者」を名乗ると決意しました。

今回は、挨拶代わりに「間違えやすい文学史の概念」について軽く説明します!

文学と絵画と自然のミニミニ随筆です!

自然・自然主義・写生


1.自然と自然主義


「日本の自然」というと「「トトロの森」とか「釧路湿原」とかいわゆるネイチャーの美しさでしょ」

といえば、イメージがつくのですが、翻訳が大混乱しておりまして、

・自然主義

という文学の流派がまったく誤解されてます。

「名前は知っている」という方も多いと思いますが、ここで言う「自然」は、このトトロの森や湿原とはまったく関係ありません。

フランスで自然主義というのが起こったとき、代表的な作家はモーパッサンやゾラです。(ぼくもモーパッサンの「女の一生」は読んだ気がするけど「どこにも自然の美しさは登場しなかった」記憶があります。)

あんまり現実を美化しないでありのまま書く、めちゃくちゃ社会を書く。のがそもそもの自然主義なので、自然主義が書く対象は、「社会」なんですよ。

この前提をまず知らないとごちゃっとします。

日本の自然主義の小説、代表作は何があるか、というと島崎藤村の『破戒』です。

これ、「えた・ひにん」の話なんです。主人公が、長野の田舎で教師になって「自分は「えた・ひにん」の部落の出身だ」とカミングアウトする話です。

どこも自然がでてこない。長野が舞台というくらい。

あとは田山花袋。

この人は、『蒲団』という問題作を書きました。

片思いだったか、ちょっといますぐあらすじがでてこないんですが、ラストシーンが衝撃的で、

「好きな女性が寝てたふとんに横たわって「自分が性欲がある」ってことに煩悶しながらふとんに残った女性の匂いを嗅ぐ」

というちょっと気持ち悪い話だった気がする。全然「自然」じゃないんです。

まず、

自然主義が書こうとしたのは「社会」である

というのを頭に入れて、一回、自然保護とかの「自然」と切り離すと、ちょっとクリアになります。

2.日本人の自然観

明治期に、ちょんまげを切り落とし、近代社会になる以前にも、日本に自然を愛でる趣向はありました。

・江戸時代までの「花鳥風月」


江戸時代までは「花鳥風月」という言い方があり、日本人の自然好きとしていまも「日本のこころ」の代表みたいに取り上げられるので、まだ概念は残っています。雅、とか、遊び心みたいなのとセットでいろいろ旅館のおもてなしとか、上品な料理屋さんなどでは大事にされている感じです。

この「花鳥風月」のこころをもっていることを、「風流」と言いますが、「(花鳥)風月流」が短くなったのかは、わかりません。風流な人とか、風流人ってまだ言います。

もちろんぼくは風流人ではありませんが、説明しろって言われたら、絵を見せるかな。

エイッ!

ぼくも絵は専門ではないですが、室町時代から江戸時代にかけて、将軍や武士の御用絵師になった人たちの中に、「狩野派」がいるのを知らない人はいないと思います。人名でいえば狩野永徳さんが有名だけど、城の屏風とか、掛け軸とか、あちこちに絵を書いていた家柄です。室町から江戸まで、その家と技術は大切に保護されていたそうです。

修行も厳しくて、「稽古書き」という絵の模写を修了するまで早くて10年かかるとか、聞くだけでびっくりですが、この人たちが「花鳥図」というのを書いているので、いろいろはしょって、僕はイメージをわかせました。

専門的な話は勉強中ですが、雀に竹とか、鷺と雨とか、なんか雰囲気がでそうなものを、とりあわせるみたいな話も聞くし、詳しい方ぜひ教えて下さい。


ただ、ざっくり、江戸までは日本画っぽい。と覚えていていいのではないかと思います。

・正岡子規と写生


正岡子規が写生というとき、批判したのはこの「様式化した日本の美」という固定観念でした。そこで子規は「写生」を言い出します。

写生というのは翻訳なんですが、もともとは西洋の「スケッチ」ですよね。
西洋のスケッチの概念が、「自然をありのまま移す」写生につながっていきました。

四十五
○写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である。これは早くより西洋では、用ゐられて居つた手段であるが、しかし昔の写生は不完全な写生であつたために、この頃は更に進歩して一層精密な手段を取るやうになつて居る。しかるに日本では昔から写生といふ事を甚だおろそかに見て居つたために、画の発達を妨げ、また文章も歌も総ての事が皆進歩しなかつたのである。それが習慣となつて今日でもまだ写生の味を知らない人が十中の八、九である。画の上にも詩歌の上にも、理想といふ事を称(とな)へる人が少くないが、それらは写生の味を知らない人であつて、写生といふことを非常に浅薄(せんぱく)な事として排斥するのであるが、その実、理想の方がよほど浅薄であつて、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬ事である。

四十七
○この頃『ホトトギス』などへ載せてある写生的の小品文を見るに、今少し精密に叙したらよからうと思ふ処をさらさらと書き流してしまふたために興味索然(さくぜん)としたのが多いやうに思ふ。目的がその事を写すにある以上は仮令(たとい)うるさいまでも精密にかかねば、読者には合点(がてん)が行き難い。実地に臨んだ自分には、こんな事は書かいでもよからうと思ふ事が多いけれど、それを外の人に見せると、そこを略したために意味が通ぜぬやうな事はいくらもある。人に見せるために書く文章ならば、どこまでも人にわかるやうに書かなくてはならぬ事はいふまでもない。あるいは余り文章が長くなることを憂へて短くするとならば、それはほかの処をいくらでも端折(はしょ)つて書くは可(よ)いが、肝腎(かんじん)な目的物を写す処は何処までも精密にかかねば面白くない。さうしてまたその目的物を写すのには、自分の経験をそのまま客観的に写さなければならぬといふ事も前にしばしば論じた事がある。

正岡子規『病牀六尺』 
 青空文庫版より

正岡子規の晩年の『病牀六尺』にも、当然書いてありますが、イメージがつかない感じがあるので、例を引いておきました。

正岡子規という人は漱石の友人で、結構その関心は僕も高かったのですが、
現代でどう理解するか、みたいなことは、小説だけを読んでるととちょっと理解が難しいです。

この写生を使うとき、「西洋の概念」を子規は借りましたが、彼は別に西洋画が好きだったわけではないようです。実際、『病牀六尺』ではたくさん日本画の鑑賞があり、彼はむしろ日本画への関心がかなり高かったみたいです。

しかし、それとは切り離し、文章では「精密にかかねば面白くない」と言い、写生を提唱したのです。正岡子規や近代短歌を理解するときに、まず写生という概念はスケッチと言っていいし、「絵画と関連してるもの」ととりあえず理解したほうがいいかなと思います。


3.写生と自然主義

自然の美しさを始めて文章でスケッチした人は国木田独歩です。独歩は小説家としても知られてますが、もとになった「武蔵野」というのは随筆です。青空文庫で読めるので、ぜひ。

独歩は、自然の美しさというとき、なんと「雑木林が美しい」と言い出し、素朴な自然が美しいのだ、と、雑木林の様子を随筆でスケッチしました。

武蔵野はいまでは東京都武蔵野市ですが、当時は東京二十三区のみが「東京市」でした。いまの武蔵野は、雑木林が広がるだけの林野だったようで、東京ではなかったのです。

こう書くと、独歩は「自然主義の作家じゃないか」と言われるんですが、当時は近代化を「とにかく急いで進めなきゃいけなかった」ので、文学者も忙しくてですね…。

小説というジャンルもなかったり、詩も海外の輸入があったりいろいろ大変だったので、独歩も、前半は浪漫主義で、後半は自然主義みたいな忙しいことになってます。武蔵野はいちおう、浪漫主義の独歩なんだよなあと言っていいのかなと思いますが…。あんまりどうでもいいかな。

こういうふうにちゃんとイメージしておぼえていくとわかりやすいのですが、言葉とか字面だけなぞると、非常にわかりにくいです。現代と同じ言葉が別の意味で使われたりするので、混乱もするよね、って感じ。

しかし、この明治の約40年間、大正の約15年間、昭和初期までで、ほぼ文学史ができあがるので壮観です。ひとつひとつしっかり「イメージを立てて覚えていく」作業が面白いのです。

おわりに


日本は洋画の技術、リアリズムをとりいれたのは結構早かったそうです。

実は江戸時代にすでに洋画は伝わっており、明治五年にはもう江戸期に生まれた初の洋画家の高橋由一によって画塾が開かれているくらい…。

高橋由一で僕が知ってるのは「鮭」の絵です。アラマキジャケを書いているので、新潟県民の自分などは懐かしいなと思いますが、これには深い意味が…。


ぜひ、芸大のHPを見てみてください。
あとは、日本が洋画をはやばやと取り入れた理由というのは、ずばり

「戦争で使うから」

だったというのもびっくりなトリビアです。

遠近法など、西洋的な図面を書く技術をいち早く幕府時代から重視して取りいれたので、近代化後、初の対外戦争となった日清戦争で、高地の地形をくわしく書くことがで来たらしいです。

ただの絵を描く技術が、日本では軍事技術だったというのは驚きです。(これもどこかのHPでみたんですが、原典をとってなかったので紛れちゃいました。詳しい方ぜひ教えて下さい)

ということでミニミニ随筆ここまで。

またよろしくです!!
おやすみなさい!

2024-06-28 23:24(文章修正)
2024-06-29 1:28(文章修正)

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