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いじりといじめの境界線

芸人、起業家、YouTuberなど、多くの肩書きを持つたかまつななさんのnoteを読んでいる。特に、「#元いじめられっ子から今いじめられている君へ」というハッシュタグのついた記事は、興味深く読ませていただいている。

このハッシュタグのついた記事は、芸人さんを中心に、いじめられた経験のある方とたかまつさんが対談をした内容が記事になっているものだ。

芸人さんは、仕事として「いじり」「いじられ」をやっているけれど、それらは「いじめ」とも親和性が高い。たかまつさんの対談では、いじめを受けた経験のある芸人さんが、いじりをどう捉えているのかを毎回質問していく。

別に私はいじめられた経験があるわけではないのだけど、高校時代、いわゆる「いじられキャラ」だった。

いじられることで「おいしい」思いもしたけれど、逆に、かなりしんどい思いもした。だから、いじりやいじられを仕事としてやっていて、かつ、いじめられた経験のある芸人さんが、「いじり」をどう捉えているのかに興味があるのだ。

私はこの「#元いじめられっ子から今いじめられている君へ」の記事を全て読んでいるわけではないけれど、ほとんどの芸人さんが、いじりといじめの違いを、「愛があるか」「笑いが起きるか」という観点で分けている印象がある。

これをみて、私はそれに全面的にうなずくことができない。なぜなら、愛があってやってくれていることがわかっていても、いじられたことで笑いが起きたとしても、それでも辛いと感じてしまう「いじり」があったからだ。

愛があっていじってくれていることがわかるからこそ、それをつらいと思ってしまうこともあり、自分の心の狭さがすごく嫌になってしまうこともあった。

決定的だったのは、私を「おいしく」いじってくれていた人が、私に「愛があってやっているのだから、理解してほしいよね」という言葉をかけてきた時のことだ。丁度、いじられることが辛くて、「いじりをやめてほしい」と伝えた後のことだった。

本当に、この言葉が辛かった。未だに引きずっている。

愛があるという前提で、おいしくしてくれるから、笑いにしてくれるからよし、とできるのは、それが仕事になっているから言えることだと思う。

たとえ愛があったとしても、笑いになったとしても、辛いものはつらい。私をいじることで、ストレスを発散しようとしているだけじゃないかと感じることもあって、本当に辛かった。

こんなふうに人にいじられることがつらい時、雪合戦をしている時のことを思い出す。

雪合戦で相手にダメージを与えられるのは、とても硬い雪玉を作るか、中身に石などの硬いものを混ぜるかどちらかだ。

相手をいじる時というのは、出来るだけ固い玉を投げて相手の反応を楽しむのだけど、時々、ギリギリ気付かれるか気付かれないかくらいのサイズの小石が紛れ込んでいることがある。

相手は、ちょっとストレス発散のつもりで、気付かないだろうと思って紛れ込ませているのだろう。

でも、その意図に反して、やられているほうは気づくのだ。どんな小さな石ころでも。ちっさな悪意も、それを受けている方は気づいてしまう。

だから、いじりというものが、愛があればいい、笑いが起きればいいとは思えない。いじりという名の下に、ストレス発散のために小石をまぎらせてくる人がいるからだ。

人をいじめるということをしたことがないという人も、少しくらい悪意を含めて相手接したことはあると思う。

だからこそ、いじりというものが、世に受け入れられることに、違和感を感じてしまう。

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