見出し画像

愛と、愛ではないもの

ファーストキスは幼稚園の頃だった。

ませたガキである。

高まる高揚感があり、それは恋と言っても差し支えなかった。

しかしそれは、愛とは違ったのだと思う。その頃の僕は、愛について、まだほとんど何の理解もなかった。

***

愛が欲しい。僕はずっと、愛を探している。

僕が誰かを好きになることがあった。逆に、誰かが僕を好きになってくれることもあった。

恋愛環境としては、これ以上ないと言えるほど、僕の環境は恵まれていたのだと思う。

でも、愛については、全然わからなかった。

***

この世界は、おおよそ、二元論で出来ている。

右利きと左利き。資本主義と社会主義。善と悪。

それなら愛だとどうなるか?愛は世界をどう分かつのか?

愛と、愛ではないもの。

おそらく、そういう分類になるだろう。

***

大好きだった人に、「付き合う」というステップを省いて、「結婚してほしい」と伝えたことがある。

それは、僕にとって、等身大で、とびっきりの愛だった。

けれどその愛は、受け取られなかった。彼女にとって、それはきっと、「愛ではないもの」だった。

***

愛と、愛でないものを、分かつ要因はなんだろうか?

何が愛で、何が愛ではないのか?

片方が愛を抱き、もう片方は愛を抱かないという状況は、起こりうるのだろうか?

愛とは…。

***

愛のことを、よく理解していないまま結婚までしてしまった。

結婚してから妻に、「俺のこと、愛してる?」と野暮な質問をしたことがある。

「愛してるってどういう意味?」と返されてしまった。

答えることが出来なかった。結局、僕は幼稚園の頃から何も変わっていないのだな、と思った。

***

愛についてわからなくても、生活に支障をきたすことはなかった。

愛は、概念なのかもしれない。それは触れることの出来ない、抽象的なもの。実態のない、誰かが考え出した、危ういコンセプト。

人はコンセプトが好きだ。だから人は、愛という言葉が好きだ。

だけど、コンセプトは、いつだって、もろくて崩れやすい。

***

それから、しばらく経ったある日のこと。

僕は、まだ小さくてかわいらしい甥っ子と遊んでいた。

甥っ子は「赤ちゃんせんべい」というものが好きだと聞いていたので、それを彼に食べさせようとしてみた。

彼は、小さな手で、そのせんべいを受け取った。食べた。正確には、彼はそれを食べようと頑張り、そのうちのいくつかを床にこぼし、しかしいくつかをなんとか飲み込んでいた。そして、かわいい笑顔になった。

僕は、彼のその姿を見ていた。きっと、微笑んでいたのだと思う。

次の瞬間だった。

甥っ子が、僕の口に向かって、赤ちゃんせんべいを食べさせようとしてきたのだ!

僕は驚いた。だってそれは、僕が彼にあげたものだから。せんべいが大好きな彼に、あげたのである。

しかし甥っ子は、惜しげもなく、僕に赤ちゃんせんべいを食べさせてくれた。そして、また嬉しそうに笑った。

幼くてか弱い彼のその行為に、とてつもなく大きな愛をもらった気がした。

***

僕はなんとなく、少しだけ答えのヒントを見つけた。

愛は、具体的なものだ。

愛は行動を作る。自分が大切にしているものであっても、惜しみなく相手に与えることができる。

愛は、相手を想い、それが具体的な行動となって表れる。

自分のことしか考えていない抽象的な想いは、エゴでしかない。

おそらくそれが、愛と、愛でないもののひとつの差異なのではないか。

***

とりあえず答えを得たけれども、しかしながら、僕は、愛とはなにか、まだ理解しきれていない部分が多いと思う。

僕にとって、人生のテーマのひとつが、ほかでもない「愛」である。

また何かわかったら、どこかに文章を書きたいと思っている。もっと長い、うんざりとするくらいのボリュームで、愛を証明したい。

***

これで話は最後になるが、昔、身近に「愛」という名前の女性がいた。

名前が素敵だなと思っていたが、名前だけでなく、その人はとても綺麗で美しく、周りの注目をいつも集めていた。

僕にとっても、高嶺の花だった。

もし、愛を具現化することができたなら、それはそのような美しさを身にまとっているのだろうか、となんとなく思うのである。

***

★Twitterもやっています。エッセイになる前のアイデアを書いているので、よかったらフォローしてみてください。

★Instagramもやっています。昨日の投稿は、デザインが素敵な「会津若松駅」でした。


読んでいただきありがとうございました。また、サポートをくださる皆さま、いつも本当にありがとうございます。心から嬉しいです。今後の執筆活動のために使わせていただきます。