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読書メモ|『おいしいごはんが食べられますように』
いつか買おうと思ってずっと先延ばしにしてしまっていたのをとうとう買って読みました。
読んでいて「うわぁ…」と思ってしまって重苦しい気持ちになるんだけど、めちゃくちゃリアルで「この感じ、身に覚えがあるぞ」と思う部分も多くて、しんどいのに何故か面白い、まじですごい話だなと思いました。
こういうことってあるよね、と簡単に要約して別の言葉で表現もできるんだろうけど、この”なんとも言えない、言い表せない感覚・感情”は物語を通じてでしか表現できないと思うし、物語を読むことでしか体験できないんだろうなと思う。
”お互いさま”ってどこまで成り立つんでしょうか。
体調が悪いなら帰るべきで、元気な人が仕事をすればいいと言うけれど、それって限られた回数で、お互いさまの時だけ頷けるルールのはずだ。結局我慢する人とできる人とで世界がまわっていく。
少なくとも、芦川さんの作ってくるお菓子は”あったら嬉しい”けど”必須”ではない。”必須”の部分(仕事)で誰かが困っている時、大変な時、”余剰”の部分(お菓子)でそれを補うことはできない。”必須”の部分での欠乏は、そこを埋め合わせることでしか”お互いさま”にはなり得ないんじゃないか、と思いました。数回のこととか、いつもはそうじゃない人が珍しく、とかならまだしも。「お菓子を作る暇があったら、」と思ってしまう。
みんながみんな、自分のしたいことだけ、無理なくできることだけ、心地いいことだけを選んで生きて、うまくいくわけがない。したくないことも誰かがしないと、しんどくても誰かがしないと、仕事はまわらない。仕事がまわらなかったら会社はつぶれる。そんな会社つぶれたらいいというのは思考停止がすぎる。そう思う。けれど、頭が痛いので帰ります、と当たり前に言ってのける芦川さんの、顔色の悪さは真実だとも思う。
やれることをやる、得意・苦手で分担するって理想だけど、結果的に誰かに負担が偏ってしまったり、できる人が抱えすぎてしまったりということになるんだろうと思う。能力がその人のバックグラウンドに紐づく部分もあることを踏まえると完全なる能力主義も考えものだけど、こういう状況を望んでいるわけでもない。それに、その得意・苦手がもうどうしようもないものなのか、まだ努力の余地があるものなのかもわからない。なんだかなぁ、と思う。
ここの部分、したいことだけしてたら世界は回らないけど、できないと言う人が嘘を言っているわけではないんだよなというどうしようもなさを表しているんだけど、”当たり前に””言ってのける”という若干棘を含んだ表現になっていて、どうしようもなさをわかってる、けどイラついてしまうみたいな複雑な心境が感じられて好き。