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容疑者xの献身に登場する数学解説


1. はじめに

 先週、テレビで「容疑者xの献身」という作品が放送されました。私は昔からこの作品が大好きで、ガリレオシリーズを知るきっかけになった作品でもありますし、ガリレオシリーズがなければ私が理工学部に進学することもなかったと思います。
 作者の東野圭吾さんは大阪公立大学で理系科目を専攻していたため、この作品ではちょこちょこ数学ネタがちりばめられています。これを知ることで、もっとこの作品を好きになることができると思ったので、この記事を書いてみることにしました。
 ぜひ、楽しんでください。

2. 石神の発言

 ここでは、石神の発言に潜む数学ネタを拾っていきます。

2.1 「同じ色が隣り合ってはいけない」

 石神が逮捕された後、天井を見つめて図形を想像するシーンで「同じ色が隣り合ってはいけない」という発言が出てきます。
 これは、かの有名な「四色問題」という命題の一部から引用されています。湯川と石神が帝都大学で初めて会った時、二人が話し合ったこともこの四色問題についてです。直感的な四色問題の問題文は

『平面上のどんな図形も、隣り合った領域が異なる色になるように塗り分けるには、高々4色あれば十分だろう』

というものです。この問題はもともと一介の大学生の疑問によって始まったものなのですが、このことを証明するのは非常に長い時間がかかりました(証明には、グラフ理論と呼ばれる数学の理論が使用されており、これは「位置」や「つながり方」にのみ着目するような数学です(図2.1を参照))。

図1 四色問題([10]より引用) 塗られている領域の形は関係なく、どこに位置しているかということが左の図では強調されていることがわかります。

この問題は、実現できる平面図形をすべて取ってきて、その一つ一つをすべて四色で塗り分けらえるかどうかということをコンピュータで検証していくことによって証明されました(厳密にいうと違いますが、ここではわかりやすさを優先しています)。
 また、石神は作中で「四色定理の綺麗な証明を探している」というような発言をしています。なぜ石神はすでに解かれた問題を証明しているのかと言えば、コンピュータによるしらみつぶしの証明は純粋数学の観点から見て美しくないからです。そもそも、コンピュータが必ず間違っていないという保証はどこにあるのでしょうか、本当に取り残しはないのだろうか等々、、数学者の中には証明方法にそのような懐疑を持つ人がいるのは疑いようのない事実です[2]。石神もそのような考え方をしていて、純粋数学の観点から見ても素晴らしいと思えるような証明を探しているというのが、石神がすでに解かれた問題に挑戦している理由です。
 余談ですが、純粋数学的な証明が存在していると考えられていることにも理由があります。それは、四色定理の別バージョンのような「五色問題」と呼ばれる問題には、非常にきれいな解法が存在しているからです。もっとくわしいことを知りたい方は、[10]を参照してください。また、詳細に解説された和書として以下のものがあります。


2.2 「数学には前人未到の山がある」, 「リーマン予想か…」

 石神が湯川とお酒を飲んでいるときに出たセリフです。3.1で紹介する湯川の発言ともつながっているので、丁寧に解説していきます。
 まず「前人未到の山」と言うのは「まだ解かれていない問題」の比喩です。数学は完ぺきな学問だと考えている人もいますが、決してそんなことはなく、むしろいまだに謎が多い学問です(本当に完成された学問であるなら、人類が数学を研究する必要はありません)。その中でもとくに有名な問題が「ミレニアム懸賞問題」です。これは、アメリカのクレイ数学研究所が100万ドルを懸賞金としている問題群で
①バーチ・スウィンナートン・ダイナー予想
②ホッヂ予想 (通常はホッジ予想と呼ばれますが、英名だと「Hodge Conjecture」であり、ホッヂの方が発音として近いためこのように記載しています)。
③ナヴィエ・ストークス方程式の解の存在と滑らかさ
④P≠NP問題
⑤リーマン仮説(予想) (私がなぜリーマン仮説と記載するのかは後で書きます。)
⑥ヤン・ミルズと質量ギャップ問題
⑦ポアンカレ予想 (解決済み)
のことを指します[12]。かの有名な「フェルマーの最終定理」は、ミレニアム懸賞問題が提示された2000年時点ですでにアンドリュー・ワイルズによって解決されていたため組み込まれていませんが、もし2000年時点でも未解決であれば、間違いなくリストに入ったと思います。また、ポアンカレ予想については2006(2003とする説もあり)年にロシア人数学者グレゴリー・ペレルマンによって証明されました[3][9]。②④⑥に関しては3.1で詳しく解説しますので、ここでは⑤にフォーカスして説明をしていくことにします。

 自然数のs乗の逆数和を取ったものをゼータ関数として定義します。s=-1なら、ゼータ関数は1+ 1/2+1/3+・・・ですし、s=-2ならゼータ関数は1+1/(2^2)+1/(3^3)+・・・です。これを、複素数平面と呼ばれる、
我々が住んでいる世界とは少し違う世界へと拡張すると、

『nが-2, -4, -6などのゼロより小さい偶数の場合(元の主張は「非自明な零点」)、ゼータ関数の値は0になるだろう』

というのがリーマン仮説の言っていることです[11]。リーマン仮説は、リーマンという数学者によって[1]の論文の中で提唱された問題です(「提唱された」というよりは、「こうなるだろう」ということをリーマンは言っていました)(また、[1]はリーマンの元論文ではなく、内容が英語に翻訳されたものです。私がドイツ語を読めないため、英語に訳された方を参考文献として挙げています)。
 リーマンは、私たちが高校で習う積分のしっかりとした定義を与えたり、多様体とよばれる幾何学の基礎を創設したりするなど、非常に聡明な数学者でした。「どの数学分野を専攻しても、リーマンの業績になからずぶち当たる」とまで言われることもあります。

図2. リーマンの肖像

そんなリーマンが結局この仮説を証明することができなかった、ということを考えると、いかにこの問題が難しいものであるかが理解できると思います(リーマン自身が解けなかったのは、彼の短命というのも一因であるといえます)。もし、リーマンに関してもっと知りたいという人がいましたら、少々難
しいですが[5]の本を読んでみてください。

加藤文元先生が当時リーマンの思想がどのように扱われていたか、加えて、彼の研究がどれほど先駆的であったのか、ということがよくわかります。私は初めてこの本を読んだとき、リーマンの先見の明に非常に驚いたことをよく覚えています(この記事を書くにあたっても大分参考にしました)。
 また余談ですが、作中で「リーマン予想の反証か…」というような発言を、湯川から論文を渡された石神がしています。これはつまり、石神が受け取った論文がリーマン予想が間違っているということの証明を試みていたということです。もちろんリーマン仮説が間違っている可能性もあるのですが、多くの数学者が「リーマン仮説は真である」と考えています。これにはいくつかの理由がありますが、その中で最も大きいものは、リーマン仮説は解析的整数論と呼ばれる数学の分野の問題にもかかわらず、類似した問題が数学のあらゆる分野に出現し、またそれらはほとんんど正しいということが知られているためです。これに関して詳しく知りたい方は、[8]の文献に当たってみてください。砂田利一先生のリーマンゼータ関数に関するエッセイが読めます(多分、数学にそこまで詳しくなくても理論の大枠は追えます)。

 ちなみに、最近(2018年ごろ)「リーマン仮説が解決された」というような発表がマイケル・アティヤという数学者によってなされました[7][13]。彼はアティヤ=シンガーの指数定理という非常に素晴らしい定理を証明した数学者であり、彼は間違いなく20世紀数学者における巨人の一人です。予想を証明したといわれる論文は5ページ程度で、物理学のある定数を導く過程でリーマン仮説が真であることがわかった、というのがその論文の内容だったようです(もし気になる方は、[7]を読んでください)。しかし、彼はこの論文が査読(論文に間違いがないか、などを他の学者が確認をする作業)中に亡くなってしまい、結局この論文が正しいのか否かは今でもわかっていません。個人的には、アティヤほどの数学者がエセ論文を発表するとは思えないので、これが正しいにしろ間違っているにしろ、今後この論文がリーマン仮説研究に関して新たな指針を示すことになるのではないかと思っています。

【補足】
 私が「リーマン予想」ではなく「リーマン仮説」と書いているのは、この問題の英名「Riemann Hypothesis」の「Hypothesis」を「予想」と訳すのは、なんだかなぁ…という違和感を覚えるからです。「conjecture」を「予想」と訳すのはしっくりくるんですけどね…。

3. 湯川の発言

3.1 「ホッヂ予想, ヤン・ミルズ方程式と質量ギャップ問題, P≠NP問題…」

 ここの解説は2.2節で話したことをもとにして進めるため、未読の方はそちらを先に読んでからこちらにもどっていただけると、理解が容易になると思います。また、解説しなければいけないことが多いため、一つ一つは少し淡白な説明になってしまいます。また、P≠NP問題は後の湯川の発言にも関係しているため、ここではホッヂ予想とヤン・ミルズ方程式について解説します。
まず、ホッヂ予想とは

『非特異な複素射影多様体上のすべてのホッジ類は、複素部分多様体のコホモロジー類の有理数係数の線形結合となるだろう』

という予想のことです[11]。「???」ですね。少し詳しくみてみましょう。まず、『非特異な複素射影多様体』についてですが、これはざっくりいえばある条件を満たすような図形です。この図形のホッヂ類と呼ばれる、図形の特徴を決定づけるような要素が、これまたある図形(複素部分多様体)の特徴を決定づけているものと関係しているのではないだろうか、というのがホッヂ予想の言いたいことです(かなりザックリ解説しました。詳しいことは[2]をあたってください)。ホッヂ予想は主に代数幾何学と呼ばれる数学の分野の問題であると考えられているのですが、この代数幾何学を理解するだけでもかなりの時間が必要とされます。まして、未解決問題などという最先端の事柄など、そう簡単に理解できるわけがないですよね…厳しい世界です。
 ちなみに、ホッヂ予想は部分的に正しいことが証明されています。つまり、成り立たないと考える方が若干不自然な命題です。
 また余談ですが、日本人はこの「代数幾何」という分野で大きな功績を挙げています。小平邦彦先生、森重文先生、広中平祐先生は特に国際的にも高く評価されている代数幾何の研究者であり、三人とも数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を受賞しています。もしかしたら、このホッヂ予想も日本人数学者が解決するかもしれませんね。それと、小平邦彦先生はとても多くの数学エッセイをお書きになられています。いくつかここにリンクを置くので、興味のある方は買ったり、図書館で借りたりして読んでみてください。

 ヤン・ミルズ方程式と質量ギャップ問題は

『任意のコンパクトな単純ゲージ群 G に対して、非自明な量子ヤン・ミルズ理論が R^4上に存在し、質量ギャップ Δ > 0 を持つことを証明せよ』

と言う問題です[11]。一応このヤン・ミルズ方程式の問題は、我々の住んでいる世界を記述する物理学の問題なのですが、全く何を言ってるのかわかりませんね。これは、ヤン・ミルズ方程式の記述するものが我々の実生活にかかわる物理学ではなく、量子力学のものであるからです。一つ一つ単語を見ていくことによって、なんとなく意味を理解してみましょう。
 まず簡単なのはR^4です。これは単に4次元のことを指します。別に頭の中に描けなくても、「ああ、四次元の問題なのね」ということを意識してもらえれば問題ないです。任意のコンパクトな単純ゲージ群Gですが、ある条件のことを指しています。つまり前半の文章は、ざっくり言うと「ある条件のものとで、非自明な量子ヤン・ミルズ理論とかいうものが4次元上に存在する」ということになります。また「質量ギャップΔ」というのは、平たく言えばその世界で最小粒子の質量のことです。これらを合わせてもう一度言いたいことをを整理しなおすと、ヤン・ミルズ予想の言いたいことは「ある条件の下で、非自明な量子ヤン・ミルズ理論とかいうものが4次元上に存在して、この理論で最小粒子の質量は0より大きいことを示せ」ということになります。この予想は他の予想と異なり、この命題を「肯定的に」解決しないといけません[11]。
 また、この問題は、物理学的に見ると非常に小さな世界の鏡像対称性の研究から来ており、また数学的に見るとマクスウェルの方程式が非可換(計算の順序を入れ替えてはいけない世界)なゲージ群という場合にどのように拡張されるのか、という研究から来ています[4][8]。
 ちなみに、この「ホッヂ予想」だったり「ヤン・ミルズ方程式」だったりはすべて人の名前から来ています。ホッヂというのはウィリアム・ホッヂというイギリス出身の数学者の名前からとられており、彼は主に幾何学を研究した学者で、幾何方面を専攻している方はほとんど彼の名前を知っています。それくらい、彼が現代幾何学に及ぼした影響は大きいです。

図3. ウィリアム・ホッヂの肖像([9]より引用)

また、ヤン・ミルズは、チェン・ニー・ヤンという中国の物理学者と、ロバート・ミルズというイギリスの物理学者からとられており、彼らは研究成果を高く評価されノーベル物理学賞を受賞しています[4][8]。

図4. チェン・ニー・ヤン(楊振寧)の肖像([]から引用)

3.2 「誰にも解けない問題を作るのと、その問題を解くのではどちらが難しいか」

 湯川が石神の犯行に感づいた際、石神に対して投げかけた質問です。もっと詳しく書くと

 『誰にも解けない問題を作るのと、その問題を解くのとではどちらが難しいか。ただし答えは必ず存在するものとする』

になります。これは、実は先ほどの「ミレニアム懸賞問題」の「P≠NP予想」というものが元ネタになっています。
 P≠NP予想の問題文は

『クラスNPの要素であるが、クラスPの要素ではないような(判定問題)が存在する』

というものです[9]。もはや数学なのか?と思った方がおられるかもしれませんが、ある意味その疑問は正しく、これは純粋な数学の問題と言うよりも、計算機科学と呼ばれる分野の問題と考える方が適切でしょう。これも他の問題と同様に、単語単語の意味を見ていくことで問題文を理解しましょう。
 そもそも、クラスPやNPというのは何のことを指すのでしょうか。クラスPに属する判定問題というのは「その問題のYES/NOが多項式時間で計算することが可能である問題」のことをいいます。多項式時間で計算をするというのは「問題が計算可能で、かつ比較的容易にこの計算が行えるアルゴリズムが存在すること」とでも考えておいてもらえれば問題はないです。これに対して、クラスNPは「多項式時間で計算することができるYES/NO問題の解があっているかどうかを検証できる問題の集合」です[6]。気づかれた方もいるかもしれませんが、まさに、湯川が石神に投げかけた質問そのものです。もうここまでくれば問題の意味は理解することができて、換言すれば

『YES/NOは多項式時間で計算できるが、この計算が行えるアルゴリズムが存在しないような問題はあるのか』
 
というものになります。直感的には、なんだかありそうな気がしますね。これはおおよその数学者も同様に考えており、そのような問題は存在すると予想しています。しかし未だにそのような問題は発見されておらず、現に未解
決問題となっているわけです。図解すれば、現在数学者が予想している構図は下のようになります。

図5. PとNPの関係 この緑の部分が存在するかどうかが問題になっています([14]より引用)


 この問題が持っている重要性は計り知れず、そもそも、今まで紹介した問題達がこの「計算が行えるアルゴリズムが存在しない」可能性だってあるのです。
 個人的に、この問題に関しての見解を述べるならば、私は数学と言う学問自体がこの問に答えることができないのではないかと考えています。つまり、私たちが現在行っている数学の公理系の上でこれを証明するのは無理なのではないかと言うことです。そのような問題は実は以前存在することが確認されており、今では「連続体仮設」と呼ばれています。

4. さいごに

 この記事では、容疑者xの献身に出てくる数学ネタを解説してきました。少々重い内容になってしまった気もしますが、数学の面白さなどが伝わったら幸いです。
 ご覧いただきありがとうございました・

5. 参考文献


[1] Bernhard Riemann, David R. Wilkins "On the Number of Prime Number less than a Given Quantity" (1998)
[2] Claire Voisin "Some aspects of the Hodge conjecture"
[3] Donal O'Shea 著 糸川 洋 訳 「ポアンカレ予想(原著:"The Poincare Conjecture: In Search of the Shape of the Universe")」 新潮(2014)
[4] Emilio Gino Segre 著 久保亮五 訳「X線からクォークまで(原著:"From X-rays to Quarks: Modern Physicists and Their Discoveries")」 みすず書房(1988)
[5] 加藤文元 「リーマンの数学と思想」 共立(2017)
[6] 九岡 章 「計算理論とオートマトン言語理論」 サイエンス社(2021)
[7] Michael Atiyah "The Riemann Hypothesis" (2018)
[8] 砂田利一, 深谷賢治 他「現代数学の広がり1(ゼータ関数から見た数学の世界, 無限次元の幾何学, 他)」 岩波(1996)
[9] Siomon Shin 著 青木薫 訳「フェルマーの最終定理(原著:"Fermat's Last Theorem")」 新潮(2019)
[10] https://researchoutreach.org/articles/an-elegant-proof-of-4-colour-theorem/ (参照日 2024/3/25)
[11] https://www.claymath.org/millennium-problems/ (参照日 2024/4/8)
[12] https://www.wikipedia.org/ (参照日2024/5/21)
[13] https://www.newscientist.com/article/2180406-famed-mathematician-claims-proof-of-160-year-old-riemann-hypothesis/#.W6l4nF6LAG9.twitter (参照日5/22)
[14] https://www.momoyama-usagi.com/entry/info-p-np#2_NP (参照日5/22)


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