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【ミステリ小説】夏の終わりのマーメイド(後編)


 (あらすじ)『民宿はまゆり』でダイビングツアー補助のバイトをしているぼくは、お客さんが不思議な生き物を目撃した話をきく。
 ぼくは店長の娘さんの夢愛さんが、赤いスポーツタイプの車内で男と言い争っているのを目撃する。
 東の突堤で不審車が駐車していたため、注意しに向かったぼくは、内側から目張りされた車内で、男が気を失っているのに遭遇した。


      3

 海関係のスポーツは一切やらない、というもーやんは、
「なんでこのバイトを選んだの?」
という問いに、綺麗なねーちゃんがいっぱいいるからな。と明瞭な答えを返したものだ。
 少なくとも医療従事者を散々バッシングしたあげく、医師不足を招いておいてまたそれを問題視するマスコミなんかよりはよほど潔い。

「あの後も忙しかった」
『カモメ荘』に彼を尋ねると、ロビーでぐたーっと長椅子に寝そべりながらそう言った。
 築四十年以上は経っていそうなこの民宿の玄関ロビーには冷房がなく、天井で形ばかりの扇風機がやる気なさそうにゆっくりと回っていた。
 有線からはコテコテのビーチサウンドが流れている。
「レッカーであの車を運ぶのに時間が掛かって……」
 ぼくが壊した車は警察に押収されたらしい。あとで修理代を請求されたりしないだろうな。ぼくは少し心配になる。

 もーやん自身はその後も炎天下で、自動車の誘導を続けたとのことだ。ぼくは雇い主に恵まれたことを感謝した。
「聞きたいことがあるんだけどな」
 彼は眠たそうな目をこちらに向けた。
「今日駐車場で配置に付いたのは何時ごろだった?」
「八時ごろかな」
「そのとき、もうあの車は突堤に入り込んでいたんだね?」
「そうや」
「間違いないだろうね。その証言があとで重要になるかもしれない」
 深い考えもなく念を押したぼくの言葉にうーん、と考え込んだあげく、「なんや、よろず屋は探偵のまねごとまでするんかいな」

 もーやんまでぼくの副業を知っていた。ぼくは宣伝が行き届いていることに満足した。
「いや、少し気になることがあってね」
「ボクが駐車場に行った時、立ち入り禁止のトラロープが緩められてて、あの車がおったんや」
 もーやんはロープを張りなおして配置についたと言う。
 ぼくの脳裏にむくむくと疑惑が沸き起こる。自殺するのにあんな目に付く場所を選ぶだろうか?

 ぼくは癖になったかのように、リストバンドを入れてあるポーチを触った。
 夢愛さんはいつ、何をしているときにこれを落としたのだろう?
「そのとき、あそこには他に人はいなかったんだね?」
 もーやんはぼくの問いにそうや、と答えたあと尋ね返した。
「あれは保険金狙いの殺人とか言うんやないやろうな?」
「まさか! 内側から目張りがしてあった以上、自殺に間違いないとは思うけど」
 ぼくとしては、夢愛さんが果たした役割が気になるだけだ。

「そんなことあらへんで」気がない素振りだったもーやんは、身を乗り出して俄然話に乗ってきた。「奇術ネタを得意にする推理作家のカーやロースンに類似のトリックがある。密室殺人のバリエーションやな」
 五百円玉を人差し指と中指の間にはさむと、器用にくるくると指の間を回転させた。どうやら彼は奇術マニアでミステリマニアらしい。

「へ~」ぼくは感心して尋ねた。「たとえば、どんな方法があるの?」
「基本はガムテープを外側から物理的に吸引するか、内側から押し付けるかして外から機械的に張りつける方法やね」
 そんな仕掛けをする余地は、現場にはなかったなあ。

「犯人の襲撃から逃げるために、被害者が自ら現場を密室にしたあと事切れてしまうのも、この場合の定番やな」
「キーは車に付いていたな」ぼくは思い出しながら言った。「誰かから逃げるのなら目張りなんかしても役に立たないし、第一車を発進させそうなものだけど」
「スペキュレーションや。探偵はいろんな可能性を考えなあかん」
 いつの間にか自分が探偵になっている。

「ほかにも方法はある」
 もーやんは内側からガムテープを張ったように見せかける、もうひとつの方法を教えてくれた。
 彼が最後に口にした偽装方法は、もし夢愛さんがあの場にいたなら可能だったかもしれない。
「もっとも、この場合の欠点は……」
 もはやぼくの耳には、彼の言葉は入ってこなかった。

「まさか、本当にそんなことが行われたとは思ってないだろうね」
「おまえが言い出したことやないか。それに何が起こったのかは、被害者自身が回復したら聞けばええことやろ」
 それはそうなんだけどね。えっ? 被害者が回復したら?
「まだ意識は戻ってないらしいけど、意外に症状は軽いらしいで」
 えっ?
「なんや、そんなことも知らんと、密室殺人て騒いでたんかいな」
 いや先にそれを言い出したのは、もーやんだったと思う。

 ぼくはあの人のぐったりした状態を直に見たものだから、死んでしまったものと思い込んでいた。
「どうしてそんなことを知ってるの?」
「清水の爺さんが、警察に尋ねられたことを言いふらしとるがな。逆に根ほり葉ほり警察に尋ねて、厄介がられとるらしい」
 そう言えば、清水翁の事務所に不審な電話があったことが事の発端だった。
「その後の様子も気になるし、清水さんに聞きにいこ。本人も話したくてたまらんとこやろ」もーやんが身を起こしながら言った。「ボクも午後からヒマやねん」

 長年漁協のトップだった清水さんは、当時漁師さんと犬猿の仲だったダイバーとの仲介にいち早く乗り出し、現在の龍ケ崎の繁栄の基礎を作った功労者だ。
 実際どこよりも早くレジャー産業の可能性に目を向けたのは、先見の明があったというべきだろう。
 その功労に報いるためか、彼は漁協の事務所の中に専用のこじんまりした部屋をもらっている。部屋の中はダイブ・フェスを宣伝するポスターが一面に貼り付けてあって、その中で清水翁は机に突っ伏してこっくり、こっくりと舟を漕いでいた。

「今朝は釣れましたか?」
 もーやんが耳元で言うと、清水さんは慌てて身を起こした。
 片耳から緑のアイポッドがぶら下がっている。なかなかシャレた爺さんだ。
 もーやんは勝手知ったる様子で、給湯室でお茶をいれると清水さんとぼくに茶碗を渡した。
「今日はミキちゃんもダイブ・フェスの手伝いなんですね」
 事務の女の子とも親しいらしい。
「最近釣果もさっぱりでの。これも温暖化のせいかな」
 職業としての漁師は引退した清水さんだが、雨が降ろうが台風が来ようが早朝の釣りはかかさないらしい。

 如才がないもーやんは、ぼくよりもよっぽどよろず屋稼業に向いている。
「今朝はご苦労だったね」
 清水さんがねぎらってくれたのを潮に、話題を捕らえて質問を始めた。
「あの人の状態はどうなんでしょうね」
「まだ意識は回復しとらんが、命に別状はないらしいな」
「やっぱり観光客なんですかね」
「いや、それがな」清水翁は身を乗り出しかけて、「おっと、これはオフレコだった」
 口を閉ざした。何か訳ありらしい。
「教えてくださいよ。気になるじゃないですか」
 その後は、もーやんが手を代え品を代え尋ねても話そうとしないので、切り口を変えることにする。

「あの車が突堤に来たのは何時ごろなのか、警察はつかんでいるのでしょうか」
「ああ、それならここでわかるよ」清水さんは机上に設置してあるモニターのスイッチを入れた。「定点監視カメラに写っていてね」
 一昨年突堤で観光客が揚げた打ち上げ花火が釣り船に燃え移る事故が起きてから、監視カメラを備え付けたのだという。
 警察にも映像のコピーを提出したそうだ。
 清水さんはもう何度か操作したのか、慣れた様子で問題の時刻の映像を見せてくれた。

 定点カメラは全体を俯瞰する形で、突堤への入り口にあたる臨時駐車場のあたりを捉えていた。
 映像の左下の時刻表示が七時三一分を指した時、赤い車が画面を右から左に一瞬横切った。
「拡大できますか?」
 清水さんは車の静止画像を拡大してくれたが、解像度はあまり良くなく、撮影位置からも助手席に人が乗っているかどうかわからなかった。
「安モンだからな」
「今朝ここに電話があったそうですね」
「ああ、ミキちゃんが電話をとった。九時半ごろだったよ」

 相手が言ったのは、ぼくが清水さんから聞いたとおり、突堤の車の中で人が倒れている、とのことだった。
「通報者は名乗らなかったのですね? 電話をとったミキちゃんは、声の特徴とか何か言ってました?」
「それが声色を変えていたらしくってな。男だったか女だったかも判然としないらしい」
 相手の電話は番号非表示だったとのことだ。なんだか怪しい。
 未練がましく監視カメラの映像をいじくっているぼくに、
「安モンだからな~」そんなに卑下することもあるまいに、清水さんは繰り返した。

 なんか役に立ったか? 清水さんに挨拶して漁協をあとにすると、もーやんはそう尋ねた。
「悪いけど、前夜祭のミス龍ケ崎コンテストは見逃すわけにいかん」そう言って、ぼくに手を振った。「『はまゆり』の夢愛さんが出場したら優勝できるのにな。今度一緒に飲みましょう、と誘ってみてや」

 カンがいい彼は、ぼくが調べているのが夢愛さんに絡んでいることだということを察しているのかもしれない。
 もし夢愛さんと一緒の飲み会が実現したらその関西弁は封印したほうがいいぞ、とアドバイスしてやろう。

 その後もぼくは慣れない聞き込みを続け、今朝のできごとのタイムテーブルを組み立てた。
 七時三一分 漁協の監視カメラで、赤い車が突堤に入るのが確認される。
 八時十分 もーやんが臨時駐車場に配置され、赤い車に気づく。
 九時三十分 事務所に車の中で人が倒れていると匿名電話あり。
 その一方、今朝の夢愛さんの行動もわかってきた。
 ダイブ・フェスの手伝いをするという彼女を見送ったのは、八時過ぎだった。しかし夢愛さんは、公民館で婦人会が行っているステージ飾りつけの装具作りを手伝うはずだったのだが、顔を出したのは十時前だったらしい。
「指月さんとこも、上の子は真面目だけど下の子はねえ~」
 情報提供者の婦人会のおばさんに、散々グチられてしまった。

 人魚姫は、足を得るとともに会話を封じられた。
 おしゃべりじゃない美少女という理想的な恋人候補に気づかないバカ王子は、結局別の女を選んでしまうわけだが、この魔法には王子が姫以外の女と結婚すると姫は泡になってしまう、という付帯条項があった。
 わがままな末娘のために、姉たちが王子を刺し殺せば(殺人教唆は刑法第六十一条により、正犯の刑を科される!)もとの人魚に戻れる短剣を手に入れるのだが……

 ぼくの妄想が悪いほうへ広がる。
 夢愛さんがいつもしていたリストバンドが切れて落ちていたことから、あの車の側に彼女がいたことは間違いない。彼女は今朝のアリバイがない一時間半、どこで何をしていたのだろう?

 いや、それよりも一時間半で夢愛さんはあの突堤の先まで行けたのだろうか? 
 監視システムに彼女が写っていたかどうか確かめるすべをぼくは持たないが、定点カメラだから知っている人なら写らない死角を通って先に行くことはできただろう。

 夢愛さんは自転車には乗れない。原付などの免許も持っていない。
 協力者がいれば別だが、彼女の気性からそれもないだろうと思った。

 海からはどうだろう?
 ボートやマリンジェット、ウインドなどは湾内で禁止されているし、そんなものがいなかったことはぼくが監視塔から見ている。第一夢愛さんにはそれらを扱えない。
 泳いで行けないこともないが、彼女の泳力で可能だろうか。
 ぼくはウエストポーチから、くだんのリストバンドを取り出して見た。どこでも買える品物だ。

 今日彼女はリストバンドをしてたろうか?
 そこまで考えて苦笑する。ぼくは何をやっているのだ。ひと言本人に聞けばいいことなのに、なにをウジウジと。
 わかってはいるのだが、最後のウジウジついでだ。

 ぼくは自分用の袖の短い夏仕様ウエットを付けると、マスク、シュノーケルを持って海に入り、フインを履いた。
 西に傾いた太陽が斜めに光を落とす中、ゆっくりと突堤を目指して泳ぎ始める。
 ダースベイダーの息遣いのように、コー、コーとシュノーケルを通した呼吸音が響く。

 もう秋と言ってもいい海の中には半透明のクラゲが浮いていたが、触手に毒のあるカツオノエボシではなかった。
 海岸では前夜祭が始まったようで、マイクを通したクイズ大会の様子が聞こえてくる。

 思ったよりも速く突堤にたどり着くと、ぼくは階段に腰掛けてフィンをはずした。
 干潮らしく潮位が低くて何段か余分に登らなければならなかったが、これなら夢愛さんでも突堤に上がることはできそうだ。
 車があった場所は午前中立ち入りが制限されていたようだが、今はもう解除されている。

 時計を見ると龍ケ崎を出てから二十分経っていた。
 一時間半あれば充分往復できるが、右足の悪い夢愛さんはフィンを使うわけにいかない。やはり無理だろうと思った。
 リストバンドが落ちていた場所はすっかりきれいになっていて、ぼくが割ったガラスの破片も片付けられている。

 彼女にひとこと確認すれば済むことだ。
 そう言えばあの男性が自殺未遂したことを、夢愛さんは知っているのだろうか?
 そのとき、湾内の水面で尾びれのようなものが踊ったのが見えた。
 ぼくは慌てて階段を下り、海に飛び込んだ。尾びれの航跡は龍ケ崎の方向に消えてゆく。
 本気で泳いだのに、あっと言う間に引き離されてしまった。

 途中で追跡をあきらめたぼくは、元の浜辺に帰ると呆然と佇んだ。
 前夜祭のプログラムはつつがなく進行し、もーやんが楽しみにしていたミスコンが始まったようだ。
 あれはいったい何だったのだろう? 先週、まーちゃんたちが話していた人魚のような未確認生物? まさか!

その時、ぼくは唐突にいろんなことを説明できる仮説を思いつき、砂を払うと『はまゆり』の機材倉庫に向かった。
  探していたものはすぐに見つかった。使われたばかりのようで、まだ雫がついてていた。
「何してるの?」夢愛さんの声が背後からした。

 タンクトップに短パンの夢愛さんが、倉庫の扉を背景に立っていた。
 シャワーを浴びたところらしく、長い髪が濡れて頬がやや紅潮している。
 ぼくは手にしたものを下ろし、切れたリストバンドをポーチから取り出した。
「これ拾ったんですけど、夢愛さんのじゃないですか?」

 彼女は何も付けていない右手首を触った。
「あ、ありがとう。どこで落としたのかな?」
 勘違いであってくれればと思っていたのだが。
「まちがいありませんか?」ぼくは確認した。「どこで拾ったか、わかります?」
「なによ。意味ありげに」
「今日自殺騒ぎがあった東の突堤にいた、青梅ナンバーの赤いスポーツカーのすぐ傍に落ちていました」
 彼女がはっ、と息を呑むのがわかった。

「夢愛さんが、駅前のロータリーで会っていた人ですよ」ぼくは尋ねた。「今朝あの人と会っていたのですか?」
「私は今日、ダイブ・フェスの飾り作りをやってたのよ。東の突堤なんかに行けるわけないじゃない」
「九時前後に夢愛さんを見た人はいません」
「それだけの時間で、この足で行って帰れると思う?」

 ぼくはこの時、彼女が嘘をついていることを確信した。負けず嫌いの夢愛さんは、自分から足のことを言い出すことはない。
「確かに陸路ならば、我々でも往復で一時間掛かってしまいます。おそらく、自転車にも乗れないし免許ももってないし運動神経も鈍い夢愛さんには無理でしょう」
「運動神経うんぬんは引っかかるけど」
「海側からですね」
「ごめん。私泳ぎが下手なの」

「ウインドサーフィンやボート、マリンジェットは湾内に乗り入れることはできない」ぼくは先ほど下ろした機材を取り上げた。「これを使ったのでしょう?」
 イルカの尾ひれのような形状の、両手で抱えるくらいの大きさのFRP製フィン。
「モノフィン。普通のフィンのように足に履くタイプではなくて、脹脛を固定するようなホルダーになっていますが、特注ですか?」
 夢愛さんは答えない。

 モノフィンはダイバーの足ひれのように両足それぞれに履くのではなく、両足をそろえた形で履けるよう一枚の大きなフィンに両足の固定具がついたものだ。
 両足が固定されることにより、バタフライのドルフィンキックのように体全体を使う泳法になるため、女子でも八百メートル九分台の記録が出ている(普通のフィンより速い)。

 東の突堤まで直線距離で三百メートル程度。
 FRPの特性である反動を生かせば、脹脛に留めるこのフィンでも充分な泳力を生むはずだ。足の悪い夢愛さんが一時間で突堤に行って帰れる唯一の方法だ。

「前に湾内で練習していたでしょう? あなたを見たツアーのお客さんが、人魚だって騒いでましたよ」
 夢愛さんは微笑した。
「マスクとシュノーケルも使ったのでしょう?」核心部分に触れなければならないため、ぼくは少し緊張した。「そして自殺に見せかけて彼を殺そうとした」
「なんで私がそんなことをするのよ!」
「駅では険悪な雰囲気でしたよね。想像ですが痴情のもつれかなにかですか」
「チジョー、ねえ。まあ、いいわ。でも車はロックされて、内側からガムテープで目張りがされていたのでしょ?」
「どうして、そのことを知っているのですか?」
「清水の爺ちゃんに聞いたのよ」

「確かに運転席側の目張りは完璧でした」ぼくはもーやんから聞いた密室の偽装トリックを話し始めた。「もし外部の人間が窓を割る必要があるとしたら、運転席側の窓は彼が倒れているので避けるでしょう。フロントガラスはいかにも手ごわそうです。心理的には助手席側の窓を破ろうと思うでしょうし、実際ぼくもそうしました」

「そう。あんたが窓を割ったの?」
「そこでもし、助手席側の窓の目張りが偽装だったとしたら。完全に機密な目張りでなくとも、窓を破ったときにテープが剥がれたのだ、と思わせることができるでしょう。
 彼に睡眠薬を入れた飲み物を飲ませて眠らせ、練炭をセットしたうえでその偽装工作をして助手席側の窓から外に出たのではないですか?」

「ひどい!」夢愛さんは手で顔を被った。「私がそんなことをする女だと思ってたの?」
「あの……」ぼくは言った。「コントに付き合う気分じゃないです。夢愛さん、ウソつくときに右眉が上がるの知ってました?」
「ウソ!」ぱっ、と顔を上げる。
「ウソです」
 ぼくの言葉に彼女はため息をついた。

「ずいぶん自信ありげに推理してくれたけど、正しいと思う?」
「当たらずとも遠からずでは?」
 ぼくは少し自信をなくして、そう言った。
「じっちゃんの名に賭けて?」
「ぼくのじっちゃん普通の公務員でしたので、名を賭けるほどのものではないです」
「では聞くけど、あなたの推理では窓側の目張りは偽装で気密性が弱いのよね。
 だとしたら死ぬまでに時間がかかるかもしれないわ。
 なぜ私は人目に立つあんな場所で計画を実行したの? 誘導できるのならもっと良い場所がほかにあるでしょう? 
 それに九時っていったらもう皆の目があるわ。そんなに目立つことはできないと思う」

 それにその推理の致命傷はね―― 彼女は続けた。
「練炭を準備したのが私だとしたら、どうやってそれを運んだの? それにガムテの指紋が不自然でしょう?」
 うっ、そう言えば、もーやんも言っていた。

 ガムテープに残った指紋を確認されれば、疑う余地なく偽装はばれる。手袋を履いた手でガムテを扱うのは難しいし、それはそれで痕跡が残る。
 第一被害者の指紋が自然な形で残っていなければおかしい。

「二十点」彼女は言った。「モノフィンを使ってあそこに行ったのは本当。そのとき、リストバンドが切れて落ちたのね」
「いったい何が起きたのですか? 彼は何者ですか?」
「それを明日確かめに行きましょう」

         4

 自転車のうしろに夢愛さんを乗せて、ぼくは市民病院への道を走っていた。ダイブ・フェスの本番は順調に盛り上がっているようだ。
 横座りにしている夢愛さんがぼくの腰に回している手がくすぐったい。甘い香りが漂ってくるのが気になる。
 ぼくは発情期なのかもしれない。なんだか、こんなこと全てがどうでもいいような気がしてきた。

「本当に私があの人を殺そうとしたと思った?」
 耳元でささやかれ、何やら妖しい気分になる。
「実は私が犯人なのよ」
 そのとき、わき腹に激痛が走った。夢愛さんが思いっきりつねったのだ。
「やめてください夢愛さん。危ない!」

 どうにか無事に市民病院に着いて受付で尋ねると、患者はすでにICUを出て一般病棟で検査を受けていると言う。
 検査後ならば面会も可能とのことだった。
 急性の一酸化炭素中毒がそんなに簡単に治るものか? ぼくは不思議な気がした。

 結局一時間ほど待って病室を訪れると、その人は点滴を付けてベッドに寝ていた。
 二床あるベッドの片方は空いており、ぼくらはそちらに腰かけた。
「元気そうね」
 夢愛さんは、皮肉そうにそう言った。

 無精ひげに思ったより血色の良い顔色の男性は、ぼくを見て口を開いた。
「彼氏かな?」
「紹介するわ。あなたを助けてくれた人。今うちの仕事を手伝ってくれているの」
 夢愛さんは、ぼくをそのように言った。
「そうか。こういう場合礼を言うべきなのか、それとも君のおかげで、死に損ねたと恨み言をいうべきなのか」
 なんと言ったらいいのか、ぼくも言葉に詰まる。

「本当に死ぬ気だったの?」
 患者は苦笑すると空いている手で煙草を取り出し、器用に火を付けた。おいおい、院内は禁煙だし、あなたは病人でしょう?
「君には私の気持ちはわからないだろうね」
「あの、お知り合いですか?」
 多少間抜けな気がするが、ぼくはふたりの会話に割って入った。
「永遠ちゃんの前の旦那さんの加納さんよ!」

 ぼくは少し驚いたが、なるほど永遠さんは面食いだと言っていたな、と目の前の男性を見ながら納得した。ぼくよりほんの少し男前だ。
「なぜ私宛に自殺予告メールなんか寄越したの?」
「知ってほしかったんだ。私がどんなに傷ついているか」
 そうか、夢愛さんは彼からメールを受けていたのだ。
「どうして永遠さんでなく、夢愛さんに?」
 ぼくが尋ねると、ふたりの間に気まずい空気が流れた。KYな質問だったのだろうか。

「裁判所から永遠ちゃんに接近禁止命令が出ているのよ」
 DV(ドメスティック・バイオレンス)か。
「ひどい誤解に基づいた命令だ」
永 遠さんの離婚にそんな事情があったなんて知らなかった。
「すごい回復力ね」

 加納氏が吐き出す煙を見ながら、夢愛さんが言う。
「睡眠薬を飲んで、練炭に火を入れるつもりだった。でも目張りをしたあと、火をつける前に倒れてしまったんだ」
 練炭は使われなかった。なるほど一酸化炭素中毒だったら、こんなに早く回復するはずはない。

「なぜかわからない。急に目の前が暗くなった」
「本当かしら?」
 ぼくは昨日の状況を思い返す。この人が本当に失神していたのは確かだ。
 なぜ急にそんなことになったのだろう? 脱水症状だろうか。
「体調が悪かったの?」
「体調も仕事も順調だよ。それが問題だというならね」

 加納氏は名の知れた陶芸家だという。芸術家という第一印象は間違っていなかったらしい。
「永遠ちゃんの気持ちは変わらない。もうこんな事は止めて!」
「もういちどチャンスが欲しい」
「前もそう言ったわ」
 加納氏は声を震わせる。
「私の死の決意をもっても、彼女の気持ちは翻らないかね?」
「やめて!」

「私の気持ちを遺書にしたためてワイパーに挟んでおいたのだが、誰か読んでくれたろうか?」
 ぼくは思い返してみたが、ワイパーにはそんなものはなかった。
「ぼくらが駆けつけたとき、そんなものはなかったですね。風で飛ばされたのではないですか」
 加納氏は鼻白んで、ふーっと煙を吐き出す。
「まあいいさ。私は何度でも繰り返す。私が死んで後悔しても遅いよ」

 ぼくは悟った。これは自分の命を盾に取った一種の脅迫だ。
 彼にはこのゲームで命を落としてもいい、ぐらいの覚悟はあるのかもしれない。あるいはヤケになって衝動的に死ぬこともありうる。
 だが、その本質はある種の甘えから出た示威行動なのだ。この人に必要なのは精神科の医者だと思った。

 夢愛さんの表情が苦しそうにゆがむ。
 そのとき、ぼくは助手席に落ちていた包装紙の意味がわかった。
「あの……」ちょっと、間抜けな気がしたが尋ねてみる。「その前にドライアイスを買いませんでしたか?」
 場違いな質問にきょとんとした加納氏は、
「ああ、そう言えば」と頷いた。「汗まみれの醜い死に様をさらしたくはなかったので、少しでも温度が下がればいいと思ってね」

 あれは自販機で購入したドライアイスの包装紙だったのだ。
 この人はやはり本気で自殺する気などなく、これは狂言に近い行為だったに違いない。

 なぜ火をつける前にこの人が昏倒したか、謎が解けた。
 急性二酸化炭素中毒の怖さは、あまり知られていない。
 二酸化炭素は一酸化炭素と違い大気中に普通に存在する気体であり、有毒であるとの認識が薄いからだ。舞台演出のスモークに利用されることからも身近な存在と言える。

 ドライアイスは二酸化炭素を加圧固化したものだ。従って溶けると二酸化炭素になる。
 これを水に入れると白い煙が出るが、これは二酸化炭素ではなく、水分が凝固したものであり吸入しても問題ない。

 二酸化炭素を過剰吸入したさいの中毒症状を、酸素欠乏と誤解している専門書さえあるが、あの小型のツーシーターの室内容積から概算して、数キロのドライアイスが急激に気化しただけで中毒による致死量になる可能性があった。

 一酸化炭素中毒と異なり、二酸化炭素中毒は意識障害の直後に酸素投与することで回復し、後遺症が残るリスクも低いことが特徴だ。
 たぶんこの人にしても、これは予定外の事態だったに違いない。
 そのときノックの音が聞こえ、加納氏は慌てて煙草の火を消した。その慌てぶりは苦笑ものだった。

 扉の外に目つきが鋭く、ガタイのいい二人の男の人が立っていた。
「お話中すいませんが、少し患者の方に伺いたいことがありまして」
 チョコレート色の手帳を示した。
「行きましょう」
 ぼくは夢愛さんの手をとって部屋を出た。

 病院の待合室で夢愛さんは放心しているように見えたが、ぼくが自販機から買ってきたコーラの缶を受け取ると、ありがとう、と言って重い口を開いた。
「私の足の障害、子どもの頃に永遠ちゃんと一緒に歩いていて交通事故にあったせいなの。永遠ちゃんは保護責任を感じているのよ。バカよ。そんなこと感じる必要なんてないのに。だから……」

 その思いがアンビバレンツな行動になって出てしまう。
 この世はぼくが思っているよりずっと複雑だ。夢愛さんは、永遠さんのことを嫌っていたわけじゃなかったのだ。

「あの人、暴力を振るうようには見えませんでしたね」
 おそらくわれわれの前で煙草を吸ってみせたように、虚勢が彼の本質なのだろうと思った。
「あの男は弱いのよ。普段は大人しくて、真面目なの。
 でも一旦仕事がうまくいかなくなると、酒に逃げるか暴力を振るうか。そのくせ心の支えが必要だって言うの。
 私はもう、永遠ちゃんには会わないで欲しいって言ったの。
 永遠ちゃんはあの人とやり直すために、何度も身をすり減らす思いをしてきて今やっと……」

「それで、昨日は?」
「朝あの人からメールが入っていたの。気がついたのが九時前。自殺するって書いてあったわ」
 夢愛さんは辛辣な口調で言った。
「本気なのかどうかもわからなかった。
 時々そんなことを言って同情を引こうとするのよ。あの男が死のうがどうしようが、と思ったんだけど、わざわざ永遠ちゃんのいる目と鼻の先でこれ見よがしな死に方をされたんじゃ、永遠ちゃんが傷つくわ」

「突堤まで行って、確認したんですね?」
「目立たないように裏手から突堤に上がると、ワイパーのところに挟んであったわ。遺書がね。
 永遠ちゃんがいかに自分を傷つけたか、自分勝手な理屈が書かれてたわ。 
 だから私はそれを抜き取って捨てたのよ。
 もしあの男が死んだら同情されるのはあの男で悪いのは永遠ちゃんになってしまう。死人に口なしってのは困ったものよ」

 夢愛さんは淡々とした感じで付け加えた。
 それにしてもわざわざワイパーに遺書を挟んでおくなんて。あざといと言うより、稚なさを感じてしまう。
「帰ってからすぐ事務所に電話したの」
事務所に連絡を入れたのは、夢愛さんだったのだ。

 口では辛辣なことを言っても、夢愛さんも心配していたのだ。
「ちがうわよ。あの男が死ぬのは一向構わないけど、こんな形で死なせるわけにはいかないの。
 もしここで死ねば嫌でも私たちの耳に入るし、記憶のなかで永遠に印象付けられてしまう。あの男にはそんな権利はないの。私たちをそんな風に苦しめる権利なんかね」
 おっかね~。ぼくは身震いした。

「でもまた同じことの繰り返しだわ。報らせないほうが良かったのかもしれない」
 疲れたように肩を落とした。
 それはだめだ。今度は夢愛さんが自責の念をしまい込んでしまう。
「大丈夫ですよ」ぼくは言った。「たぶんあの人の身辺は、これから忙しくなるでしょうから。こんな狂言をする暇はなくなると思います」

 夢愛さんは不思議そうにぼくを見た。
 ぼくはあの場面を思い返した。
 車の窓を割ってドアを開く。自分でもわからない。なぜあの時、あのような行為に出たのだろう?
 ひとつはカン。これは夢愛さんや永遠さんに害をなす存在だと、なんとなく思ったのだ。
 もうひとつは単純に、ウエストポーチの中に納まっていたまーちゃんからの頂き物をその時思い出したからだ。

 ぼくはそのハンカチ包みを注意深く取り出し、指紋がつかないよう注意してダッシュボードの中に放りこんだ。
「よろず屋さんをやっているのでしょう?」
 あの時まーちゃんに呼び止められたのは、告白かと思いきや仕事の依頼だった。
「ダイエット中で苛々していて……」
 キャンパスで声を掛けられた時、つい誘いに乗って買ってしまったのだという。その後あちこちの大学で同種の問題が表面化し、怖くなったのだ、と付け加えた。

「捨てるのもなんだか怖くて」
 白いハンカチにくるんだポリ袋を大切そうに取り出す。
だからといって、ぼくのような初対面に近い男にその処分を任せる、というのも、常識的にはどうかと思う。
 幸いぼくはいいひとだったから良かったものの、普通はまずいぞ。

 ぼくは彼女から処分を任された大麻の包みを、加納氏の車の中に遺棄したのだ。
 さっきの警察の人たちはおそらく、車からそれを見つけたに違いない。加納さんはしばらくの間、身に覚えのないことへの弁明に明け暮れるだろう。
「あんたにそう言われると、不思議とそんな気がしてきた」それから、奇跡のような言葉を付け足した。「あなたがいてくれて良かった」

 ぼくは少し慌てて言った。
「もうひとつ教えてください。何でモノフィンの練習なんかしてたんですか? まさかこの事態を予想していたわけじゃないでしょう?」
 夢愛さんは少し照れたように言った。
「東の突堤まで泳げたら、スキューバを教えてくれるんでしょう」
「モノフィンを使うのはフェアじゃないなあ」ぼくは言った。「でもまあ、明日から始めましょうか」
夏の終わりの日差しのなか、人魚姫はきれいな笑顔を見せた。        (了)

#私の作品紹介 #ミステリ #密室トリック #推理小説 #創作

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