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【短編エッセイ・日常】 若者たちは将来どんなことを後悔する?

 どうやら世間には、こんな人間が何人もいるようである。

 その人間たちは子供の頃より貧乏であったため、中学校、高校では将来のことを心配するあまり、今生きている時間の希少性に目を向けなかった。

 家では親に対しての不平不満を募らせ、学校ではその貴重な時間を噛みしめて生きるということをしなかった。ただ本人たちは将来におびえ、今できることを必死でやっていたに過ぎないのだ。

 彼らは大学に入ってからそのことに気づく、あるいは就職してから、もしかするともっと後から……。しかし、気づいたところで何もできることはない。

 どんなに渇望しようとも、いかなる手段を使おうとも、その時間を再び経験することはできない。

 かいがいしく世話を焼いたり、話しかけてくれたりした先生、いつも楽しく話し相手になってくれた友達、自分が慕い、自分を慕ってくれた先輩や後輩、仲間……。

 周りにはたくさん大事なものがあるにもかかわらず、それを意識せず自分のことばかりに頭を悩ます。

 確かに悩み苦しむことで、人間の思想や思考は形成されていき、今後に活かすことができるだろう。

 ただ、この類いの後悔は絶対にやらないほうがいい。まだ自分の将来像がおぼつかない年頃、恥ずかしがらなくてもいい、弱みを見せてもいい、周りの期待を勝手に背負い込まなくてもいいのだ。自分のことを大切に想ってくれている人に助けを乞うて欲しい。

 無論、ここでなんとしてでも頑張らないといけない、それが高校生の時だってあるだろう。もしかすると、部活の顧問が怖くて学校に行くのが辛いこともある。はたまた、先輩や友達との折り合いが悪く、学校に行けなくなることもあるだろう。

 それでも、確実に存在するであろう、後悔している人間たちであればきっと保証してくれる。修行僧のように周りを振り払い、自分の道を歩み続けるのではなく、少し気を抜いて、人を大事にする時間を作ることが大切だと。     

 その時間を本来使うはずだったことに当てられなかったからといって、将来が変わってしまうほど現実は厳格にはできていない。だから安心してよい。

 人は時間が経過するにつれて、どんどん変化してしまう。自分がふさぎ込んでいる間に大切な縁が切れてしまう、なんとも悲しいことではないか。切れるなら納得して疎遠になるべきなのだ。

 おそらくこの手の後悔をしている人間は、どこか心の一部が過去に取り残されたような感情を持ち続けている。当時からずっと変わらない一部の想いが生活の違和感となり、また己の芯となっている。

 その人間にできる唯一のことは、後悔を糧に今後関わる人をより大切にしていくことなのだ。実際、それを実践している人間は大勢いるだろう。

 知識、思考力、そういった類いのものは、重要だと気がつくことさえできれば、能動的な行動によりいつからでも積み重ねていける(もっとも、気がつくということだけでも、いかにそれが難しいかという話もあるが……)。

 健全な状態での苦痛というものは、成長して時間がたってからも己の核として側にあるものだ。部活の仲間と必死に汗を流して頑張った時間、皆が同じ教室で頭を悩ませている時間、そのほかたくさんの貴重な時間が存在する。

 若者たちには、適度に将来を考えてもらいつつ、今を楽しんでもらいたい。