泣かなくなっても、消えたりしない

小学5年生の終わり、祖父が亡くなった。

祖父は無茶な生き方をして、家族にたくさん迷惑をかけてきた人だった。商売人の家系だったこともあり、当たり前のごとくよく働いたようだけれど、その分お酒もタバコも大好きだったし、しつけはスパルタ、しかし当の本人は抜けたところが多く、気の向くままに行動をしては周囲に世話を掛ける有様だった。祖母は苦労したようだけれど、心根の悪い人ではなかったし、私にとっては「寡黙のような、とぼけているような、不思議な雰囲気」を醸す存在だった。

祖父はあるとき癌を患って、胃のほとんどを摘出した。それまでたくさん吸っていたたばこは手から離れ、一時は中毒にまで差し掛かったお酒もやめた。病状は回復して元気に過ごしていたけれど、そのほか色々な原因が積み重なり、数年後に病院のベッドで数日過ごして息を引き取った。


(ここまで書きながら、今すごく複雑な気持ちになっている。)


本題はここからだ。実は祖父のことを書き残そうとしているのではない。祖父を送り出したあの日から中学3年生まで、私はほぼ毎日、ベッドでひとりしくしく泣いた。答えはないとしても、「あの数年間は一体なんだったのだろう」ということをただ書いておきたかったのだ。

祖父は近くに住んでいたので週に2度は会っていた。上述の通り「不思議な雰囲気」の人だったので、おしゃべりを楽しんだり、一緒に遊んだりしてもらったりした記憶は少ない。なんなら近寄りがたいしちょっと面倒な人とすら思っていた。だけど、「愛されている」という感覚はあった、すごくあった。祖母や叔母にばかり甘えて、祖父とは少し距離をとる孫の自分にうっすら罪悪感があった。だから、帰るときだけは「おじいちゃんばいばい~」と意識的に声を掛けていた。今思えば、祖父は「そういう人だった」だけだし、私が申し訳なく思う必要もなにもないのだけれど、子どもながらになんとなく気になっていたのだ。家族だからというより、輪の中にいない人を気に掛ける心理と同じなのかもしれない。

祖父が亡くなる前日に、病院に会いに行った。管のつながった祖父に何と声を掛ければいいのかわからなくて、私はぼんやり「あと30分で女王の教室の放送が始まってしまうな」などと考えていた。病室をでるとき、首だけ起こした祖父が私に”ばいばい”と手を振った。あれが本当に最後だった。

出棺前に、家族でタオルに寄せ書きをすることになった。私と妹と両親がディズニーランドで数か月前に買ったお土産のピノキオのタオル。裏に油性ペンで一言ずつ書いたのだけれど、私の順番が回ってきても何もことばがでてこなかった。タイムリミットがきてしまい、叔母さんが私からペンを取って「ありがとう!」と大きく書いた。タオルと、私以外のことばたちは、煙になって昇っていった。


後悔とは、こういうことを言うのだと思った。
「ばいばい」だけの会話、疎ましく思う内心、病室を出る時振った手、タオルの空欄。そういうことばかりがそこから毎日浮かんだ。「もっと○○してあげればよかった」という気持ち。優しくしてあげたら、ちゃんとお話しすれば、感謝を伝えれば。誰も私を責めなかったのに、私が自分を責めていた。

それがしばらく続いて、でも、ずっと悲しいのかというとそうではなかった。近しい人を亡くしたのは初めてだったけれど、否応なく時間の経過とともに心は癒えていく。失った痛みは少しずつ去る。悔いの気持ちもかなり薄まった気がする。けれど夜になれば、涙が出てくる。浮かんだ記憶に対してどんな感情で泣いていたのかは妙に思い出せない。あの頃の私は今の自分の中にもういないのだと思う。だから想起できない。

泣いていることは誰にも話せなかった。話すことではないと思っていた。子どもが数年前に亡くなった家族のことで泣いているなんて、あまりいい受け取られ方をしないと感じていたからかもしれない。そして、途中から「悲しむために泣いている」自分がいると気づいたからかもしれない。泣くことは、おじいちゃんを胸に残す作業を担っていた。多分。忘れたくないし、忘れてはいけないから、きちんと泣かなければならなかった。多分。悲しい気持ちは本物だった。けれど悲しさを持ち続けることで私は祖父を大切にしようとしていたのだと思う。あの頃の思いを完全回顧することはできないから、「多分」と言うしかないのだけれど。


経緯は忘れてしまったけれど、ついに私は胸の思いを母に話す、泣きながら。母もびっくりしたのだろう、「そんなこと抱えなくていいのよ」と、叱るように言われた。思っていたリアクションと違ったけれど、そこから急に吹っ切れていった。泣かなくなった。祖父のことも忘れなかった。

高校に入ってから学内で弁論大会が行われることになり、祖父のことを書いた。初めてクラスで発表した時は、感情が滲んで泣いてしまった。底にある経験を、想いを、明確に言葉にして伝えるというのは、未体験の感覚を生んだ。どうしてこんな大切なことを、クラスメイトに向けて喋っているのだろうとも思った。でもきちんと放たれて、歪んだ地面を水平に戻してくれた気がする。

悲しいことがあった時、平気になるまでに必要な時間は人それぞれ。だけど痛みにはきっと有効期限がある。私は恣意的に余韻を引き延ばしていた、そうすることが自分には(そして祖父には)必要なことだと思って。次第に手放し方がわからなくなってしまった。まだアイデンティティも固まらない子どもだったというのにね。


ぱかっと記憶の蓋が空いたので、糸を手繰って文章にした。実家の神棚の前で笑う祖父と目を合わせては私も笑う。「おじいちゃん困った人だったよね~」という言葉だけで祖父を語ることができる。
執着は消えた、愛は残る、優しい懐古で大丈夫。




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