理系と文系一理系至上主義の精神一

 そもそも、理系と文系の区別なとはナニか?理系とは自然科学であり、文系とは文学や社会科学であるという区分か、そもそも、自然と社会と言うモノがはっきりと別れたのは近代以降(近世のガリレオ裁判を見よ)である。いや、今でも別れてはいない。例えば脳科学や遺伝学によって、努力と才能が完全に区別される。と言う事態は果たして自然科学なのか社会科学なのか?

 この場合、脳機能や遺伝といった自然的性質や努力や才能といった社会性質の区分は自明ではない。そもそも学問とは現実社会に大して何かしらの役割がなければならない(ゆえにガンダムやエヴァンゲリオンの純粋な設定考察は広大で難解な世界にかかわらず現実との接点が薄いので学問とはならないのである)。

 そして、理系至上主義、文系不要論とはいかなる精神なのか?

問題は新カント派の哲学の通り、自然科学と社会科学では、やり方がちがうのである。そもそも自然科学は仮説を立て実験を通して立証して再現性を担保するもであるが、しかし社会科学において再現性は担保できない。再現性はまず重要なのは『他の条件が同じなら』である。しかし、社会に同じ条件などというのは、存在しない、皆多様な形で存在している。つまり再現性など期待できないのだ、と言うわけである。そこで社会科学において重要なのは『抽象力』である。データと言うものは特定の条件を抽象して計量するものである。そこでキータームなるのが概念である。『概念とは言語によって分割された現象』である。そこで問題になるのが、感情である。例えば電磁場には何の感情的触発もないが、努力には感情的触発がある。それはなぜか?ひとつに、『現代の言説空間で価値基準として機能する』かどうかだ。現代の言説空間では、努力はカネを貰える理念的基準であるが、電磁場は電気機械の技術的応用等以外ではカネにはならない。ようは、社会科学的言説には権力(すなわち人を支配する力)が関わってくるのだ。
 
 また、思考とは言葉を介して行われ、人間は思考によって規定された行動を行うので権力があるのだ。

 権力は基本的にゲーム的に取り合いになる。そのため理系の言葉は権力に直接関わりがないので厳密に定義できるのだ。ここで理系至上主義の精神が明らかになる、要するに権力は独占されるべしと言う考え方が支配的になってきいる。それはなぜか、昨今の論破趣味の蔓延から察するに自らが理系的言説を巧みに操り言説という権力を独占し(なぜなら解釈が一通りしかないならば、解釈によって権力が簒奪されないからだ)、支配者になりたという欲望が、何の反省もなく、産み出されのだ。これは80年代に、ニューアカが消費された現象と同じである。そしてニューアカが単にダサくなっので理系的言説がとっても変わったのである。

 これは、情報化社会となり検索という能動的作用によって情報を仕入れる、そしてAIによってその人が好む情報ばかりが入ってくる。そのため違う理念が受け入れることができなくなっているのと関係するだろう。

まとめ。

 言葉には権力がつきまとう。ゆえに厳密に定義された(すなわちひとつの解釈しかできない)言葉を巧みに無反省に巧みに操り、権力を独占したいのだ。これが理系至上主義の精神である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?