見出し画像

コロナ感染1日目:なってしまったら

ちなみに僕には縁のないことだと思っていた。

ここ3年近く飲みにも行ったことはなかったし、
マスクは家の中でもしていたし、
何なら職場での手洗いも2時間に1回は行っていて、
自分に関してはコロナ感染は万全だと思っていた。

ところが、花粉症の季節、鼻の奥に何とも言えない異変を感じた。
時勢もあって営業に行きがてら耳鼻科に行ってみたのだが、熱があると言われ、部屋を変えさせられてPCR検査をすることになった。
「あ、すぐ結果出るから」と言われ、長い綿棒を鼻から入れて奥をつついて粘膜をこそげ採る。別室に持ち帰ってしばらくすると先生が助手と出てくる。

すると、陽性。

ショックのあまり、しばらく僕は動けずにいた。
ここ数年は派手な外出も旅行も控えていたし、子どもにもずっと嫌な思いをさせてしまっていただろうと思った。これではそういった今までやってきた甲斐というものがなくなってしまったではないか。

僕にはまったく身に覚えがなかった。

遊びに行った覚えもないし、居酒屋にも行った覚えはなかった。ましてやマスクを外した人と話をしたことすらなかった。どこでどんな接触をしたというのか。

それより何より、家族になんと詫びたらよいのか。愛妻と愛息にパパはコロナになっちゃったんだー!では済まない。家族の健康を担保にしたリスクの高い賭けではないか。まず第一に連絡すると妻は電話口で驚きのあまり固まっていたようだが「わかった…」とだけ言って電話を切った。

感染発覚のち医者⇒保健所⇒それからそれから

耳鼻科の先生は「最初から初見じゃなくて発熱外来で来てほしかったけど」と釘を差しながら、これからの対応について話をしてくれた。
保健所からの連絡や治療薬の手配、希望があればホテル療養の手配、薬剤師からの確認の連絡があるなど一通り説明が為された。なかなかハイカロリーな内容だったが、呆然とした頭にストンと落ちた説明だった。

ホテル療養についての案内 医者に言わないともらえないかも?

ゴムの手袋を嵌めさせられて家に着くまで取ってはいけないと言われた。狭い我が家に感染者の僕が鎮座するわけにはいかない!と思った僕は、医院を出るとホテル療養の手配をして、勤務先の上司に連絡を入れた。

午前中から昼まで会社に行ってしまった事実は覆しようがない。

ここからは会社として対応してもらうしかない。しかも社で勤務中に発症した例の第一号になってしまったのである。強制的に10日間の有休措置が為された。治ってからも会社にも行きづらい。。。周囲も濃厚接触者判定になるのは必定だ。これはあまりのペナルティである。

そこから午後のアポイントをすべて反故にして家に帰るのだが、それまでに保健所や治療薬に関する薬剤師からの確認、ホテル療養担当からの再度確認など帰るまでに電話が10本程度来て、一駅着くごとに降りて電話に出ていたので、帰るのに2時間近くかかってしまった。

だが、だんだんと熱が上がってきている頭で考えたことではあるが、一人の感染者にこれだけ手厚い電話が掛けられていることに驚く。

日本ならではの国民皆保険制度のありがたみ

日本の保険制度というのか行政の手厚さは他の国では見られないことだと思う。アメリカでは皆保険制度がなくなり、営利目的で民営化されてしまったからあれだけの人数が亡くなってしまったのではないかと思う。
探せば救済制度もあるのかもしれないが、それを公にしていないために本来なら受けられる行政サービスを受けられなかったということもあるのかもしれない。

今先ほど「行政サービス」と書いた。

パソナの竹中平蔵氏が訊いたら、「行政にサービスさせるとは何事か!」とお叱りを受けそうだが(笑)、サービスと書いて何が悪いだろうか。

サービスという言葉悪いのならそれに代わる代用語を探せばいいだけのことだ。

本来であれば納税を義務を果たしている「国民」に対して住みやすい環境を整えることこそが国(行政)の第一義であると思われる。医療を含め、インフラを営利目的に民営化するなど愚の骨頂だと思うが、自民を含め影の総理と言われる安倍晋三たちは民営化にこぞって血道をあげている次第。

これこそ由々しき事態だと思う。

先ほどの「サービス」という言葉の根拠は「公僕」という言葉にある。一時田中康夫ことヤッシーが言い放って話題になった“public servant”である。公的な召使、とでも訳すのか。残念ながらこれは精神の発露でしかない。国家公務員法で「公僕」という言葉が使われているわけではないからだ。だから根拠としては薄いものだ。

しかし、自主的に国をよくしていこうという精神がなければ、、、それは「奉仕(サービス)」でもあってもしかるべきだ、と思うがどうであろうか? 日本語英語ではサービスというものは表面的なものだ。値引きがイメージされるだろうが、ほんらいの「サービス(=奉仕)」という言葉における意味するものは、奉仕する主体の高い精神性が体現される行為だと思う。

異常なる明日への跳躍

家に帰ると僕は玄関先をくまなく除菌してそこに座った。1LDKの些末なマンションであるが、妻や子供には自分の周囲には絶対に近寄らないように言った。その間も保健所や会社の上司、ホテル療養の担当者、薬局の薬剤師から電話が掛かってくる。まだ、4ケタの感染者が毎日出ているのに一人にこれだけ手厚くできる東京都の対策と日本人の縦割りの機能性を感じた。

玄関に居座りながら寒気が増してくる。

咳も酷くなり、気管支が痙攣しているような感覚さえ覚える。これで僕の人生は後半なのだなと思った。多少、血圧と血糖値が高いくらいだったがこのあたりがコロナウィルスには悪影響を及ぼすのだそうだ。もうすこしきちんと向き合うべきだったか。

薬局からバイク便で薬が届けられた。ドアから出て受け取ろうとすると薬の入った箱を放り投げられた。いまだにそういう扱いなのだ。ドア前に置きます、でいいじゃないか。ここはやはり日本人の日本人たる所以なのだ。

僕のこれからは、ホテル療養になるはず。僕なりの立脚点に立ちながらこの病と向かい合わなくてはならない。病と向き合うなどそれほど簡単なことではないが、ここから始まるボクのコロナ日記なんである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?