見出し画像

言葉にならない何かがある、言葉にならない状態に大きな可能性がある、ということを言葉にしてみる【コーチングにまつわる話】


はじめに


今回は久しぶりに【コーチングにまつわる話】の記事を書きます。いつも書いているカナダや本の話題とはちょっと趣が異なりますが、お読みいただけると嬉しいです。





私が大事にしてきたこと


話はいきなりだいぶ昔に遡ります。私が大学に入学した1997年のことです。一般家庭にパソコンが普及し始めた時代でした。Windows 95 が登場した頃です。それまでワープロを使っていた我が家にも、IBMのデスクトップパソコンがやってきました。

そして当時の大学の履修科目には、情報リテラシー系の科目が新しく導入されました。どこの大学もそうだったと思いますし、私が入った大学も力を入れていました。私はパソコンの使い方を大学で学びました。

情報リテラシーの授業で一番印象に残っているのは、「リテラシー」の語源についてでした。授業科目そのものの学びではなく、先生が講義からちょっと脱線して話してくれた「リテラシー」の言葉の背景が、強烈に印象に残ったのでした。

そもそも、現代社会の私たちが使っている「リテラシー」の意味は次の通りです。ざっくり表現すると「能力」です。

その分野に関する十分な知識や情報を収集し、かつ有効活用できる能力

新語時事用語辞典より


「リテラシー」は単独で使われることはあまりなく、それこそ情報リテラシー、ネットリテラシー、メディアリテラシー、ビジネスリテラシーという風に、「○○を使いこなす能力」という意味で使われることが多いと思います。

「リテラシー」はもちろん英語の「literacy」が元になっています。直訳すると「読み書き能力」または「識字」です。さらに、「literacy」 の語源はラテン語の「literatus」や「literate」で、これらは「読み書きの素養がある」や「教養がある」という意味があります。

もう少し時代背景と合わせて、かみ砕いて説明すると、かつての西洋では教育を受けて読み書きができる人を教養があるとし、彼らを尊重して表現した言葉が「リテラシー」だったわけです。

さらに、先生はこう説明してくれました。読み書きができること、もっと言うと、論文を書いたり発表したりして他者に伝えることで初めて、その学問について教養があると見なされたという時代背景が「リテラシー」の言葉の背景にあるのだと。

「つまり、言葉にして伝えることで初めて、能力があるとみなされます。」


先生は、授業での積極的な発言を私たちに求めました。発言がない学生、質問がない学生、レポートを出さない学生は、「能力」が無い、つまり「リテラシー」が無いと見なされる、と暗に伝えたわけです。

もともと、意見を求められれば、または求められなくても、または意見がなくても、発言をするタイプであった私は、先生による「リテラシー」の言葉の背景の話に触発されました。まあつまり、はりきったんですね。質問も発言もよくしたと思います。情報リテラシーの授業内容は、今となっては何も覚えていないけれど。

そして、それから長い長い間、私は「言葉にして伝えること」に大きな意義があると思ってきました。とにかく誰かに、自分の中にあることを「話すこと」が大事であると考えてきました。そうしないと、「能力」が無いと見なされるわけですから。


言葉にならない何かがある


さて、だいぶ昔の話から、少し前の話に移ります。ここ2年程の話。

私は、2022年にコーチングを学び始めて、「聴くこと」を学び、「話をきいてもらうこと」っていいなと思うようになりました。これは私にとって、控えめに言っても大きな変化でした。このことについて書いた記事があります。


さらに、コーチングを学びにおいて、私にとってとても大きな気づきだったことに、「言葉にならない何かがある」ということがあります。「何か」とは何か?

感情、思考、価値観、意見、気持ち、思い、、、といった私たちの中にあるものたちです。

もちろん、それらがあることは分かっていました。私たちの中のどこにどうあるのか知らないけれど、実体を見ることはできないけれど、それらがあることは分かっていました。

でも、私は無意識的にそれらのことも、「言葉にしなければ無いも同然である」と見なす傾向にありました。完全に無いものにするわけではないけれど、でも、無いものとして見なす許可を与えられたもの、として扱う傾向にありました。

例えば、悲しい、寂しい、辛いといったようなネガティブな感情などは、言葉にしなければ、言葉にされなければ、無いものとして振舞う選択肢を与えられたような気がしていました。つまり、ということは、相手に向き合うこと、自分に向き合うことを避けてきたわけです。

感情も思考も、言葉にしなければ、言葉にして伝えなければ、無いのです。「能力」と同じことです。自分の中にあることを「話すこと」が大事なのです。そのようなスタンスで生きてきた私がいました。

「・・・でも、はたして、本当にそうなのだろうか?」

敢えて言葉にするとこんな表現になりますが、このような疑問形の、思考なのか、感情なのか、それこそ言葉にならない何かが、私の中にあることに気づきました。違和感や居心地の悪さですね。

今思えば、その違和感や居心地の悪さが、私をコーチングに向かわせたのかもしれません。

さて、コーチングを学び始めて、感情、思考、価値観、意見、気持ち、思い、、、といった私たちの中にあるものたちを、まずは「ある」と見なすようになりました。

もちろん、分かってはいたので、言い換えると「認める」とか「目を逸らさない」といった感覚です。これはある種の決意や勇気が必要なことです。「ある」と見なすように心掛ける必要があります。なぜなら、今でも言葉にしないことでないことにしてしまおうとする私がいるからです。

私たちの中にあるものたちを「ある」と見なすことは、コーチングの文脈でいうと、「自分を受け容れる」ことに繋がります。そして、違和感や居心地の悪さが軽減されるのだなと思います。






言葉にならない状態に大きな可能性がある


コーチングの実践を始めたばかりの頃は、クライアントがたくさん話してくれるとある種の安心感を覚えたものでした。私のコーチングがクライアントから何かを引き出している、というような錯覚に陥ることができたからです。

「言葉にならない何かがある」と見なすようになったけど、依然としてそれらを「言葉にしなければ無いも同然である」としている私がいたんです。クライアントが、感情や思考を言葉にしてくれることでしか受け止めない私がいたんですね。

もちろん、セッション中にクライアントが多くの言葉を発することで効果を発揮することはあります。思考の整理だったり、言語化だったり、オートクライン効果だったり。

でも、コーチングにはもっと可能性があると教えてくれたのが、私がコーチングを学んだ THE COACH でした。

感情、思考、価値観、意見、気持ち、思い、、、といった私たちの中にあるものたちは、言葉にしなくても、その場に立ち現れるものです。言葉以外の表現手段を使って、立ち現れるものです。

クライアントの表情、目線、仕草、声色、沈黙、話すスピード。クライアントの発する空気感もあります。最近のコーチングセッションは専ら Zoom を使いますが、画面越しに伝わってくる全てが、クライアントの感情や思考なのですね。

以前、呼吸法と瞑想を交えたワークを体験したときに、その感想を伝えるのに四苦八苦したことがありました。本当に何と言っていいか、何と表現していいか、分からなかったのです。でも、何か伝えなきゃと思い、言葉をひねり出して感想を伝えました。

その時に言われたことが心に残っています。

言葉にならなくていい。
言葉にならないということは、過去に無い、新しい体験をした証しだから。
言葉を無理に探さずに、新しい体験を味わえばいい。

これは、とても腑に落ちることでした。

それが新しい体験だったかどうかに限らず、言葉にならない何か、言葉にし辛い何か、言葉にしたくない何かが、「ある」のです。それはつまり「ポテンシャル(Potential)がある」ということです。

ポテンシャルとは、もう少しかみ砕いてみると、潜在能力や、成長する余地や、将来性のことです。リソースといってもいいかもしれません。ひっくるめてここでは「可能性」とします。

言葉にならないとき、私たちは無意識的に表情や体を通して表現してしまうときがあります。セッション中にクライアントの言葉が途切れて沈黙してしまったとしても、何かがそこにある可能性があるということです。

私は今も、自分の中にあることを「話すこと」が大事であると思っています。でもさらに、「言葉にならない状態に大きな可能性がある」ことも学びました。




コーチングのクライアントさんを募集します


さて、ここまでお読みいただきありがとうございました。そんなこんなで、コーチングから色々学んでいる(急にざっくり!)私ですが、コーチングのクライアントさんを募集しています。

クライアントさん募集にあたっての思いを書いた記事もあります。

お申込みフォームのリンクも貼っておきます。


少しでもご興味ある方は、ぜひ体験セッションのお申込みを。お茶とお菓子を用意して、じゃなくて、安心安全あたたかな場を用意してお待ちしております。




コーチングとは陽炎を見るようなもの



今回は、コーチたちのアドベントカレンダーに寄せて記事を書いています。ひとつのテーマを元に、コーチたちが順々に記事を投稿しています。


テーマは「陽炎(かげろう)~今見ている物語~」でした。企画してくださった まほさん がテーマに次のような言葉を添えてくれていました。

そこにあるのに、通り過ぎてゆく
あることが自然で、風景のようで
でも、たしかにそこにある
意味があってもなくても、何気なく、さりげなく、ただそこにある

今、なにが見えていますか?

まほさんより

そして、もうひとりの企画者である みどりん も次のような言葉を残してくれました。

藤原敏行が詠んだ「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」との詩から、秋の気配を感じる風にふと気づくとき、あるよな、気づかないときもあるけど、気づくときもあるよな、とも思いました。

気づけばあるし、気づかなければない。

みどりんより


「今、なにか見えていますか?」
「気づけばあるし、気づかなければない。」

なんと心震える表現でしょう。もうね、ごくごく自然に、コーチングと陽炎を結び付けてしまいます。

まさにコーチングとは陽炎を見るようなもの。





おわりに



「リテラシー」に纏わる大学時代からの思い出は、いつか書きたいと思っていたことでした。やっとのことで、こうして書き上げることができて、嬉しい気持ちがあります。

自分の中にあることを「話すこと」が大事である、という考えは私にとってある種の呪縛でした。そうしないと、「能力」が無いと見なされるという恐れが私を縛っていたわけです。

さらに、コーチングの学びを通して、「言葉にならない何かがある」「言葉にならない状態に大きな可能性がある」ことを知った私は、それを「誰かに言葉にして誰かに伝えたい」という欲求を覚えます。大学の先生の言葉が脳裏に蘇りました。「つまり、言葉にして伝えることで初めて、能力があるとみなされます。」

面白いですよね。この大いなる矛盾のような展開。でもこのプロセスが「リテラシー」の習得なのだと思っています。この記事を読んでくださるあなたがいるからこそ、私のコーチングリテラシーが鍛えられるわけです。

ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。




冒頭の写真は、いわずもがな カナダ プリンスエドワード島のものです。ウェストポイント(West Point)という縞々の灯台。なぜ、この写真を選んだのかというと、この写真の撮影日が 2007年8月11日 だからです。20年近く前の今日ですね。

「リテラシー」のことが忘れられないように、この日のことも忘れずに残っています。灯台の傍に広がる砂浜でシーグラスを探して過ごしたのでした。あのときの光景が、陽炎のように揺らめいて私の中に残っています。

おまけの写真も載せておきます。


ここまでお読みいただいたことに感謝です。毎回生みの苦しみを感じつつ投稿しています。サポートいただけたら嬉しいです!