そこに愛はあるんか? 〜子どもに教えられたこと〜
※ 写真は、アイフルさんPR資料からの借用です
体育会系の私は、電車でよく席を譲る若者だった。
運動不足解消になるからと、エスカレーターではなく階段を選ぶタイプだった。
今日も元気いっぱいの自分より、座席を必要としている人がいるだろうと思っていた。
サッカーコーチとなって子供を引率する立場になってからも、選手の移動で電車を使うときには、
「我先に座席に座ってはいけないよ!」
と指導していた。
あらゆる人が乗ってくる電車には、これからサッカーの試合に行く元気溢れた子供よりも、疲れた人や年上の人たちがたくさんいるからだ。
だが、そんな私に手痛い一撃を喰らわす体験があった。
そこそこ混んでいる電車に乗っていた時の事だ。
私の目の前に老人が立ったので「どうぞ」と席を譲った。
しかし、老人は座るどころか突然怒りだしたのだ。
「冗談じゃない!そんな歳じゃない」
とかなんとか言いながら。
私も、「大丈夫ですよ」と笑顔で断ってくれればそこまで意固地にはならなかったと思う。
多くの人が乗っている電車の中で、席を譲ると言うのは、多少なりとも躊躇を伴った行為だ。譲った方としても、譲ったことを理由にあからさまに怒られては立つ瀬がない。
しかし、私はその老人の怒りに反応してしまった。
「なにも、怒ることないじゃないか」
その時、私は固く決意した。
人が年老いていると言う理由だけで席を譲るのは金輪際やめようと。
若かったのだと思う。
年寄りに見られたくないと思う年齢があるということに想像力が働かなかった。
もちろん電車では、決して人に席を譲るまいと決めたわけではない。
その人が「歳をとっているように見える」ということを理由に席を譲るのはやめると言うことだ 。
体に障害を持っていたり、具合悪そうにしている、杖をついている、そういった方々には、今でもすすんで席を譲っている。
これは、僕が障害者のボランティアをしていたことも影響しているかもしれない。
人からは分かりにくい障害を持った方もいるのだ。
そういう人たちは困っていても、自分から席を譲ってくださいとは言わないものだ。
ぱっと見、障害があると分からない人に席を譲ってもいいと考える人は決して多くないと知っているから。
だから、こちらから積極的に「座りますか?」と聞いてみることにしている。
「大丈夫です」と返事が返ってくれば、そのまま座っていればいいだけの話だ。
もし「ありがとうございます」と返事が返ってきたら、快くお譲りすればいい。
一方、僕が決して見逃さずに席を譲るようにしているのが妊婦さんだ。
これにも理由がある。
妻が大きなお腹を抱えて、通勤していた時の経験だ。
「通勤、大変だよね」と妻を労った時、妻はこう言ったのだ。
「それが、電車で一度も立ってたことがないのよ。一度もよ」
僕はとても驚いた。
と言うのは、妊婦マークをカバンに付けている女性が電車の中で立っている姿をよく見かけていたからだ。
私はその時、深く深く感謝をした。
「身重の妻に席を譲ってくださった皆様。どなたかは存じ上げませんが、本当にありがとうございます。このご恩は、私が電車に乗る限り一生をかけてお返ししていきます」
そう決めたのだ。
それ以来私は、妊婦マークをつけている人には気軽に席を譲るようにしている。
小さな子供を抱えた人にもだ。
子供が爆睡してしまい、電車で子供を抱っこして立ち尽くしているのは、体育会系の私でさえ辛いものがあったからだ。
「妊婦さんに恩返しはするが、老人には譲らない」そんな僕のかたくなな心を溶かす体験があった。
娘がまだ4歳位の頃だったと思う。
娘と二人で電車に乗っていたときのことだ。
座席は全部埋まり立っている人がポツポツいるといった位の混み具合だった。
私と娘の前に高齢の女性が立っていた。
もちろん、私には席を譲ろうと言う気持ちはさらさらなかった。
人が年老いて見えると言う理由だけで席を譲ってはならないと学んでいたからだ。
その時、娘は目の前に立つ女性に目をやると私に向かってこう言った。
「パパ、私をお膝抱っこしてくれたら、もう一人座れるよ」
「お、そうだね。パパのお膝においで!」
娘は私の膝の上にちょこんと座ると、目の前の女性を見上げた。
娘と目が合った女性は、僕の方を見て
「素敵なお嬢さんですね。お言葉に甘えて座らせていただこうかしら」
と言って娘に微笑みかけて、娘が空けた座席に座ったのだ。
そのやり取りで一番嬉しかったのは、おそらく私だ。
その時のことは今でも鮮明に覚えている。
まずは自分の娘に対して。
「なんて優しくて、気が利く子に育ったんだ!」
と自分の娘の成長に心が躍ったのを昨日の事のように覚えている。
加えて、娘の厚意を無にせず、笑顔で受け取ってくれた女性に対して。
おかげで娘は、席を譲って叱られた僕のような体験をせずに済んだ。
厳密にいえば、娘は女性に席を譲ったわけではなかった。
席を詰めればもう一人座れることに気づいて、席を一つ空けただけなのだ。
女性とは一言も会話を交わしてはいない。
娘の「席は空きましたよ、座るか座らないかのご判断はお任せします」
という押し付けがましくない態度も素晴らしかった。
若い頃の僕は「どうぞ!」と席を譲ることが、
「あなたは年老いて見えます」というメッセージを言外に届けてしまうことがあるということに全く想像力が働かなかった。
そんな風に思う人がいるなんて、若かった僕には想像もつかなかった。
結婚するまで、妊婦がどれほど大変か、などと言うことに全く想像力が働かなかったように。
なのに、娘は
「あなたが老人だから席を譲るのだ」
といったふうなそぶりを一切見せずに、
「一人でも多くの人が座れたらいいな」
と席を空けた。たった4歳で。
もしかしたら僕は、
「老人には席を譲らなくてはならない」と教わったから譲っていたのかもしれない。
そこに道徳はあったかもしれないが、愛はなかった。
だから怒られた時に腹が立ったのだと思う。
娘は譲らなくてはいけないから譲ったのではなく
「一人でも多くの人が座れたらいいな」
と思ったから譲ったのだろう。
あるいはパパに抱っこしてもらいたかっただけかもしれない。笑
いずれにせよ、そこには愛があったと思う。
娘を持つということ。
父になるということ。
それは、私にとって「愛に気付く」ということだった。