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普通という名の幻影を追いかける

「普通の学校に入学する」ために名門朝霞スイミングスクールに3才から通うことになったトムボーイこと少年川田。何かの間違いで選手育成コースに入ってしまった。ビート板を噛みしめながら、鬼コーチにぶっ飛ばされながら、練習するうちにスクールでトップクラスのスイマーに。誰よりも速くなったはずなのに、コース線上には自分よりも速く泳ぐ幻影の姿が。その影の正体とは?

幼稚園と地獄の往復
「せんせいさようなら」「みなさんさようなら」なごやかな幼稚園が終わるとすぐにスイミングスクールへ落とされた。「通った」というより「(地獄に)落とされた」という表現がしっくり来た。罵詈雑言と体罰は当たり前、グニャグニャになるまで柔軟体操を強要されたり、プールの水で濡れた肌に平手打ち(これが超痛い)されたり、コースロープに顔を押し付けられてグリグリされたり。わかりやすいタイプの地獄だった。スイミングスクールでは常に泣きそうだったけど、見学に来ている母親とガラス越しに目が合うと、全然大丈夫だという素振りをした。ところでこの文章は僕の記憶が元になっている。母親に何度か当時の話を後日談として聞いたことがあるのかも知れないが、やっぱりここまで鮮明に覚えているというのは異常らしい。さっき事実確認のために血のつながった妹に確認してたら「すんごい記憶力!」と反応があった。僕が冗談交じりに「まだ自閉症だからね」と返すと、「たしかに。兄のことを普通の人だと感じたことはない」という答えが返ってきた。幼少期の事実確認というより、現在に続く恒久的な僕の異常性についての再確認となった。

地獄には鬼が、プールには鬼コーチがいる。
泳ぎの基礎はバタ足に始まりバタ足に終わる。いまのトレーニング法ではあんなに無闇にバタ足ばかり推奨していないのかも知れない。僕らの世代はとにかくバタ足だった。まずは両手でビート板につかまり顔を出しながらバタ足。それに慣れたら、水に顔をつけて息継ぎをしながらバタ足。さらに次のステップでは息が続くまで顔を沈めてバタ足。要するに三ヶ月くらいはひたすらバタ足をさせられる。

バタ足をひたすら練習してる最中、全てのスイマーはあるひとつの欲求に駆られる。ビート板を噛んでみたい。ビート板は適度な硬さと柔軟さを兼ね備えており、素材でいうと高密度ポリエチレンと発泡ポリエチレンとエチレン酢酸ビニルコポリマー(EVA)で構成されている。なかでもエチレン酢酸ビニルコポリマーはチューイングガムでも使われて素材なので、噛みたくなるのも当然。その欲求に負けて噛んでしまったら最後、鬼コーチのジャイアントスイングを食らうことになる。せっかくバタ足で進んだ距離が台無しになるし、飛ばされた勢いで耳と鼻に大量の水が入る。罰として重すぎる。それでも噛みたい。噛む。自動的に投げられる。二度目以降は、噛んだビート板をブーメランのように投げ叩きつけられる。それが容赦なく顔面を痛打する。ビート板を拾いにいって戻ると、お尻をギューっと強くツネられる。地味だけど、これがすげー痛い。何度か繰り返しすうちに、ビート板を噛みたくなる衝動が消え、いつの間にか少年はバタ足マスターになっているのだった。

金メダルを噛んで自らの給料三ヶ月分を返上した市長がいたが、バタ足をお勧めする。泳ぎが速くなるし、自分が所有していないものへの噛みたい願望も消え失せる。

普通という名の幻影を追いかける
バタ足マスターになったあと、自由形のタイムトライアルに挑戦することになった。時間が伸びたり縮んだりするのが楽しくて、何度もトライした。トライするうちに頭角を現し、いつの間にかスクールの中でも1位2位を争う存在になった。タイムを競うようになると、どのターンで失速して、どのスクロールで挽回できたのかがリアルタイムで分かるようになる。繰り返すうちに、最速タイムの自分の幻影が見える。これは比喩でも何でもなくて、ある程度の泳力を身につけたスイマーなら誰しもデフォルトで備わる能力だ。幻影を追い抜いたと思ってタイムを確認すると、新記録というのが常だった。

3歳から続けたスイミングも、6歳を迎える頃になると例のことが気がかりになった。そしてビタッと記録が出なくなった。僕は果たして普通の学校へ通えるのか。あのときの医者の顔が、息継ぎの度に浮かぶ。「なぜ?」「どうすればよかった?」水しぶきをあげて新たな幻影を追いかける。自閉症だと診断された日、医者から出された問題に全問正解していたはずだった。すべて正解なのになぜ普通の学校へ行けないのか。2歳年下の妹は、今年で4歳になる。彼女だっていつか小学校へ通うだろう。兄が普通の学校に通っていなかったら、妹は不当にいじめられるかも知れない。影にはなかなか追いつかない。

スイマーが水を掴むように、影を掌握する。
スイマーには、水を掴む瞬間というものがある。繰り返してきた練習と息継ぎのリズム、そして精神状態が綺麗なトライアングルを描くとき、はじめて叶う。あの幻影は、普通の学校へ行けた場合の自分の影なのかも知れないと仮定した。あの影を追い抜かすにはどうすればいいか。僕が水泳を始めたのは、自信をつけて普通の学校へ通うためだった。あのテストの前、質問をいくつかされた。あたかも子供にするような他愛もない質問だった。ああいう、大人がいかにも子供にしてくる質問や振る舞いが大嫌いだった。思い切り無視してやった。いや、待てよ。無視したらダメじゃん。普通の学校へ行けないと診断されたのは、テストの結果ではなく質問への態度が原因だったのではないか。馬鹿にされた気持ちになったのなら、それを相手が大人であっても伝えればいい。無視はいけない。会話は反応だ。反応しないということは、存在しないのと同じこと。なんてことだ。医者だって、馬鹿にされたら腹が立つだろう。なんてことだ。そんなつまらないことで、母親を悲しませたのか。公園のすべり台の順番待ちだってそう。体力と自信は手に入れた。順番を抜かすやつがいたらルール違反だと、泣かない程度に小突いてやればいい。鬼コーチみたいに、お尻をツネってやればいい。それだけの話じゃないか。なんてことだ。僕はもう、水泳で学ぶべきことを全て学んでしまった。幻影の姿はもう二度と見えなくなった。

「川田!すごい!新記録だ!」鬼コーチがストップウォッチ片手に僕をプールから引っ張り上げた。最後のタイムトライアルのあと、スイミングスクールは引越しを理由に辞めた。引越し先にもスクールはあったが、もう興味はなかった。そもそもタイムを縮めるのが目的ではなかった。僕は無事、普通の小学校に入学したのだった。

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