タケノコ・キノコ

ただの生活保護者

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ただ生きるだけのこと

人は生きているだけでえらいという『思想』にえらく感動するものだが、それは生きることしかできない奴らの慰めだ。  なんて書いてみる。  こんなことを書いている私も実は生きることしかできない私だ。  芸術とは、捉えなれないなにかを捉えようと努力する痕跡であり、すべてを捉えたこの光の世界では芸術に根拠はない。  なぜ?世界は模造品で溢れているのか、それは世界から芸術が焼失したからだ。  炎の光はすべてを灰にかえる。  我々はみな灰をかぶっている。  オリジナルはオリジ

    • 私の書籍探求

       単純に言って私は『最低限健康的で文化的な生活』しか送れないものであるが、文化的という意味においては私は最高限度、文化的だろう。そもそも文化とはなにか?この問い答えるにはさまざまな哲学的な話が必要だったり、しかし文化とはつまり『心の余暇』であったりするのではなんて、考えてみたりします。  余暇とはかつてスコレーなん呼ばれ、学校を意味するスコラ(スクール)の語源になったりします。しかしコレーまた胆汁質意味するギリシアの言葉に近いような。  胆汁質とは随分と長続きしない性分で

      • 存在の中性の詩

         私の自我は、ある特定の『意味』をもつ。それは精神の黒い学説か白い学説か?端的に言って苦しみか楽しみか?生命に対するおぞましげな感覚を抱く、私の自我、コギトーは脆くも崩れ去りただ中立的な理性だけが残った。それはあまりに形式的すぎるだろう!

        • デジタルネイチャー。情報環境にたゆたう、人間。

          デジタルネイチャーとは何か?  まずは、落合陽一氏のデジタルネイチャーという言葉からの意味から見てみましょう。  バーチャルとリアル(現実)の区別が薄れていき消失し、そして『再構成』される。その『再構成』された、世界こそが『デジタルネイチャー』なのです。 再構成後の世界。   この印象的な文章こそがデジタルネイチャーの世界である。すなわち、我々、人間はコンピューターの与える情報環境に全てを委ね、たゆたっている状態になるのだ。この自動文章作成ツールに果たして作者の意はあ

        ただ生きるだけのこと

          都市と記号化とSNS

          コミュニケーションとは何か?    そうそれは記号によって伝達される情報のことである。情報とは量によっめ区分される。というのが情報理論であるが。しかし、質的なものも含むのであろうか。量と質はその非還元性から区別されるが、しかしこの世全てか量であるとする数学的思考の妥当性とは何か、確かにこの世界が可算無限でも非可算無限でも、自然数、実数、集合論などに還元できるが、それは共通する質が量には必要である。    しかしそのためには厳密な定義が必要であるが、感覚や自然言語に生きる人間に

          都市と記号化とSNS

          空虚、それは世界の中心である。

           サブカルチャー的コンテンツにおいて主人公と言われる人物が、空虚に映ることはないだろうか?まさしくそれは視ている人の欲望を代表するがごとく、そう自在に姿形を変えて主人公たる『彼』は『俺』であると錯覚させるように。  そして、そのような空虚な主人公が躍り出る舞台は、まさに主人公という存在を中心に全てが回っているがごとく作用する。  もし、主人公とは欲望の入れ物にしかすぎないならば、まさに主人公はある種の全能でなければならない。なぜなら欲望とは混沌とした、全方向に拡散する力そ

          空虚、それは世界の中心である。

          理系と文系一理系至上主義の精神一

           そもそも、理系と文系の区別なとはナニか?理系とは自然科学であり、文系とは文学や社会科学であるという区分か、そもそも、自然と社会と言うモノがはっきりと別れたのは近代以降(近世のガリレオ裁判を見よ)である。いや、今でも別れてはいない。例えば脳科学や遺伝学によって、努力と才能が完全に区別される。と言う事態は果たして自然科学なのか社会科学なのか?  この場合、脳機能や遺伝といった自然的性質や努力や才能といった社会性質の区分は自明ではない。そもそも学問とは現実社会に大して何かしらの

          理系と文系一理系至上主義の精神一