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ADHDの死にたいは鬱ではなく多動の表れ説(当事者研究)

この死にたい、消えたい、という感情は何なのだろうか。

私は今まで抑うつをを対処すべきもの、つまりはねじ伏せるべきものとして扱ってきたのだが、そもそも無理をしていたから鬱になっていたのであって、それに対処をしてうまくコーピングするというのは空いた穴の上に蓋をして盛り土をかぶせるような行為だったのではないだろうか?と最近思う。

その穴からしみだしてくる何かを扱ってあげるという趣旨でこの文章を書いている。

人によって違う鬱の質

最近同じく鬱傾向の先輩と話していて「鬱の時も体内のエネルギー量減らないの!?」と驚かれた。

これは私が鬱の時も動けるみたいな話ではなくて(そうだったらいいのに)死にたい、と思っているときでも体の中は常に騒いでいる、という話だ。

私はADHDの二次障害の鬱という診断を下されているのだが、僕の鬱観としては、もう一人の自分が首と頭のつけねから後頭部のあたり漬物石のように鎮座していて「お前は死ぬべきだ‼」「いいからお前は死ぬべきだ‼」と叫び続けているというような感じである。(今も叫んでいる。)

なんか、シンジ君みたいな感じ。「動け!」「動け動け動け!!!」「死ね!!!」と後頭部は叫び続けているのに体(エヴァ)は思った通りに動いてくれなくて…というような。
ボーっとできるのは山に行ったときかサウナに入ったときくらいで、日常生活の中で何も考えない、というのはほぼ経験されない。

どうやらそれは先輩の躁鬱とは違うらしい。その先輩は鬱の時は何もやる気がせずぼーっとしたりずっと眠ったりしてしまうらしい。


ADHDの鬱についての仮説

その違いがどこから出てきたものか、ということについてひとつ仮説を立てたので考えてみる。それは

ADHDの体は常に騒いでいて、何かに意識を放射していないではいられない。
僕の場合そのエネルギーを向ける先が鬱になっているのではないか、というものである。


例えば僕はADHDながらに座ることができるのだが(すごい!)座っている際も体は常に騒いでいるので、思考し続けるか、貧乏ゆすり等で体を小さく動かすことでエネルギーの発散をし続けないと座っている状態を保つことができない。

今も、タイピングをやめた瞬間から貧乏ゆすりと「死ね‼」の合唱が再開するので、書き続けなければという義務感にかられている。

他にもいろいろ例がある。
人と話すことに集中していると合唱は押しのけられて遠のいてくれる。会話に意識が向けられているからだろう。
食べると少し落ち着くのは体のエネルギーが食べることと消化に向くからかもしれない。もしくはASD的な身体への感覚の鈍さから「おなかが減った」という不快の信号を「死ね!」という言葉でしか捉えられないのかもしれない。

あとは、鬱の時はむしろうろうろしていたりスマホに過集中したりしているので、やはり僕の鬱には多動が関わっていそうである。


体が騒ぐタイプの鬱に何を用意してあげるとよいのか

まだ分析が甘い気もするが、やや拙速に「つねに何かをせずにはいられない多動性が希死念慮に転化されている」として、ではこの鬱はどう扱ってあげれば良いのだろうか。

分かったら苦労しねえよ。とは思うのだが、簡単に結論を反転させるとしたら
「意識を志向する活動を適切に用意してあげる」もしくは「何もしないということをする」ということになるだろうか。

でもこれ結構難しい。前者は健全時であれば、人と話したり、音楽を聴いたり、授業をしたりすることで発散できるけれど、問題は鬱の底にいる時なのだから。

後者は後者で何もしなければ「死ねばいい!」という声が大きくなるだけなのであまり適していない気がする。濃く、甘い紅茶でも入れるのがいいのだろうか。動かなければ死にはしないわけだし(社会的にはじわじわ死ぬことが多くて困る)

可能性としての「当事者研究」

と、ここまで書いてみて思ったのだが、今私がやっている「当事者研究」は丁度いい塩梅だと思う。詳細は割愛するけど自分の状態を当事者として語りなおすことなどで自分を「研究」しよう、という試みだ(浦川べてるの家、で検索)。

適度に距離を保ちつつ、自分の状態から目を背けないで扱って挙げることができる。
最近東洋哲学をかじって、鬱に対しては禅と念仏で対応しようかなと思っていたのだがこれはそれより一歩進んだ取り扱い方でなおかつ近代的というか。動かざるを得ないADHDにはおすすめの方法になると思われる。
まさしく、この文章もその意図で書かれている。(だから一人称の揺れとかもそのまま)

ことわりを入れておくと、自分の適性や鬱の状態等を見ず「せめてこれくらいはしないと」とか「これをやればいいんだ!」と無理をして取り入れようとすると自己否定感が募るだけなので、慎重にね。

まとめ

以上、ADHDで希死念慮を抱える筆者がその原因を鬱そのものではなく「常に騒いでいる身体」に求め、その解決策として当事者研究やその他のメソッドを示した。
当事者研究、よければいっしょにやってみませんか。







それではよい一日を。


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