見出し画像

独り言のようなnote - 書くことに微笑みを見いだすこと

noteは、読まれない。
そんなことは、もうずいぶん前からわかっていたので、今更何も気にしないのだけれど、まぁ、読まれない。
1記事書いて、10人前後にビューがあるかないかというのがアベレージなので、僕の記事をまともに読んでいるあなたは、まぁ、どこからやってきたの? と聞きたいくらいに稀有な存在だ。
ましてや、スキを押してくれたり、フォローしてくれたりした人は、よくぞまぁ、ここに落ちていた小さな石ころを拾いましたね、というくらいに、珍しいことで、文字通り、有難い、なかなか有り得ないことだ。
ありがとうございます。

それでも、別に、もはやnoteにはその辺は期待していないので、いいのだ。
noteをTwitterやFacebookに上げようとも思わない。
多分、読まれるだけでいいのであれば、Facebookに上げたほうが多くの人の目に留まるし、いいねも押してもらえるし、コメントもくれる。
でも、それをしたいんじゃないんだよね。
知っている人に、読んで! とアピールしたくはないの。
見つけてくれて、読んでくれて、面白かったよ、と言ってもらえれば、それはそれで嬉しくもあり、照れくさくもあるけれど、自ら読んで! は違うんだよね。
読んで欲しいとも思ってないんだよね。

でも、この感覚ってみんなもそうなんだろうか。
そうじゃない人がいることはわかる。
だから、SNSで積極的にアピールしている人がいるわけだし。
それを良いとか悪いとかいいたいわけでもない。
自分はやらないけれど、やっている人の記事は読むし、へー、と今の近況も知ることができる。
まぁ、いいや。SNSについて掘り下げたいわけではないので、言葉が続かない。

問題はnoteだ。
読まれないのに、なぜ書くか、だ。
noteには、書くことを継続したことを喜びに変えさせる仕掛けがある。
続いてるよ、バッジだよ、と言われると、もうちょっとやろうかなと思う。
ただの自己満足だ。
筋トレと一緒だ。

うん。筋トレと一緒。
やり続けていると、筋力の代わりに何かが身に付く。
何だろう。
これまでの僕のnoteを読んだ人は察しがついているかもしれないけれど、僕のほとんどのnoteは、書きたいことがあって書いているわけではない。
例えば、自分に得意な分野やジャンルがあったとして、それをテーマに記事を書いて集客して、そこであわよくばお金ももらって、とやっている人も多いと思うんだけれど、僕の場合はそうじゃない。
いや、そうでもあるよ。
そういうことも、しようかな、ちょっとだけやるかな、みたいな感じはあるよ。
でも、それじゃ面白くなくなって、結局、違うことをしてしまう。

何度か同じようなことを書いているけれど、書いていると言葉に引っ張られて、意図しない方向性に展開したりするんだよね。
その流れの中で、自分が意図していなかったところで、気が付いたり、発見したり、補足資料を入れたくなって検索した時に、知らなかったことを知ったり、そういう面白さがある。
これは、純粋に書くことの面白さだ。
何かを伝えたいとか、教えたいとかじゃない、書くこと自体の面白さ。
よく小説家とかが、あるテーマに挑戦したいとか、そういう表現をするじゃない。
それに似ているのかもしれない。
知らないことや、わからないことでも、疑問に思ったことでも、何でもいいんだけれど、自分がまだよくわかっていないことを書こうとしていくと、書いているうちにわかってくることがある。
そういう面白さ。

それを継続させるのがnoteだとしたら、noteは、常に、著者すらも知らない新しい発見を生み出し続ける装置なのかもしれないね。
AIもびっくり、みたいな。
書き続けているうちに、全く知らない世界にいけるのかもしれない。

あ、読まれたいわけじゃないとか書いているけれど、読んでもらうのは嬉しいんだよ。
ここまで読んでくれてありがとう。
来年くらいに、「noteは実は、すげー読まれる!」 みたいなタイトルの記事を書きたいなと思います。
まぁ、たぶん、ないな。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?