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【ホラー小説】黒衣聖母の棺(9)

(同一テーマで、ミステリ仕立てにした小説を公開中です。「【密室殺人】黒衣の聖母」) 

(あらすじ)豊後の国が大友氏の領地だった時代、沖にある馬飼い島(魔界島)に、異国の難破船が漂着する。島に立ち寄っていた十兵衛は、血抜きされたような異様な乗組員の遺体を検分した。
 そのころ島の娘、いさなは自分だけが知っていた洞窟で、異人の男に出会い、その男が守っていた棺のなかに、黒衣の少女を見た。
 府内で宣教師に育てられ、受洗してジョアンという名を授かった久次郎は、浜長(はまおさ)のトヨに呼び出された。トヨは秘かに生き残りの異人を匿っていた。彼女は難病の孫を救うため、異人の信仰する異教にすがろうとし、久次郎に助力を求めた。
 トヨに呼び出されて、その屋敷に参じる久次郎と十兵衛は、扉に心張り棒を噛ましてあった蔵の中で、こときれているトヨを発見した。
 府内から破船の検分のため、代官田原宗悦らの一行が島に到着した。
 久次郎や十兵衛も駆り出され難破船に乗り込んだ結果、生き残りはいなかった。十兵衛は船内で、黒い聖母の異様な気配を感じ取った。
 代官田原宗悦は、抜け穴の存在を知っていた仙吉をトヨ殺しの下手人として牢に繋いだ。十兵衛はトヨの邪教の根を探るため、招福寺を訪ねて白蓮の弟である義圓に出会う。
 台風が迫るなか、白蓮は浜長の屋敷から黒衣聖母の棺を強奪し、島の山頂にある城跡に運んで調伏の儀式を始める。白蓮は逆に、聖母に取り憑いた魔物の餌食になる。聖水の力でなんとか魔物を退けた十兵衛と久次郎。
 翌朝、難破船の帆柱が折れるのを見張りが目撃する。十兵衛を入れた一行が難破船の検分を行い、帆柱に白蓮の遺骸が吊されているのを確認した。
 島人を扇動して浜長の屋敷に押しかけた義圓を、検分吏は武力で鎮圧する。
 いっぽう十兵衛は、さるふぃあが処方した薬は阿片であることを見抜き、いっとき快癒した茂作が急逝した理由を解き明かしてみせた。

(承前)
 尖った石は当たると皮膚を切り裂くのみでなく、骨が折れる。
 最初は遠慮がちだった村人の印地打ちは、やがて本気でなかの人間の殺傷を目的として投擲されるようになっていた。
 田原の手の者数名が、弓を引き絞りこれに応じた。今度は威嚇ではなかった。狭間から放たれた矢は、ひとりの村人の足を射貫いた。

 さらに何人かが矢を受けて倒れると、村人は一時引いたが、此度は逃げ帰ることはせず、再び押し寄せてきた。
「よくも、やりやがったな!」
 盾の代わりに分厚い杉の板を抱え、矢を受けながら進んできた。何人かが塀に取り付き、乗り越えようとする。

「控えよ。代官様に刃向かうか」
 守護代の威光も、頭に血が上り正気を失った村人には通じない。
 田原の近習たちは抜刀し、切妻門から走り出て村人に斬りかかった。村人もそれぞれが手にした得物で応戦する。
 気性の荒い漁師たちは、数を恃んでいることもあって一歩も引かなかった。

 遠巻きにした村人たちが、石を投げてこれを援護する。義圓は集団の背後から、鼓舞する声を高々と掛けた。
 斬り合い、もみ合いが膠着しかけたとき、馬出しから一頭の葦毛にまたがった侍が現れた。
 吏僚である宗悦の一族では比較的武勇に秀でた田原伊豆守が、旗指物を背に白鉢巻き、鎧直垂のいくさ装束で進み出た。

 もとは馬飼い島と謂われ、良馬の産地とされた魔界島だがふつうの馬高はせいぜい四尺。
 騎乗すると足が地に着くかという程度の大きさで、唐土ならば馬よりも駒と称されるような馬体である。敵を馬蹄に掛ける、などは到底できない相談だった。

 しかし、小柄な馬にはそれなりの使い方があった。
 伊豆は騎乗で進み出るや、七間柄の長弓を左手に持ち、右の馬側にとん、と突いた。馬の上から左手で固定された長弓は、馬上から騎射するより遙かに安定した弩弓となる。
 伊豆が箙から矢を取り出してつがえ、ほい、と声を掛けて馬体を蹴ると、馬は一歩、二歩と後退し、後退と供に強弓はきりきりと引き絞られた。

 しゃっ、というかけ声と供に射られた矢は、びょう、と風を切る音を立てて杉板の盾を射貫き、隠れていた村人の体を串刺しにした。
 矢を腹に受けてのたうち回る村人の周りで、悲鳴と怒号が入り交じった。「ひるむでない」
 義圓は、村人の陰に隠れながら叱咤した。

 第二射が飛来し、続いて櫓の上から援護の矢が飛んでくるにおよび、村人は総崩れとなった。
 田原宗悦は、甥である伊豆の武勇を大仰に褒め称えた。
「まっこと、武門の誉れじゃ」
 いや―― 
 伊豆は武事に疎い叔父と異なり、冷静に戦況を見ていた。
「遠巻きにしているのは、諦めておらぬ証拠。油断めさるな」

 奥の間では、怯えた顔の女たちをいさなが叱咤していた。
「我らも戦うのじゃ」
 ヒサノの周りに下女を付け、残りを率いて走り出す。崖に面した裏手から、黒煙が上がっているのが見えた。
「あ奴ら、板塀に火を点けおった」

 数人の村人が裏手に回り、板塀に火を放ったのだ。
 乾燥した藁束を積んで魚油を染み込ませて火を点けたとみえ、魚臭い悪臭と黒い煙が上がっている。
 折からの強風にあおられ、火は勢いを増す気配をみせた。
 いさなは下女たちに指示して、延焼を食い止めるため池から水を汲んで塀に掛け、生け垣の木を切り取らせる。

 塀際に屹立している老木の枝を払おうとしたとき、下女のひとりが止めた。
「トヨ様が丹精された欅の木にて、我らが触れることはなりませぬ」
 馬鹿者! いさなが怒声を発した。
「くたばった婆が大事にしておったものより、生きている者のことを考えよ」
 容赦なく木の枝を払わせた。

 いつの間にか雨が降り始めていた。
 いさなの声は、奥の間にいるヒサノまで届いた。
「くたばった婆か。威勢が良いの」
 侍女は、久しぶりに女将様が笑うのを聴いた。
「我らも守られてばかりというわけには参らぬな」
 仮に作らせた小さな位牌を、大事そうに懐に収めながらそう呟いた。

 しばらくすると今度は天候が味方に回り、雨が火勢を弱めた。いさなは火の始末を女たちに任せると、表門に回った。
「それ、押し込め」
 櫓に昇ると、戸板に乗って大将気取りの義圓が、塀際に押し寄せて意気揚々と命令している。伊豆の予想通り、村人は一端は退いたものの、数を増やして再び押し寄せてきていた。

 いさなは堆肥として溜めてあった糞尿を、ひしゃくでその頭上にまき散らした。
「何じゃこれは、臭いわ」
 ひるむ隙に、大声で呼ばわった。
「おまえらが探しておる異人は中にはおらぬ。逃げたのじゃ」
「うそじゃ」
 信じない義圓の鉢金の上に、いさなが撒いた糞尿が茶色の染みをつくった。

 二刻ほど経つと数で押される屋敷勢は、戦に長けた侍といえど劣勢に立たざるを得なくなった。

 いさなは男たちに混ざって奮戦した。
「勇ましいのう」落縁ですれ違った十兵衛が、いさなに告げた。「なにやら臭うぞ」
 いさなは、かっとなって言い返す。
「わぬしは、もののふであろうが。戦おうと思わぬのか。腰の物は飾りか」
「飾りじゃ。前にも言ったろうが」

 情けなさそうに抜刀すると、そこにあるはずの白銀の光に替わって竹光が現れた。
「荒事は苦手じゃで。それに宗右衛門屋敷にお味方する義理もないでの」
 奥の間に退散する十兵衛の後ろ姿に、いさなは呆れたように言い放った。「もう恃まぬ」

 最初は伊豆守の騎射に驚いて怯んだ村人たちも、二回目は容赦しなかった。
 村人は田原伊豆がふたたび騎馬で現れるや回りを囲み、印字打ちによって弓を構える猶予を与えなかった。
「卑怯であろうが。いくさの作法を心得ぬ外道どもが」
 伊豆は、命からがら退散するしかなかった。

 物陰から一部始終を見ていた十兵衛は、これが新しい時代のいくさだと思った。
 もののふ同士の戦いであれば、互いにどちらの力量が上であるかを示すための技比べ、力比べが主であり、勝った方がより大きな勢力を構える。しかし身分や立場が違うものとの戦いなれば、相手を殲滅するのが目的となる。「我らが一族が敗れたは、これがためじゃ。これからの時代は、この新しい作法を取り入れた者が勝つのであろうな」

 小半刻もするうち、屋敷側の劣勢はさらに明らかになっていた。
 ふつうなら雨風の中は飛ばない蝙蝠が、青黒い空を背景にばたばたと羽をならしている。
 宗右衛門屋敷から、難破した南蛮船が黒く小さく見える。風と波に揺れるたび、ぎい、ぎい、と気味の悪い音が伝わってきた。

 屋敷内では田原宗悦自身も額に印地による傷を受け、戦える近習はもはや数人を残すのみで、あとは戸板に乗せられた怪我人や女たちだった。
 やがて陽が西に傾いて紅く染まった空を背景に、屋敷を見下ろす丘の上に赤々と篝火が炊かれるのが見えた。
「夜討ちをかけるつもりか」

 遠目の効く十兵衛が言った。
「火矢を打ち込む気じゃ」
 藁束や焙烙などを準備しているのが、見て取れる。
 宗右衛門屋敷の塀は、版築の土塀を板で覆ったもので簡単には引火しないが、母屋に火が移ると手がつけられないだろう。

 久次郎は、奥の間でくるすを手に祈りを捧げていた。いさなは頬を擦りむき、着物も破れている。
 血や泥にまみれて、目ばかりぎらぎらさせている。
 中庭に張った急ごしらえの幔幕の中で、床几に掛けた田原宗悦が加平に尋ねる。
「異人の行方はわからぬか?」

「知れませぬ。我ら外に出ることもかなわねば、探すわけにも参らず」
「そうであったな」宗悦は諦めたように言う。「このような所で果てるとは思いもよらなんだわ」
 いくさで将が弱音を漏らすのは絶対にしてはいけないことだったが、文吏の宗悦はその点、正直だった。

 そのとき、屋敷うちがにわかに騒がしくなり、ヒサノを先頭に女たちが現れた。女たちは、手に手にしゃもじや柄杓を持ち、桶を叩いては音を発していた。
「危ないで引っ込んでおれ」
 宗悦の言葉を無視して門から外へ出た女たちは、篝火を背に火矢や焙烙を準備する村人たちに囃し立てた。

「これ、小平次がとこの寝小便たれが、一人前の顔をしていかにこの屋敷に火を射掛けよる?」
「村役のできの悪い小倅が、抱かせてけろっちゅうて泣きの涙を見せたを、忘れてか」
「挑発はやめぬか」
 慌てる宗悦を尻目に、女たちは鼓を掻き鳴らし、村人ひとりひとりを名指しに幼き頃からの恥ずかしい行状を暴露していった。

 その間にいさなは手の空いた手代を叱咤して土嚢を塀の裏側に積み、汲み置きの雨水を掛けて火攻めに備えた。
 名指しされてあしざまに罵られた村人たちは、却って悄然とした。
 女たちの声によってお互い幼き頃より知悉した仲であることに気づき、高ぶった気分から現実に引き戻されたのだ。

「異人をば葬らねば、この島の行く末はどうなる?」
 しきりに扇動する義圓に向かい、若衆のひとりが代表して言った。
「しかれど、火を放つことはならぬ」
 周りを囲む村人が、一様に頷いた。
「たとえ異人を捕らえるためとはいえ、これまで大恩ある浜長がお屋敷に火を放つような無調法があってはならぬで」

 皆の決意が固いのを見て取った義圓は目を剝き、つばを飛ばした。
「されば、いかにしてあの屋敷を攻略して異人をば召し捕るのじゃ?」
 村人が怯む気配を察した女たちは固く門を閉め、籠城の構えを示している。
「あれを使おう」
 年嵩の村人が会所を指さして言った。

「こうとなれば、籠城じゃ」
 宗悦が言った。
 田原伊豆は満身に傷を負っており、味方の後詰めがない籠城は愚策に過ぎぬ、と言いたかったがその気力も失せていた。

 ヒサノは屋敷の手代、女中を集めて言った。
「これまで、皆には迷惑ばかり掛けました。
 旦那様を喪い、ひとり息子まで亡くして悲嘆に暮れてのみおりましたが、この屋敷を攻める島の人たちをみて、目が覚めました。
 これは今まで浜長の指図が身勝手で、皆のことを考えなかったゆえでございましょう。
 皆もこの屋敷と運命を共にする必要はありませぬ。もし逃げたき者があらば、夜陰に乗じて屋敷を抜ければ、島人も追ったりはせぬでしょう。
 責めたりはいたしませぬ故、皆思うがままに振る舞って欲しいのじゃ」

 偉大な姑を憚ってばかりいたヒサノが、初めて開いた己が心中に、家人はみな震えた。
 加平が皆を代表するかのように声を上げた。
「逃げる者などおりませぬ。皆、この屋敷を守るため心を一にする所存なれば。なあ、皆の衆」
 集まっていた二十人ほどの家人が皆、頷いた。

 そのとき、台地を揺るがす震動とともに、どすんという音が響いてきた。「あ奴ら、”ドキ”を引いてきよったぞ」
 篝火の明かりの中で、島人がドキと呼ぶ弩弓が姿を現した。
 海賊掃討のために島に持ち込まれたもので、攻城用の弩弓としては小さなものだが、人の背丈ほどもある木の枠組みの中に仕込まれた弓部は、二,三人の力でもって輪胴を回すことによって蓄えられたしなりで、矢だけでなく大きな石を飛ばすこともできる。

 長く使われたことがなく、村の会所にしまわれていたのだが、それを引っ張り出してきたようだ。
 ぎりり、ぎりり。
 数人の手により、歯ぎしりのような音を立てて回された輪胴の力が伝達され、木枠のなかの大きな弓が引き絞られる。
 後部に取り付けられた籠に一貫もある石を入れると、弓を固定していた懸刀が外され、風を切る音がして石が射出された。

 石は塀の手前で失速して、転がりながらぶつかった。それでも、塀を揺らすほどの大きな衝撃が加わった。
「塀まで届きもせぬわい」
 嘲笑う屋敷方を尻目に、村人たちはドキの角度を修正した。
 次の石は、先ほどよりも塀に近いところまで飛来した。

「それ、打てや!」
 義圓が嬌声を上げる。
 何度かの調整のあと、ドキが投ずる石弾は正確に宗右衛門屋敷の守りの要である外塀を捕らえるようになった。
 屋敷方が沈黙するなか、ついに切妻門の右側が内側に傾ぎ、攻める村人から歓声が上がる。十数回の着弾に耐えた土塀もさすがに持ちこたえられず、ばりばりという音とともに一カ所が破壊された。

「それ、次は母屋におみまいしてやれ。異人をば、いぶし出すのじゃ」
 煽る義圓らの背後から、突然黒い煙のようなものが舞い上がる。
「何じゃ、これは?」
 撒かれたのは、目に沁みる辛子粉の混ざった灰だった。
 不意をくらって慌てふためく村人の背後から、仙吉が現れた。
「大女将様が守ってこられた宗右衛門屋敷じゃ。ぬしらにくれてやるわけにはいかぬわ」

 革袋から液体をドキに注ぐや、手にした火種を放つ。
 質の悪い魚油に特有の黒々とした煙と魚臭いにおいが立ち上り、弩弓の枠材が炎上した。
「何をする」
 一瞬ひるんでいた村人も、相手がひとりと気づくや反撃に出た。

 数人で仙吉を囲む一方、他の者は火を消そうと砂をかけるが、いくら扇いでも長年会所で眠って水分の抜けた枠材は、一度火が付くと消し止めることはできなかった。
 仙吉は羽交い締めにされ、砂の上に転がされて数人がかりで蹴られた。
「もはや、使えぬ」
 
 黒い煙を吐きながら炎上するドキを見て、村人は嘆息した。失望は怒りに代わり、怒りの矛先は仙吉に向かった。
 倒れ伏している仙吉を無理矢理立たせると、数人がかりでなますに切り刻んだ。
 眼前で繰り広げられる残酷な光景に、屋敷方は声もなかった。
「ドキは役目を充分に果たした。屋敷に討ち入り、匿っておる異人を連れ出すのじゃ」
 頭に被った鉢金の上にさらに鉢巻きを締めた義圓が、四人の若衆に担がせた戸板の上に立って煽った。

 村人たちは、外塀の破壊された箇所めがけて押し寄せてきた。
「もはや、これまでか」
 宗悦は言った。
 手代や女たちを裏手につないだ舟で逃がす手配をし、配下の者たちとともに留まって最後まで防戦するかまえを示したのは、吏僚とはいえ武士の名に恥じぬ覚悟であった。

 そのとき――
 耳をつんざく轟音が、風雨の音を破って鳴り響き、後方にいた義圓の鉢金を吹き飛ばした。
 義圓は反動で戸板から転げ落ち、気を失った。
 屋敷の屋根から、ひょっこりと十兵衛が顔を出した。その手には白い煙を上げるくろがねの筒を抱えている。
 筒の長さは三尺から四尺もあり、風に流れる煙は独特の刺激臭がした。

「この種子島筒の威力を見たくば、さらに押し寄せるが良い」
 初めて見る南蛮の火器の威力に村人たちは驚愕した。
「それ、今じゃ」
 機を捕らえた信濃が、最後の力を振り絞り、動ける者を数名従えて打って出た。白刃をきらめかせた数人の侍の前に、数十人に膨れあがっていた村衆は総崩れになった。

 狂信的な信念で村人を扇動していた義圓が、呆気なく真っ先に気絶したことがなによりも大きかった。
「銃身が熱くなるによって、連射は難しいの」十兵衛がぶつぶつと呟いた。「胴薬が湿りを帯びて使い物にならぬ。もし、奴らが本当に押し寄せてきたら危なかったわ」
 焼けた銃身に雨が落ち、じゅっと煙が上がった。
「この一丁の種子島筒を手に入れるために、家財だけでなく大小まで散じたが、その価値はあったようじゃな」

「仙吉!」
 加平が、無残な姿のまま転がされている仙吉に駆け寄った。
「仙吉」
 変わり果てたかつての怜悧な手代の姿に、加平は声を詰まらせた。
 最後に怜悧とは無縁の行動を起こした若者は土と血で汚れ、顔は無精髭で煤けていた。
 しかしその顔には、生きていた頃にはついぞ目にしたことがない、満足の笑みが浮かんでいた。

 村人たちが逃げ散ったあとには、ほかに二人の遺体が放置されていた。ヒサノは家人を指揮して仙吉の遺体とともに、丁重に屋敷内に収容した。
「ヒサノ様。こちらの手当はいかがいたしましょう?」
 指示を仰ぐ手代に指図するヒサノの姿はトヨを彷彿とさせ、自然と備わる威が身についていた。

 

 いさなは、炊き出しの麦飯を皆の居る大広間に運んだ。
 久次郎は、虚脱したように座り込んでいたが、十兵衛は飄々とした顔でいさなが作った握り飯にに手を伸ばした。
「わぬしがために作ったのではないぞ」
「うまい」頓着せずに口へと運ぶ。ふと、糞尿を相手にまき散らして奮戦していたいさなの姿が脳裏に浮かんだ。
「手は洗ったろうな?」

 いさなは答えず、ふふんと鼻で笑った。勝手に向かういさなは、手水場を見てふと思った。
 やはり手を洗っておくか。
 火攻めに備えた土嚢づくりのため、すべての汲み置き水を使い果たしており、手水鉢も空になっていた。

 浜の方へ面した勝手口を開けると、海に降りる石段がある。波が高くてしぶきが打ち付けてすべるうえ、月が隠れているためいさなは注意深く足を運んだ。
 夜目にきらきらと、夜光虫が揺れている。
 岩場の間で跳ねる海水に手をひたして洗っていると、波以外の音が混じっているのに気づいた。
 村人は皆退散したかと思ったが、まだ狼藉を働こうとしている者が海側から近づいているのかもしれない。

 いさなは慎重に身構えると、闇の中に目を凝らした。女たちの退散用に準備していた小舟にたれかが乗ろうとしている。
「何をしておる?」
 思わず声を上げていた。
【ホラー小説】黒衣聖母の棺(10)に続く)

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