【覚書】インディーズ合唱の構想

はじめに

あらかじめ断っておくと、世の中は想像より広いし、私の交友関係は狭いので、これから書くことは誰かがやっているかもしれないし、自分が新しいと言いたい訳ではなく、ただつらつらと自分がやってみたいことを書いてみるだけである。誰かがやってたとしても問題ではないし、もしそうなら混ぜてください。よし、保険は張ったぞ。好きに書いてやる。

何を書きたいかというと、最近なんとなく妄想していることである。今の所本気で実行しようと動いてる訳ではなく、単なる妄想に終わってることではあるのだけど、やれたら面白いだろうなと個人的に思っていることだし、脳内にとどめていくより人々の目に触れることに書いてあるだけで何かの化学反応がありうるかもしれないので、ちょっとnoteに書いてみようと思った。そもそもnote放置しがちだったしね。

やりたいこと: 「インディーズ合唱」

さて、やってみたいこととは何かというと、「インディーズ合唱」である。これだけだとなんのこっちゃである。まあ説明したところでなんのこっちゃかもしれないけど。簡単にいうと、合唱でも演劇やバンド音楽や映画のような「インディーズ」や「アングラ」っぽいものをやりたいのである(ただ自分自身それらの「インディーズ」や「アングラ」に首を突っ込んでるわけじゃないのであくまでイメージだから「っぽい」なのだけど)。つまり、非主流でアヴァンギャルドで実験室的な合唱をする場を作りたいのである。

そう思うきっかけがある。ここ最近合唱より演劇を観る機会の方が多くあった。コロナ禍にあって、合唱より演劇の方が活動再開が早かったこともあるかもしれない。父親も演劇をやっているし、昔から演劇を観る機会はそこそこあったのもあったからかもしれない。ともかくも幾つか演劇を観ていて、その中で知り合いがいる1999会(https://1999kai-official.studio.site/)という1999年生まれの人々が演者やスタッフを担う劇団の『交差する眼差し 蓄積する時間』という作品を観たのが直接的なきっかけである。

その公演は、都内の小さな劇場に入場するところから作品が始まっていた。入り口が普通の入り口ではなく舞台の裏動線で、入場した瞬間から自分が舞台上にいるという奇妙の体験から始まる。しかも、その舞台上や客席には演者が綴った詩や写真の数々が展示されており、それらを間近で眺めることができる。演者の朗読も場内に流れており、演者の部屋が客席の一部に設けられており(!)、演者の生活の様を垣間見ることもできた。数十分その展示の場を眺めた後、演者が登場し、演劇が始まる。演劇の内容も、展示にあった詩やその断片を口々に発しながら身体を思い思いに使い、演じている。ストーリーはほとんどなく、しかしZ世代と呼ばれる彼らの生き様や考えがまざまざと表出されていた。わざわざそれらしい名前をつけるなら「前衛芸術」と呼ばれるものなのかもしれない。私にとっては、濃密で刺激的な1時間だった。

この公演を観て、はたと思った。合唱でも同じような創作ができないだろうか?この時観たものは合唱とは程遠いかもしれない。そもそも小劇場のようなハコで合唱をすることはおそらくほとんど無いし、音楽の有無であるとかどの程度個が立つかであるとか、演劇と合唱とは要素が違いすぎる。共通点があるとしたら、言葉を扱うことと舞台の上で行うことくらいかもしれない。でも、ああいった場を合唱を通して作り出すことはできないだろうか?

そこで思った。まず、ああいった小劇場のようなハコで合唱を行うことはできないだろうか?合唱はしばしばホールで行うので(もちろんそうではないことも多い)、客席と舞台には隔絶がある。しかし、1999会でのそれはいい意味で客席と舞台の境界は曖昧であった。自分がさっきまで展示作品を観ていた場に演者がいて演じていたり、物理的な段差が少なく一続きになっていたり。そういった、観客と演者が場を共有しているという発想は、今まで自分がしてきた合唱には希薄だったのではないか?

そこから発想は色々に飛び火していった。合唱とああいった演劇の違いは何か?それは合唱には適用不可能なことだろうか?例えば、日本語の合唱はすでにある詩に作曲をすることが多い。日本語でなくとも、聖書の一節などに曲を付すことが多い。そうでなければ、すでにある曲を編曲することも多い。それに対して、今回観た演劇は脚本は劇団で拵えていた。今までみた演劇でも、オリジナルの脚本は多くあった。そういえばバンド音楽のシーンでもオリジナル曲で活動をするバンドも多くある。合唱でもそういったことがあっても良いのではないか?(もちろん無いわけではなく、手前味噌だが自分の所属する合唱団でもそういう試みはしたことがある) 合唱ではそういった既に設えられている作品に合唱的味付けをすることが多いが、合唱団に所属する自分たちを合唱を通してもっと具体的に表現することができるのではないか?あるいは例えば、演劇ではアドリブ的な要素が往々にしてある。楽譜よりも戯曲の方が演者に委ねられている余白部分が多くあるように思う。楽譜はある音の周波数やタイミングまでかなりの精度で決められている。合唱ももっと演者に委ねる形で表出できないだろうか?などなど。

そういったことに思いを馳せているうち、合唱にももっとアバンギャルドな表現をしていく場があっても良いのではないか?という考えになってきた。小さな劇場で前衛的な演劇をするように、小さなハコで前衛的な合唱をやる場があっても良いように思う(自分の中では下北沢のイメージだけど、下北沢が果たしてそういう地域なのか分からないので特に表には出さない)。

それはどういう場なのか?まずはひたすらに非主流な場であるように思う。高名な指揮者や作曲者、合唱団、イベンターが引っ張る主流な合唱の場ではおそらくない。みんなが参加する有名なコンクールとも縁遠い。表現手法としては「合唱」という手段の境界線上を攻めていきたい。アドリブ性を多分に許したり、パートではなく個人の役として音を分けたり、会場の使い方であったり、そもそも複数人である必要はあるのかを疑い、一人の人が音をループさせる機器で目の前で音を重ねてみたり。そしてそれらの作品を作曲者が作るのを待つのではなく、合唱団自らが創造していったり。そういった活動は、おそらくは「非主流」である。日本の合唱シーンを引っ張る人々や、地域のサークル的な活動とも違うと思う(私の中では後者の延長線上ではあるのだけれど)。

そういった活動は、合唱を行う全員ができる訳ではないと思う。作曲をしたり作詩をしたり、劇のように演じたりする伎倆が必要になるかもしれない。アドリブをするには音楽的な知識や技術も必要になるだろう。行える人は限られるかもしれない。でもそれでも良いと思っている。そもそも「非主流」的なことを求めているので、誰でもできる必要はないと思うし、一部の人だけで良いと思う。海外の主流な活動と違うかもしれず、ガラパゴス的な活動になるかもしれない。だけど、今までの合唱のシーンに無かった活動をすることには意味があると思うし、そういった多様な活動や実験の成果が、回り回って合唱や合唱作品に何らかの栄養となるのではないかと思っている。合唱の歌い手として、私達は歴史を眺めるだけではなく、間違いなく合唱の現在や未来を作り続けているのだから。

まとまらなくなってきた。さっきお酒も飲んだし、頭はクリアじゃない。そもそもアイディア自体もクリアじゃない。要は、合唱を主軸としたアヴァンギャルドな舞台芸術を自分たちで作り出す場があったら楽しいだろうな、と思っている。それはおそらくちょっとアングラで、スモーキーで、非主流な場だと思うし、ビルの地下の小さな小劇場的なハコで行うのが似合うような合唱なんじゃないかと思っている。そこで行われる合唱は、合唱に今まで暗黙にあった要素を疑い、覆し、それでもそれは合唱と呼べるのかを問いかけ、合唱とは何かを問い続けるものになるのではないかと思う。そういう合唱的な(あるいは全然合唱的でない)何かを、全て許容する場があったら楽しいだろうな、と。

アイディアは概念的に幾らかは浮かんでくる。メモは思いつくたびにしているので、これから気が向いたらnoteに書いておこうかなと思う。それらを見る人がいるかは分からないけど、それを見て面白いと思ったらパクってくれても構わない。オープンソースである。でも、もしやるなら誘ってくれたら嬉しいです。東京か神奈川辺りなら参加できると思います。面白いことをしましょう。

まあ、COVID-19のお蔭でそう簡単に実行には移せないんですがね。いやでも、それも含めて何かアイディアもあるのかも?合唱と言ったら生身だとCOVID-19の影響でどうにもならない、というのさえ疑う対象かもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?