見出し画像

好きすぎて苦しいって、だからこういうこと。

「好き」というのは、なんなんだろう。厄介。とても厄介。厄介なのに尊い。尊くて幸福で盲目で、だからちょっとこわい。

だってその感覚って、当たり前だけど実体がないから。


「好き」という感覚、感情には実体がないから、目をつぶってきみの好きなところを具体的に思い浮かべる。

細くて長い指とか、骨ばった肩とか、服を着てると薄く見える胸とか、ひとつずつ数えることのできる背骨とか

いつも冗談ばかりのくせに、歌うととびきりセクシーな声が溢れ出るくちびるとか

秋の朝の風からできたみたいな凛とした目とか、つくりものみたいにうつくしい鼻とか。

そういうあれこれを思い浮かべたとき、あまりにも幸福で、あまりにも苦しくて、おかしくなりそう。

「恋い焦がれる」とはよく言ったもので。恋は甘いばかりじゃなくて、じりじり焦げついたりもする。
焦げたところは削って捨ててしまえば消えるけれど、その芳ばしい匂いはいつまでも消えないんだ。

そうして私はこの感情の「手触り」をみつける。きみの空気の「温度」をかんじる。実体はある。私の肌で、嗅覚で、感知できるきみにまつわるすべてのことには実体があるから、いつしか勘違いする。「好き」は、そこに、在ると。

偶像に恋をするとき、私たちは自分の脳内にある引き出しという引き出しをすべて開けて持ちうる限りの経験を総動員して、必要な情報を補完し想像する。自分勝手に。都合よく。

偶像に自らの持つそのあらゆる感触を合体させることで、「好き」に実体が浮かび上がってくる。あたかもそこに、在るように。

だからこわい。「好き」は、あまりにも一人よがりだから

以前、「偶像に恋をするか?」という話題が、マリナ油森さんや大麦こむぎさんのnoteから、ツイッターなどで盛り上がった。

二次元、三次元に関わらず、例えば漫画のキャラクター、ドラマや映画の登場人物、アイドルや俳優、さらに言えばネットでつながりのある誰か、など、「偶像」に恋をするか否か?という話題だ。

上記のnoteの中で、こむぎさんは「現実の恋は"付き合えるかどうか"で考えている部分がある」けれど「偶像に対してわたしは軽率に恋をする」ことができる、と書いている。

さっき、「好き」は一人よがりだからこわい、と私が書いたのはそういうことで。現実の恋は、はじめは偶像に自分の妄想を繋ぎ合わせてスタートしたものだとしても、一人よがりだったその感触は、次第に自身の意向とは無関係に、否応なく更新されていくものである。ステップを重ねれば重ねるほど、だからそこには、妄想ではなく相手の実体が混ざり合っていく。それが相手のいる、リアルな「恋愛」なのだろう。

自分の中だけで完結していた「実体」から、自分以外の他者が入り込んだ「実体」に進化することで、一人よがりのこわさからは解放される。だってそこに、在るから。まぎれもなく。「好き」の、一歩先に。

だから私たちはいつもひどく幸福で同時にひどく苦しい。そう、「推し」のいる私たちは。

どうして私たちは「推し」を見てこんなに胸が痛くなるのか。
それは、終わりのない一人よがりだからだ。

どんなに「推し」の好きなところを羅列して、どんなに「推し」との妄想を繰り広げて、どんなに「推し」の映像を見て満たされても、その先は絶対にないから。

幸福と切なさのアメとムチ

「推し」はいい。「推し」に幸せをたくさんもらっている私からしたら、そこ、そこの冷静なあなたに、「推しはいいぞ!」と声高に叫びたい。でも一方で、こんな報われないことあるか、とハンカチを噛んでいる自分もいる。

自ら進んでこんな無間地獄に身を投じている私たちは何なのか。Mなのか。ドのつくMなのか。

でも今日も私は推しの画像を見る。付き合いたての恋人たちのLINEの頻度くらいは見る。電話の頻度くらいはYouTubeを開く。週末デートくらいには推しの作品を鑑賞する。そこにはいつでも愛おしききみが待っていてくれる。そして数分後、数時間後にはまた、膝を折るほどの切なさに悶える。でも、それでいい。

だってそうじゃないか。こんな素晴らしき幸福をほぼワンクリックでいつでも手に入れることができるなら、かの無間地獄も甘んじて受け入れられるというものだ。



そこのあなたは今、何地獄ですか。私は菅田地獄です。(俳優の菅田将暉くん)

我関せずの「推し」なしのあなた、殻を破ってもいいんですよ。身を焼かれる幸福は、あなたが手を伸ばせばすぐそこにあります。

どうぞ、ご一緒に。


#エッセイ #好き #推し #アイドル #俳優 #恋 #恋愛

子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!