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『うつ病は重症でも2週間で治る、もし・・・・・・』【加藤諦三・三笠書房】を読んで。理想的な自分を模索する。①

この本の前書きで、「気がふさいでしまったとき、とにかく一度読んでみてください」と作者は語る。タイトルの「もし」に続く言葉は、

「毎朝あなたがまず最所にすることが、どうしたら人を本当に喜ばせてあげることができるかと考えることであり、そしてそれに固執すれば

だという。

実は人生の中で私は、「鬱になる人は偉い」「鬱になる人は、そのくらい悩んで苦労しているんだから、優遇しなくてはいけない」ってずっと思ってきたところがある。人のことを心配して心配して、考えて考えて仕方が無いから鬱になったんだと。自分のことは後回しの、謙虚で偉い人だと。

本当に人を喜ばせることを考えられないから鬱が治らない、

と筆者は語っている。つまり、私がこれまで思ってきたのとはおおよそ逆のことが書いてある。この矛盾はどういうことだろうか。

人のことを考えて考えて一杯一杯になってしまったはずなのに、結果自分のことで一杯一杯になりすぎて人のことを慮る余裕がなくなる。どうしてこんなことが起きるのか?それは、その本人の中身が空洞だから。自分を押し殺して生きてきて、自分の中身が無いから。だから自分の心の外の他者との距離感がつかめず、筆者の言葉を借りれば

「『自分の家』に鍵をかけていない」。「『家』の中に誰かが入ってきても「出ていってくれ」とは言えない」。「うつ病になるような人は態度も行動も言葉も従順だが、心の中は怒りで煮えくり返っている。」

わかるーーーー、と思わず叫びたくなるのである。

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「嬉しい」と「楽しい」の違い

うつ病者は楽しいことがない、と筆者は語る。でも、嬉しいことはある。良い子を演じて褒められれば嬉しい。筆者の本文より言葉を引用すると、

ネコがネコとして受け入れられれば嬉しくて楽しいが、ネコがイヌとして受け入れられたときは嬉しくても楽しくはない。仮面をかぶって褒められてもうれしいが、楽しくはない。しかし仮面をかぶらないで生きていれば、毎日は楽しい。

なるほどなぁ。生きていくために蔑ろにしてきた自分自身は、楽しく生きていくためには重要なものだったんだ。私なんかも「嬉しさ」だけで20年も30年も生きてきたようなものだ。そうやって生きるのが当たり前と思っていたから。ただこの、ネコがネコだと、イヌがイヌだと、自覚する確認作業が現代社会では痛く難しい。だって、ネコがネコであること、イヌがイヌであることは求められていなくて、何か別のものになることを求められがちだからさ。少なくとも私はそう感じてきたよ。そして内面がネコである、イヌである証拠なんてどこにもないから、ごまかそうと思えばいくらでもごまかして、ぶっちぎれてしまう。

目に見えないものは、無いものであるように扱う、そんな現代社会のダメなところにひっかかって、人は心を病んでいくんだなぁ。

これからどう生きていきたいのか?

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自分も楽しく生きられれば、他人を思いやる余裕が出てきて、鬱からは抜け出せる、ということが、ひとまず本の前半を読んでみてわかった。自分の楽しさもわからないのに、必死で他人を思いやろうと頑張るから、余計鬱から抜け出せなくなることも。余計なお世話かもしれないけど、この本、『I』信者の〇〇さんにも教えてあげたい。『I』で生きるのは良いけれど、自分が楽しいことをわからなければ不幸になるだけさ。

人は心が満たされていないと、紙屑ひとつ拾えない。心に余裕がないと、シャワーを浴びるのも面倒くさい。タバコの吸い殻を道路に捨てていく人を見ればわかる。心が満たされていない顔をしている。歩き方からして欲求不満を表わしている。しかしそれを片付ける人は、心が満足している顔をしている。心が豊かになってはじめて、部屋の整理整頓もできる。それ以前の整理整頓は恐怖と不安からである。部屋を綺麗にしようという気持ちは、心の満たされた人の気持ちである。うつ病者が部屋を片付けようとすると、完全に片付けようとする。その第一の原因は、過程を大切にして生きてこなかったからである。第二の原因は、うつ病者の心が満たされていないことであり、その結果、なぜ片付けるかがわかっていないことである。片付いているほうが気持ちよい。綺麗なほうが気持ちよい。普通の人は、できれば気持ちよく生活したい。シャワーを浴びるのもさっぱりしたいからである。うつ病者は五感がわからないから、過程が大切でない。

引用が長くなったけれど・・・私は心のどこかで「鬱、かっこいい説」「鬱、インテリ説」を信じていた。それはどういうことかというと・・・

小説家の金原ひとみさんが、「掃除をしてお風呂にちゃんと入っていれば鬱にはならない」という体育会系メンタルの旦那さんに、「掃除をしてお風呂にちゃんと入れる人は鬱にはならないのだ」と持論を語る場面がどこかの本にあった。(言葉の詳細は違うかもしれないけどそういうニュアンス)「繊細な私の苦労は鈍感で凡人なあなたがたにはわかりようもない」とでも言いたげなこの持論、ご本人はとても辛いのかもしれないけれど、なんともかっこいいではないか、と感じてしまう。健康的に元気はつらつと生きていたら申し訳なくなるくらいの鬱っぷりである。また、『腐女子のつづいさん』という漫画に、女子会で集まる数人の腐女子たちが「お風呂に入るの面倒だよぉ!」と意見を一致させごねる場面がある。これもまた、私はインテリジェンスを感じるというか、腐女子という繊細でありながら世の中の裏側を背負ってしまった女性たちの、これまた健康的に元気はつらつと生きていたら申し訳なくなってしまうような、背負わなくて良い負を優しい人たちへ背負わせてしまったような、そんな気持ちにさせられる。

かっこいい、インテリ、というか、感覚の良い人たちへ負を追いやってしまったことについて、思うところがあるのだな。そして対象となるのは感覚の良い、感性の良い人たちなので、鬱であるとかないとかは関係なく、結果かっこいい、インテリ、というイメージと結びついている。

この加藤諦三さんの説でいけば、これらのかっこいい、インテリの感性の良い女性たちも、自分の中身を充実させていけば鬱っぽい感じから抜け出せるんだろうか。まあ実際彼女らはクリエイティブな仕事をやれているので、現状は実際鬱ではないのかもしれないが。

それは自分の側にも心がなかったということである。自分が適当に相手と接しているから、相手の本質がわからない。相手も適当にこちらと接しているから、こちらのことがわからない。お互いに根本的なことがわからない。
自己疎外された人は、好き嫌いがはっきりとしない。好き嫌いより、便利か便利でないかのほうが、判断基準そして有効である。

鬱、かっこいい説、鬱、インテリ説を信じていると、これらの、本の引用から想起する「鬱、かっこ悪い説」をどう処理して良いのか頭がついていかなくなる。確かに事実なんだけど、あれ、鬱ってインテリでかっこいいものではなかったっけ?元気はつらつで健康的な人って、視野が狭くて人に迷惑をかけるから嫌いで、私は鬱になってかっこよくインテリに、繊細で感性良く生きていきたいんじゃなかったっけ・・・?と、よくわからなくなってくる。ここで、自分の中で出来てしまった長年の間違えた理論と理想を整理しなくてはならない。

私がなりたいのはどんな人?

いくつか言葉が自分の中から登場した。整理してみる。

①かっこいい

②インテリ

③元気はつらつ

④健康的

⑤視野が狭い

⑥人に迷惑をかける

⑦繊細

⑧感性良い

この中で私がなりたいものは?

①かっこいい
②インテリ
③元気はつらつ
④健康的
⑦繊細
⑧感性良い

なりたくないものは?

⑤視野が狭い

⑥人に迷惑をかける

なるほど。自分の中でどこか極端にひっくりかえった像が出来てしまっている。鬱だから繊細でインテリなわけでもなければ、健康的で元気はつらつだからといって視野が狭くて人に迷惑をかけるわけでもない。それなのに、鬱な人はインテリで、健康的で元気はつらつな人は視野が狭くて迷惑をかける、と結びついてしまった。ここを解きほぐしていけば、自分の中の在りたい人物像も紐解けていきそうだ。ついでに論理的な考え方が苦手な自分についてもよくわかる。インテリへの道は遠いな。(笑)

自分のことは棚にあげて・・・

自分のことは棚にあげて、「あぁ・・・こういう人、いるよね。」という部分があったので抜粋してみる。

これ以上努力しないでよいことの合理化が、「幸福になるために本質的なものが自分には欠けている」と自分をみなすことなのである。
うつ病になるような人が色々と勘違いをするのは、相手を見ていないで生きているからである。自分の価値観が心理的健康な人とずれていることに、うつ病者は気がつかない。そこで努力が水の泡となる。うつ病になるような人はムダな努力を重ねる。
自分をきちんと主張したほうが好かれるということが、うつ病者にはわからない。うつ病になるような人は相手を見ていない。お腹が空いていない人に、ものすごいお弁当をつくっていくようなことをしているのである。自分の立派さを売り込むことに気を奪われて、相手を見ていない。それで努力が実を結ばない。それはうつ病になるような人の努力は、先に述べたように自分を守るための努力だからである。あるいは他人から「これ、お願いします」といわれると、相手との関係を考えないで無理をする。自分の立派さを売り込むことに気を奪われて、相手を見ていないから、「毎朝、相手が喜ぶことを考えて、それを実行すると、うつ病は重症でも2週間で治る」といっても意味がない。

これはまさに知り合い〇〇さんの姿であり、少し前の自分の姿である。おそろしや。自分を売り込まないといけない社会で長年あったけど、でも最近はそうでもなくなって、人間性中心に社会へと変わってきている気がするよ。少なくとも自分は、もうこういったかっこわるい鬱、未熟な鬱は卒業しよう。

この20年くらいで自分が一番何を身に付けてきたかというと、なんだかんだで一番興味が向いていたのは「話を聴く技術」、カール・ロジャーズ式の来談者中心療法の耳の傾け方である。それなのに自分のことに必死で相手を見ていないなんて恥ずかしすぎる。ここまできて初めて、鬱は、かっこいい面よりもかっこわるい面が勝ると感じる。鬱的な自分は直そう。

鬱を直していくために

なぜ自分はこんなにも憎しみをもってしまったのかと、心の底を見つめれば、そこに自分の依存心を見出すかもしれない。あるいは自分の甘えに気付くかもしれない。
あるいは、「人の褌を借りて相撲をとる人」であることに、気が付くかもしれない。人の力を借りて自分が満足する方法を求めていることに、気がつくかもしれない。
自らの力を頼って何かをする姿勢がない。そうした自分のエネルギーがない。自分の力で自分の家をつくるエネルギーがない。そうしたことに気がつくかもしれない。
ヤドカリは誰かの家を借りて、「この家狭いわねー」などと、「あーでもない、こーでもない」と文句をいっている騒いでいることで、自分は仕事をしていると思っている。
子どもでも生きるのが楽しい子は、率先して動いている。ヤドカリではない。自分のエネルギーがある。それに対してヤドカリのほうは努力をしたくない。率先して動かない。しかし権力者には迎合する。それに便乗して得をしようとしている。

このヤドカリもまさに私。小学校3年生くらいから、もうこんな感じだなぁ。

人に頼らない生き方を目指せば、うつ病は回復に向かう。自分の心を正面から見つめることができれば、これから先自分はどう生きればいいかが自然とわかってくる。しかし多くの人たちは正面から自分と向き合わない。向き合うことから逃げる。だから死ぬときに、人を恨んで死んでいくのである。

目下の目標

「人に頼らない生き方」だな。10月の目標はこれの構築だ。でもまだまだ、心の癖が残っているのよ。恨み、つらみなどをなくしていけない、不安定な要素が心に残っているんだ。それを踏まえて、前半はここまでにして、後半②へと進みます。

ここまで読んで下さりありがとうございます。


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