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60年前、新潟地震の復興支援はあのデューク・エリントンからはじまった。

日本も世界も年中災害のニュースが報道されている。そこには人の営みがあり、代々住んできた人たちの暮らしに根差した伝統文化が土中の植物のように根を張り、生活基盤となっていた。そういうものを瞬時に奪う。それが災害だ。近頃では詳細な情報が報道され、まるでその地にいるように共感できる。今も生々しく映像が脳裏に残る、911の現場や311の惨状…。しかし、そんな情報がなくても、災害の実態を感じ、復興支援に尽力した人物がいた。歴史に残るレジェンド、ジャズの歴史を刻んだデューク・エリントン、その人である。

わたしはデューク・エリントンの大ファンだが、この記事を読んでますますデュークが好きになった。そういうことで、この話は60年前のエピソードだけど、能登地震をはじめ、四六時中災害のあるわが国を思うと、それほど昔に新潟と縁もゆかりもなかったデュークが、相談を受けて瞬時に支援を即断。予定していたハワイ公演をキャンセルし、すぐに資金集めのチャリティコンサートを実行したことは災害史に残したい美談である。しかも、今後も発生するだろう災害に備える意味でも、このすばらしい伝説を多くの皆様と共有させていただきたいと考えた次第である。


新潟地震復興60年コンサートに向けて ~60年前の新潟地震からの復興と新潟県民会館~

今から60年前の昭和39年6月16日13時1分、マグニチュード7強の地震が新潟を襲いました。道路に地割れが走り、昭和大橋が崩落、石油タンクが炎上、信濃川に津波が押し寄せ、新潟の町は一瞬にして無残な姿に変貌したのです。当時の被害総額は、2,500億円に及んだそうです。       (2024年4月5日 新潟県民開会館)

※当時は気象庁による地震の観測が行われたのは気象官署のみである。震源付近の地域では震度6(現在の震度6弱〜6強)相当と推定される。新潟放送社史「新潟放送四十年のあゆみ」にも「新潟市で震度6」の記述がある。(新潟地震-Wikipediaより)


当時新潟アメリカ文化センターのアシュフォード館長と、秘書、そしてジャズ・シンガーの星とよ子さんは…

『6月16日の地震の後、館長と被災状況を見て回り、何かできることはないかと考えていたときに、「デューク・エリントンが東京に来ているよね」という話が出て、数日後、エリントンさんが滞在しているホテルに電話をかけたのです。するとご本人が電話に出られて、館長が「手を貸していただけないか」と申しましたら、その場でチャリティーコンサートを開くことを決めてくださいました』

D・エリントンの寄付の影響で、その後、寄付総額は20憶円に

D・エリントンは、日本での公演後、予定されていたホノルル公演を急遽キャンセルして、7月8日、新宿でチャリティー・コンサートを開催。「もし客が入らなければ、自分がお金をだしてでも力になる。」とデュークは語っていたと聞く。急なコンサートにもかかわらず、約2,000人を集める大盛況で、その収益金が全て新潟に寄付された。※収益金は96万円(消費者物価は現在の4分の1程度だったので、現在の金額にすると400万円程度と推測される)。デュークはその全額を新潟に寄付した。この寄付のニュースが広がり、全国から次々と見舞金や救援物資が送られてきた。その総額は20億円に上った。さらに、その後の県民ひとりひとりの努力と協力によって、新潟は目覚ましい復興を果たした。

新潟市からD・エリントンに贈られた「国際親善名誉市民」の称号

2年後に再来日したD・エリントンに、新潟市は「国際親善名誉市民」の称号を贈った。「これまでミュージシャンとしていろいろな賞をいただいたが、名誉市民というのは初めて」と、D・エリントンは喜んだ。新潟での公演を約束し、1970年に3回目の来日に果たし、復興した新潟でコンサートを開催している。この時のエリントンは復興した新潟を見て、心から祝福したに違いない。


D・エリントンの心を現わす、地震からの復興のシンボル「不死鳥・フェニックス」

県民会館には、意志をあらわす不死鳥・フェニックス

集まった見舞金のうちの3億円とその後の県の予算の5億円を合わせて、新潟県民の将来への発展に向う心のよりどころとして、文化を始めとする様々な活動の拠点としての新潟県民会館を作ろうという計画が持ち上がります。

地震から3年後、市民の念願が叶い、1967年11月21日に、大小のホール、ギャラリー、会議室等を備えた県民会館が落成した。

県民会館の正面玄関になる北口から入場する前に、建物の上を見上げてみてください。「不死鳥・フェニックス」が金色に輝いています。60年前の地震からの復興を記念する建物であることを象徴しているのです。

北口には、生徒を避難させる先生の情景を描いた彫刻ー「みちびきの像」

北口前では「みちびきの像」と呼ばれる、セメント彫刻像が見られます。震災時に子どもたちをかばいながら避難する小学校教師を表現したもので、新潟市の画家、金井二郎が描いた絵を基に、彫刻家の早川亜美によって製作されたものです。

D・エリントンが支えたジャズによる復興支援。今後は新潟がジャズで地震の被害に苦しむ能登を支援。


24年の元旦を襲った能登半島地震。県内でも多くの被害が報道された。60年前、新潟地震から不死鳥のように蘇ったように、今回の地震からの一日も早い復興を祈りつつ、ジャズ・ビッグバンドのコンサートをお届けします。

**********************************新潟地震から60年がたった6月16日。新潟市の県民会館で、ジャズのコンサートが開かれた。新潟市はとかくジャズが盛んな地域だと言われる。デューク・エリントンの美談は受け継がれ、新潟はジャズの聖地になった。今日も新潟のどこかでジャズの演奏がおこなわれているに違いない。






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