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サンとアシタカと、

ジブリでなにが好きかと聞かれると、
一番はもののけ姫だと必ず答える。
後に続くのは、ハウル、コクリコ坂。
とはいえそれ以外も全部全部だいすきだ。

友だちの中に何人か、数えるほどの作品しか観たことがないという人がいる。悪く言うつもりは微塵もないのだけれど、みんなどうやって大人になってきたのだろうと不思議な気持ちになる…なにみてたんだろう…

あまりにももののけ姫が好きすぎるので
常々感じていることを
そのまま書くことにします。
解説でもなんでもない長文ですが
よろしければ、どうぞ。

生きることとは、守ること

冒頭、アシタカの村はタタリ神となった猪に襲われる。村を守るべく矢を放ったアシタカに呪いが移り、それは腕に濃い痣を残し、いずれ彼の命を食い尽くすことを示す。
「この村の将来を背負って立つ若者が…」という言葉があるが、大和の国に敗れたあと、元の地を致し方なく捨て、移り住んだ土地で風習を守り文化を築き、そうやって続いてきたのがこの村なのだろう。
この時代の寿命は今よりはるかに短いだろうけれど、アシタカはまだきっと十代で、青年に近い少年だ。若い。
けれどすでに「守る意志」がある。村と民を何であろうと守るという屈強な意志。タタリ神に矢を射る時に心を決めました、だなんて一生かかっても言える気がしない。けれどアシタカには村を守らず自分が生き残る道なんぞ、思い浮かぶ余地もない。犠牲ではない、尊さでもない、彼にとって生きることとは、生かしてくれた村を守ることなのだ。

そういう意味では、人間から生贄として山犬に差し出されたサンも、売られていたところをエボシに引き取られたタタラ場のトキも全く同じだ。自分を生かしてくれたものをみすみす死なせる選択肢など毛頭ありえない。私たちは皆生かされている、どんな暴力的な生命力を持った生き物も、みんな何かに守られて生きている。

生きることは、誠に苦しく辛い

自分でない何かのために懸命であることは素晴らしい。素晴らしいけれど、私たちは人間だ。それも彼らの時代と比べれば俗世も俗世、今を生きていくためには自分を保つことで精一杯だ。
エボシの匿う石火矢衆は、おそらくハンセン病患者だろう。腕のないものも、皮膚が溶けているものもいる。重いうつり病と恐れられ蔑まれてきた彼らを守るエボシもやはり気高い人だけれど、彼女の業は次第に闇を深くする。山の神々からの憎しみは「人間が生きること」そのものを罪にしていく。
その憎しみがアシタカの腕から溢れ刀を抜こうとしたときに、重病を患う石火矢衆の長がアシタカに言う。

生きることは誠に苦しく辛い。
世を呪い、人を呪い、それでも生きたい

「そう願う私に免じてその御人を殺さないでくだされ」隙間なく覆われた包帯に涙を滲ませながら聞こえる声。
もののけ姫には(というかジブリ作品には)名言がたくさんあるけれど、どうしてこの言葉がフォーカスされないのかな。誰にとっても生きることは苦しいものだ、けれどそれでも生きていきたい、そう命に縋ることも生き物らしさなのだ。命は目的や利害で測れるものではない。命そのものが希望なんだ。

一方で、森を切り崩さなければ暮らしを豊かにできない事実から目を背けることはできない。生きることは守ること、では守ることは壊すこと?私たちの生きる道は、奪うことでしか広げられないのだろうか。作品は森とタタラ場の背景を見せつけながらも、答えは教えてくれない。考えなくてはいけない、この世界と共存していく上でなにが正しいのか、なにができるのか。


ジブリが描く世界が、架空の話だとは私にはどうにも思えない。ある種大河ドラマのように、過去を切り取り宮崎駿が私たちに見せてくれているように感じる。シシ神の森はきっとどこかにあり、サンを乗せた山犬が岩を跳ぶ。猪の憎しみがアシタカに莫大な力を与えたように、身を裂くような苦しみが却って命を支えることもある。皮肉にもそうしてまた命を繋ぐ、という悲しい螺旋は今もずっと続いている。

たっぷり133分の映像、何度繰り返しても必ず私に立ち返る契機をくれる。
久石譲の音楽とともに、ひとつ心を浄化する。アシタカ聶記が問う。自分の命を生きることとは何か、共に生きるとは何か。


この記事のタイトルの続きには、
全ての名前が続く。
エボシとモロとトキと私と、あなたと、



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