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生活と平穏

 同級生が捕まった。画面越し、唐突な再会だった。まっさきに浮き出た感情は懐かしさで、その感情に引かれるように、警察車両に乗せられる彼の茶色くなった頭を見ていた。帰宅途中の女子大生を誘拐したのち殺害したらしい。いまいちぴんとこなかった。彼が? まさか。
 彼は明るくて友達の多い、みんなから好かれてるような子だった。彼とは中学の頃からの同級で、担任とも仲がよく、いつも誰かと笑っていた。彼の高い笑い声を、今でも覚えている。
「だれ、知り合い?」
 関心もないような抑揚で夫が云う。ソファに横になって最近出てきたという腹をTシャツの裾からはみ出させていた。ううん、べつに、そう答える視線の端で彼のへそが見えた。へその周りを黒い毛が覆っている。見るなよ、恥ずかしい、と夫が笑う。
 ひとの醜さによって安楽を覚えるということが心の隅にはあって、それはなんでもない、自分もそのひとと同じでいい、背伸びをし続けなくてもいいということを教えてくれるようでやさしい。
 テレビを消す。部屋の外、遠くからすが啼いた。夕方の六時を過ぎていた。でかけるの、ビールも買ってきてよ、と夫の言葉を背に外へ出た。タバコを切らしていた。外は雨上がりの濡れたアスファルトの匂いがした。
 買い物から帰ってくると夫は居なかった。彼もどこかでかけていったのだろうと思い、冷蔵庫に缶ビールだけ入れてトイレに入った。蓋を開けた便器の中には、流しきれないトイレットペーパーのかたまりが一匹のくらげみたいに浮いていて、僕はそれを一瞬のうちに目に留める。白くまんまるい形をしたそのくらげは、便器の中にちょうど良く収まっていて、ほどよい、と思う。僕はいま、トイレでくらげを見つめていて、夫は外で何をして、捕まった彼はいま、何を考えているのだろう。
 トイレから出ると夫が帰ってきていて、すでに缶ビールに口をつけている。僕の姿を見て慌てたのか、早口で、ありがとねコレ、と云うせいでちょっとむせた。撮りためたバラエティ番組を見ながら、はははと笑う彼の声を聞きいてようやく理解できた。夫にとってはなんでもないただの一日なのだ。彼が捕まった日も、被害者が亡くなった日も、すべからく日常の陰に紛れていた。被害者を攫った彼の心情なんてわからない。僕らは誰かの悲しみの上を知らぬ間に通り過ぎてしまうこといつの間にか慣れてしまっていた。けれどそうでもそうしないことには、なんでもない平穏を続けるにはあんまり悲しみが大きすぎた。ざわめき立つ心の内で、ソファに寝転がる夫の調子だけが普段よりのんきに見える。

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