愛と、愛ではないもの
ファーストキスは幼稚園の頃だった。
ませたガキである。
高まる高揚感があり、それは恋と言っても差し支えなかった。
しかしそれは、愛とは違ったのだと思う。その頃の僕は、愛について、まだほとんど何の理解もなかった。
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愛が欲しい。僕はずっと、愛を探している。
僕が誰かを好きになることがあった。逆に、誰かが僕を好きになってくれることもあった。
恋愛環境としては、これ以上ないと言えるほど、僕の環境は恵まれていたのだと思う。
でも、愛については、全然わからなかった。
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この世界は、おおよそ、二元論で出来ている。
右利きと左利き。資本主義と社会主義。善と悪。
それなら愛だとどうなるか?愛は世界をどう分かつのか?
愛と、愛ではないもの。
おそらく、そういう分類になるだろう。
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大好きだった人に、「付き合う」というステップを省いて、「結婚してほしい」と伝えたことがある。
それは、僕にとって、等身大で、とびっきりの愛だった。
けれどその愛は、受け取られなかった。彼女にとって、それはきっと、「愛ではないもの」だった。
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愛と、愛でないものを、分かつ要因はなんだろうか?
何が愛で、何が愛ではないのか?
片方が愛を抱き、もう片方は愛を抱かないという状況は、起こりうるのだろうか?
愛とは…。
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愛のことを、よく理解していないまま結婚までしてしまった。
結婚してから妻に、「俺のこと、愛してる?」と野暮な質問をしたことがある。
「愛してるってどういう意味?」と返されてしまった。
答えることが出来なかった。結局、僕は幼稚園の頃から何も変わっていないのだな、と思った。
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愛についてわからなくても、生活に支障をきたすことはなかった。
愛は、概念なのかもしれない。それは触れることの出来ない、抽象的なもの。実態のない、誰かが考え出した、危ういコンセプト。
人はコンセプトが好きだ。だから人は、愛という言葉が好きだ。
だけど、コンセプトは、いつだって、もろくて崩れやすい。
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それから、しばらく経ったある日のこと。
僕は、まだ小さくてかわいらしい甥っ子と遊んでいた。
甥っ子は「赤ちゃんせんべい」というものが好きだと聞いていたので、それを彼に食べさせようとしてみた。
彼は、小さな手で、そのせんべいを受け取った。食べた。正確には、彼はそれを食べようと頑張り、そのうちのいくつかを床にこぼし、しかしいくつかをなんとか飲み込んでいた。そして、かわいい笑顔になった。
僕は、彼のその姿を見ていた。きっと、微笑んでいたのだと思う。
次の瞬間だった。
甥っ子が、僕の口に向かって、赤ちゃんせんべいを食べさせようとしてきたのだ!
僕は驚いた。だってそれは、僕が彼にあげたものだから。せんべいが大好きな彼に、あげたのである。
しかし甥っ子は、惜しげもなく、僕に赤ちゃんせんべいを食べさせてくれた。そして、また嬉しそうに笑った。
幼くてか弱い彼のその行為に、とてつもなく大きな愛をもらった気がした。
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僕はなんとなく、少しだけ答えのヒントを見つけた。
愛は、具体的なものだ。
愛は行動を作る。自分が大切にしているものであっても、惜しみなく相手に与えることができる。
愛は、相手を想い、それが具体的な行動となって表れる。
自分のことしか考えていない抽象的な想いは、エゴでしかない。
おそらくそれが、愛と、愛でないもののひとつの差異なのではないか。
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とりあえず答えを得たけれども、しかしながら、僕は、愛とはなにか、まだ理解しきれていない部分が多いと思う。
僕にとって、人生のテーマのひとつが、ほかでもない「愛」である。
また何かわかったら、どこかに文章を書きたいと思っている。もっと長い、うんざりとするくらいのボリュームで、愛を証明したい。
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これで話は最後になるが、昔、身近に「愛」という名前の女性がいた。
名前が素敵だなと思っていたが、名前だけでなく、その人はとても綺麗で美しく、周りの注目をいつも集めていた。
僕にとっても、高嶺の花だった。
もし、愛を具現化することができたなら、それはそのような美しさを身にまとっているのだろうか、となんとなく思うのである。
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