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デジタルネイチャー。情報環境にたゆたう、人間。

デジタルネイチャーとは何か?

 まずは、落合陽一氏のデジタルネイチャーという言葉からの意味から見てみましょう。

「魔法の世紀」はリアルとバーチャルの対比構造が、コンピュータによって踏み越えられ、作り替えられていく世界です。とすれば、そうして作り替えられた「未来の世 界を表す固有名詞」が必要になります。それこそがデジタルネイチャーなのです。

出典:魔法の世紀:落合陽一著:PLANETS:180p.

 バーチャルとリアル(現実)の区別が薄れていき消失し、そして『再構成』される。その『再構成』された、世界こそが『デジタルネイチャー』なのです。

再構成後の世界。 

「お」と打つと「お忙しい中、 大変恐縮 ですが」と自動補完される。心を込めることもなく丁寧な文章が書けるので、 事務連絡がとてもはかどるが、これは果たして言語で定義された「感情」の問題なのだろうか。

出典:デジタルネイチャー:落合陽一著:PLANETS:211p. 

 この印象的な文章こそがデジタルネイチャーの世界である。すなわち、我々、人間はコンピューターの与える情報環境に全てを委ね、たゆたっている状態になるのだ。この自動文章作成ツールに果たして作者の意はあるのだろうか?

 作者の死によって人間は解体される。そして我々は情報環境に生きて、死んでいく存在となる(そもそも『死』という概念がインターネット上に保存されたデータベースを利用してコンピューターが生きているように振る舞うので、また解体される)。

我々は動物化している?

コジューヴは、戦後のアメリカでしてきた消費者の姿を「動物」と呼ぶこのよう な強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独自の「人間」と関係している。 へーゲルによれば(より性格にはコジューヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのまま 人間的なわけではない。 人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動 がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。対 しては、動物は、つねに自然と調和して生きている。

出典:動物化するポストモダン:東浩紀著:講談社現代新書:97p

 上の引用を見れば『魔法の世紀』という時代に生きる、我々は『デジタルネイチャー』という環境に調和する生き方が『動物的』だと言うことが出来るだろう。そして、オタクという消費活動は動物化している。と『動物化するポストモダン』には記されている。

オタク的特殊と普遍。

 大澤真幸氏著の『不可能性の時代』:岩波新書。の第三章、オタクという謎。において普遍から特殊への分析が記されている。
 
 要約すると、オタクという生き物は普遍的な世界を基礎づける普遍的な鍵が無いことを『知っている』、故にオタクは特殊な世界こそが普遍であると『信じている』。その熱中する特殊な世界より普遍的な文脈は『あってはならない』。とも読み取れる。

皆、オタクになった。

 00年代がオタク分析がブームならば、10年代はヤンキー分析がブームでもあったと言える。なぜ対極的な二つの属性の分析が入れ替わりにブーム化したのか?それは日本人が『オタク化』したのだと私は考える。

 すなわち、ユビキタス(偏在)化したコンピューターが情報環境に適合した消費活動を生み出し、我々は皆データベースの踊り子になったのだ。
 
 自然、すなわち『デジタルネイチャー』への闘争を止めて誰もがその情報環境に『適応』し生存競争に身を投じるようになったのだ。

普遍的な世界、すなわちデジタルネイチャー。

『デジタルネイチャー』は世界を内包する大きな『自然』であり、あまりにも普遍的であるため、抽象的で非物語的な世界観である。

 結論から言おう。我々は大きすぎる普遍にたいしてなにも出来ず『特殊』に身を投じることになる。それは快楽を求めて欲望に踊る『自我のない解体された人間』である。

では、なぜ特殊に身を投じると自我がなくなるのか?

意志の普遍性 に対してこれを限定したものだから、「主観的な欲求」を意味することになる。

出典:超読解!はじめてのヘーゲル『法の哲学』:竹田青嗣+西研:講談社現代新書:211p

意志の『普遍』性が自我である。そしてその『特殊』が欲望である。逆を言えば普遍性がなければ意志はなく自我もまたないのだ。

まとめ。

  • 『デジタルネイチャー』とはコンピューターが作り出す新たな自然である。

  • 『動物』とは自然に適応し、自然を超克しない存在である。

  • 誰もが『動物』的な『オタク』になった。

  • 意志とは普遍性である。欲望とは特殊性である。

  • 我々は欲望に生きているよになった。

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