見出し画像

〈同時〉の気づきが入口のひとつ[P.2]

ぼくは、じぶんの話し言葉によって錯覚していた。

鳥の鳴き声がして、聞こえた、という。
するとあたかも、先に鳴き声がして、後で耳が聞き取った、
という感覚がのこってしまう。

しかし実際には、その音があるだけなのだ。

                    〜 本文より

・....................................................................................・
『未来からの手紙 § エチカ 』~ 第二章 「覚え書き」p.2
・....................................................................................・

「すでに肯定されている世界に接地する」

と、言語上分かりやすくするために〈する〉とつけてはいるものの
実際のところ〈する〉はいならい。

なぜなら、逆さから見ると、すでに〈ある〉世界。
何かをする(≒ 加える)必要などないのである。

接地する、という感覚は認識領域で理解するときに出てくる言葉。

実際のところ、生まれながらに誰もがすでにある世界にあるのだから、
ソコにすとんっ、と落ちることができればいいだけなのだ。

ぼくの場合は、そこに落ちるきっかけが〈同時〉に気づけたことだった。
おしゃべり鮫がことあるごとに繰り返していた、あの〈同時〉のこと

今ならわかる。
シャークの森で

「同時であることに気づくことが飛ぶ鍵だよ、エチカくん」

と、方向を指し示してくれていたことが。

だがきっと、それを予め聞いていなかったら、
おそらく、空間と一体である、という体感だけが残り、
この機能を日常生活に使えることろまでは行き着かなかったかもしれない。

ぼくの場合は、同時に気づくきっかけが、たまたま音だった。

一度目が、森海で聞いた雷鳴。
二度目が、泉と華の寝息によって。

この体感を得たとき、
森海でマザームーンがぼくに問いかけたこと

「空を飛んだときどのような状態だったかを思い出せますか?」

あのとき、いっくら考えで追ってみても思い出せなかったことが実感できた。

でもこれは、なにも特別なことではなくて誰にも起こりうることだ。

たとえばこういうこと。


ぼくは、じぶんの話し言葉によって錯覚していた。

鳥の鳴き声がして、聞こえた、という。
するとあたかも、先に鳴き声がして、後で耳が聞き取った、
という感覚がのこってしまう。

しかし実際には、その音があるだけなのだ。

向こうとこっちがあるわけではない。

この事象をアタマを通して認識するとタイムラグがあるから
あたかも別々のコトのように切り分けてしまう。

そのため、日常で当たり前に繰り返される会話のなかでさえ、
錯覚は積み重なっていく。

しかも、そのタイムラグはとても短いのでなかなか気づかない。

音以外でも同じこと。
人によっては皮膚感覚によって、あるいは味覚によって、
五感を通じて感知する可能性が高い。

そして、このダイレクトな体感に一度でも触れると、
空間と一体であるということをアタマではなくカラダで
信じられるようになる。

では、その気づきをうながすためにできることはないのか。

ある。


人間は、自動的に認識機能がはたらくために
それよって自ら見えなくさせてしまってるだけのこと。

ただ、ココを突けばいいだけなのだ。

禅に、こんな話があった。

「見えない見えないと言っては、灰をふいている」

我身を振り返れば、その通り!

じぶんで吹くのを止めれば、灰はおのずからしずまるのに、
見えない見えないと息を吐くものだから
一向にしずまらずモクモクしたまま。笑

だったら、その見えなくさせてるコトこそを止めればいい。

「すでに肯定されている世界に誰もがある」

このことを体感するために、
もし〈できること〉があるのだとすれば、
ただシンプルにそれだけだ。
加えるのではなく、触らないこと!(*1)

*1:これについては改めて噛み砕くことにします

ぼくは、あの夢での体感がどうしてもリアルに感じられた。
だから確かめたくなった。

もし、本当にリアルなのだとしたら、うつつの世界、
この日常生活の中であっても同じことが起こるはずだと。

このことを検証するために、日々、工夫を繰り返しつづけた。
それは、上にあがっていることに気づいたら止める、
というシンプルな繰り返しだ。

すると計らずともソコに落っこちた。
もちろん、落っこちてる只中はそれを自覚できない。
そして、ふたたび認識の世界に戻ったときに、
“あっ!”と、確信したのだった。

誰もが何も加える余地もない、
ノーボーダーな肯定次元に接地していることを。

ただその時はまだ、それをどう生かせばよいのか、
それがいったい何なのかはわからなかった。

だからこそ、もっと追求したくなり同じことを繰り返しつづけた。
同じことというのは、何かモヤモヤとしてきたら、
身体の上の脳を介さずにいる、ということだ。

別の言い方をすれば、
これまで当たり前に使ってきた機能に頼るのをやめて
新しく発見された機能の方を頼るようにしてみた。

そしてこの機能の切り替えをスムーズに助けるのが、
意外にも感情である(*2)ことに気がついた。

*2:しかしこれは万人に共通する方法なのかは、まだ判別がつかない

すると知らないうちに、使い方を受け取るようになっていたのだ。
つまり使い方さえも、じぶんのカラダに教わるような感覚といえる。

とっても抽象的な言い回しが多いのは自覚しているが、
言語で方向づけるときは、こういう風に周辺をじわりじわりと
やっていかないと、“分かった” というアタマの理解に入ってしまうのです。

それがいかに本質からズレていくことなのかを
ぼく自身が経験してきているからこそ、
あえて理解にあがらないようなスケッチを試みている。

うっかりぼく自身もまだまだもっていかれる。
それくらい、人間が当たり前に使っている
認識機能の習性は高いといえます。

それでも参考のために、ぼくのした工夫を
具体的に書いておこうともおもっている。

::::::

『未来からの手紙 § エチカ 』~ 第二章 「覚え書き」
 つづく♪


本日も💛 最後までお読みいただきありがとうございます☺︎