「愛し方」に権利などない


知人と、そのお子さんたちと一緒にいた日のこと。

一緒に用事をこなしたあと、お世話になっている方々のところへ少しだけ顔を出すことになった。夕方に差し掛かった時間帯で、子どもたちは少々お疲れ気味。私と知人はそれぞれひとりを腕にかかえて、その人たちのところへ向かった。

「お世話になっている」とはいえ間接的なつながりしかなく、私たちにとってはその場のほとんどが初対面だった。皆さん明るい人ばかり。にこにこで迎え入れてくれた。

急に大人がたくさん現れたものだから、子どもたちはきゅうっとちいさくなった。びっくりして、私のセーターの胸元をじゅっと握った。
長居しない方が良さそうだな、と感じたとき、「かわええなあ、女の子はほんまにかわええなあ」と近づいてきた女性が、子どもたちを熱心に撫で始めた。

「うちにももうすぐ2歳の孫がおるねん。でも男の子やねん。やっぱり女の子の方がぜーーったいかわいいわ」と言いながら、私の腕の中にいる子の足を包んだ。どうにかして、次は娘に女の子を産んでもらいたいとも言った。その言葉の最中、何度も「可愛らしいなあ、愛しいなあ」と、女の子たちを擦るように撫でた。

それから15分の間、ミルフィーユのごとく、"孫の可愛いところ"と"ばあばの残念感"と、"女の子の愛おしさ"が延々と積み上げられる。はっきり言って苦痛だった。この人が結局孫を愛しているというのはわかる。とはいえ今だから吐き出しているのではなく、至る所でこの話をしているのだろうということもわかる。「女の子」と「男の子」の間に明確な線引きがされていることも、産むことは女の義務という無意識的なニュアンスも伝わってくる。

「お子さんはいるの?ぜひ可愛い子産んでくださいね」という言葉は私に向けられた言葉だった。あなたの娘だったら私、会いにいけなくなる日が来ると思います、と心の中で答えた。

最初の5分、この人の想いの背景には、私に見えていない部分には、いったいどんなものがあるのだろうと必死に思いを馳せた。くらし、世代、属性。私には知り得ないものを他人はたくさん持っているものだ。浅はかに判断を下したくないといつも心底思っている。けれど、何度目を背けても顔を覗き込んでくる見知らぬばあばに緊張し、逃げるように眠りについたこの子達の体温に、胸が苦しくてたまらなかった。今すぐここを出て行きたかった。

けれどそうしなかったのは、隣にいる子どもたちの母親(彼女は男の子の母でもある)が、笑顔で受け流し続けていたからだ。家族をたくましくささえる優しい人だ。彼女を差し置いてこの場を去ることが、厚かましく思えて私にはできなかった。それでよかったのかはわからない。

意識的な悪意はない。目の前の女の子たちを精一杯慈しんでいるつもりのはずなのだ。「だからこの人を無下にはできない」、では善意とは、優しさとは、痛みとはいったい何なんだろう。

「偏り」に出会ったとき、わかってもらうことの難しさに負けそうになる。私にのしかかる違和感がいかに重たいものなのか、相手に伝える術を持っていない自分に気がつき打ちひしがれる。勇気を持って声にかえても、届かなかった時は大いに傷つく。私はそれがとても怖い、だからできない。そして、自分の中にも見過ごした「偏り」や「無知」があるのではとまた、問い直してゆく。

あの日から同じ曜日を何度か迎えた。それでもムスクの香りのばあばと、全体重を預けて眠る子どもの姿がゆっくりと浮かんでくる。マスクの下の私は、あの時どんな顔をしていたのだろう。

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