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じゃっくのJAZZ《ラッシュライフ》

もうあのサウンドは聞けないんだ。そう思うと…。
われわれは一時期、よく笑い、怒り、不思議と気が合った。一緒にプロジェクトをしたり、ライブツアーのロードや、雑誌に新譜紹介の記事を書いた。夜中、仕事帰りに六甲山のドライブや、ライブハウスをのぞいたりもした。丹波牛を食べるオフィスの合同ツアーや、春先には鯛を食べにクリエーター仲間のふるさと、淡路島にみんなで行ったこともある。そこにも馴染みのライブハウスがあった。わたしたちのまわりにはいつもジャズがあった。きーやん、彼はそう呼ばれていた。そして、彼はじゃっくになった。

大音量のクラプトンが僕らのファーストコンタクト


深夜のオフィスに、大音量でエリック・クラプトンの《Layla》がフロアいっぱいに叫んでいた。朝までに提案書を仕上げないといけない。だんだん白んでいく空が残り時間を告げていた。朝までのデッドラインを目指して集中していたが、大好きな曲が大音量でかかると、思考とは違う脳の異なるパーツにダイレクトに響く。これでは集中できない。どんどんどん。ドアを叩き、どかどかと部屋に入った。「いくら深夜でも、こっちは仕事中なんだよっ」と怒鳴った。「すんましぇ~ん。こっちも仕事ですねん。朝までに資料仕上げなあかんので、つい、眠気覚ましにクラプトンかけてしもうて」と、これが僕ときーやんのはじめての会話だった。僕は駆け出しのプランナー。売れっ子というものには程遠い。だまってコツコツ、どんなに厳しい内容や締め切りも守っている間は仕事が来る。明朝に提出する提案書作成のラストスパートだった。その事務所に一歩足を入れると、音楽事務所らしく、楽器や譜面がところせましと散乱していた。きーやんはそれまで手にしていたギターを傍らに置き、「失礼しました。すぐボリューム下げます」とボリュームダウンした。僕は怒鳴り込んだものの、お互い深夜族同士、仲良くするほうがいい。「そうか。こんな時間までいるんだから、そうやねー。がんばってやー」僕はドアを閉めて仕事に戻った。しばらくすると、コンコンとドアをノックする音がする。「こんばんはー」上司らしい女性がおにぎりの夜食を持ってやってきた。「わたしは隣の事務所のもんで、前田といいます。うちのもんがえらい、失礼しました。朝9時に提出するプレゼン資料を作ってるところで、眠気覚ましに大音量で気合入れてたらしいですわ」と言いながら、しばらく話し込んで帰っていった。そんなことで顔見知りになって以来、時間があえば夜食や喫茶に行ったりする関係になった。所属のミュージシャンのライブがあると招待してくれたりと、ご近所づきあいが頻繁になった。

ジャズをベースに、いい仕事ができるようになった

もともとジャズが好きで、朝から晩までコルトレーンを聞きながら仕事をすることもあった。きーやんと女性上司の前田さんとも親しくなり、ライブや打ち上げにも誘われた。ジャズの世界と接点をもてるようになり、互いの利点を生かして多様な仕事をするようになった。音楽業界との関係を知ってか、新聞のコラムを担当する仕事が舞い込んだ。専門外のライターや舞踊家などが音楽評論をする企画である。この時も音楽情報通のきーやんが誰よりも早く、来日アーティストの情報や、話題の音楽ライブなどの情報を教えてくれたおかげで好評だった。僕は評論、きーやんはコーディネーターとして、学芸部の担当者が変わるまで長く続いた。そのおかげで名前が売れて、音楽を介する広告やイベント企画などを担当するようになり、きーやんもコーディネイターを引き受けてくれた。その流れでだんだん東京の仕事が増え、行ったり来たりするようになり、やがてクライアントが東京にオフィスを用意してくれたので、ますます東京のウエイトが高くなった。

じゃっくトリオのラッシュライフ・ライブ

じゃっくのライブは間違いなくマスターピースだった


僕はあるまとまった仕事を受けて、数か月、関西に戻れなかった。戻った時にはきーやんは会社を辞めて、ギターリストとして《じゃっく》というステージ名で活動していた。それも全国で一世風靡したピアニストとパワフルなドラミングが大人気のドラムスとのトリオ《じゃっくトリオ》で注目され、ライブの様子は音楽雑誌に大きく取り上げられていた。数週間後、ライブの案内が前田さんから届き、僕は都合をつけて関西に戻った。演奏は圧巻だった。その曲は間違いなくマスターピースだった。きーやんはライブの録音テープ「じゃっくトリオのラッシュライフ」を僕の手に握らせた。その頃、きーやんは事務所を出て独立したばかりだった。アレンジや録音のコーディネーターとして世界的に知られたピアニストのCD制作を担当して、それなりの評価を得ていた。しかし、やりたいことは演奏活動だった。僕は何としても手伝いたいと思ったが、その時は大規模な仕事の真っ最中で、身動きできなかった。僕がやっていくきっかけは、まぎれもなくきーやんと前田さんのおかげだったのに、いざという時に役に立てないことが情けなかった。ひとまず、現在着手してる仕事を早々に仕上げて戻ってくる。そして、それからのことを相談しようということになった。

ある日、前田さんから連絡があった。きーやんが亡くなったという。できるだけ早く仕事のめどをつけて、関西に戻るといいながら、あれからあっという間に半年がたっていた。訃報を聞いて、数年まえのことを思い出した。打ち上げで周りが盛り上がっている最中に、きーやんは父親のことを話してくれた。ある寒い冬の朝、父親はパジャマのまま新聞を取りに門まで行き、心筋梗塞であっという間に亡くなったと、照れくさそうにふふっと薄笑いしながら話した時のことを思い出した。
56歳だった。ストレスのせいか、酒量が増えていたらしい。前田さんも生活習慣を変えるように何度も言ったが、聞き入れることはなかった。優秀な反面、生活的にはだらしないところがあると周りから聞いたが、僕にはそんなところは一切見せず、いつも優れた才能があり、誠実だった。葬儀のあと僕は東京に居を移した。前田さんは相変わらず、音楽事務所の主要メンバーとして活動していた。年に数回、関西に行く機会があったが、前田さんと僕はお互いにきーやんの話題になることがわかっていた。関西にもどると、あの事務所でクラプトンを大音量でかけていた彼の面影が映像のように僕のまえを通り過ぎる。そのバックグランドにはきーやんから手渡されたあのライブの録音テープ《ラッシュライフ》が流れていた。



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