都市と記号化とSNS

コミュニケーションとは何か?
 
 そうそれは記号によって伝達される情報のことである。情報とは量によっめ区分される。というのが情報理論であるが。しかし、質的なものも含むのであろうか。量と質はその非還元性から区別されるが、しかしこの世全てか量であるとする数学的思考の妥当性とは何か、確かにこの世界が可算無限でも非可算無限でも、自然数、実数、集合論などに還元できるが、それは共通する質が量には必要である。
 
 しかしそのためには厳密な定義が必要であるが、感覚や自然言語に生きる人間に厳密性などあるのか?それはいまだに解明されていない。さて、話題をコミュニケーションに戻そう。それは情報の共有化である。

 そのために質的な情報を量に還元できる、という言説があるのだろう。また都市というものも人々の言説の交流の場である。なぜならさまざまな看板、標識といった記号から、道路や建物と言ったメルクマール。そして人々の生きた姿。

 それは情報である。人々は都市で共有化された土着を持っている。ゼロ年代は一種の記号化された地域性を題材とした創作物が多くあった。それは創作物の記号化と対応する。
 
 ボードリアールはショッピングモールを遊歩する人を描いたが遊歩とは記号との戯れを現代の都市では意味する。そうポストモダンとは戯れなのだ。
 
 それは分裂された主体を様々な機構に連結するスキゾ人間のあり方なのだ。都市とは作られた自然。それは記号化された人工の自然なのだ。タレントとは記号化された、人間であるタレントの神話作用とはタレントに付随するイメージそのものである。

 そしてそのタレントの背景に対して人々は様々な好嫌の感情を抱く。

 その二次的な意味されるものは作れれた、もしくは自然発生的に生じた一種の神話的人物なのだ。そしてSNSにより一億総タレント社会であるならば全ての人々は神話の住人であり物語は神話となり隠蔽されるのだ。

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