私の書籍探求
単純に言って私は『最低限健康的で文化的な生活』しか送れないものであるが、文化的という意味においては私は最高限度、文化的だろう。そもそも文化とはなにか?この問い答えるにはさまざまな哲学的な話が必要だったり、しかし文化とはつまり『心の余暇』であったりするのではなんて、考えてみたりします。
余暇とはかつてスコレーなん呼ばれ、学校を意味するスコラ(スクール)の語源になったりします。しかしコレーまた胆汁質意味するギリシアの言葉に近いような。
胆汁質とは随分と長続きしない性分で怒りっぽいなんて言われたりします。まあ、しかしまあ、学校というものも最近流行りの発達障がいによって長続きしない性分の子供を増えたことでしょう。
私なんかも長続きしない性分で机の前に十分と入られない、まるで炎のように揺らめくユーレイですが、あいにく炎のようにはエネルギーのない者でして、書籍なんか読む才能なんて全くなく学校ではいつもボケッとしていたような所謂陰キャにも入れない無キャでして、しかしボケッとするのも飽きて、なんとなくアニメをみて面白かった原作をこれまた、ただ見ていたわけでして、まあ、今でもそうなんですが自分で現象学的還元したらこうなったと言い聞かせております。
そんな私も3交代制という、機械の部品として生きることもできず勝手に精神の不調で辞めた後に、よし、ニートなるもの高等遊民にならねばと読書家になることを決意。
しかし、教養なる尊大なモノとは縁遠い人生を送ってきた私にまず読むべき本がわからない。とりあえずと買った物理学講義集なんかはF=mc^2の段階でエジプトの碑石をみたような、なんだかスゴイナー程度で終わりはて、ついに1ページのみ読んで手放した次第であります。
次に友達から随分と形而上学的だね言われて現代形而上学なる本を読み。ほほう随分面白い。となり、よせばよいものをクワインの論理的観点からなんて、数ページ読んでみて即効性飽き性がやってきて飽きました。
やはり哲学なるものははじめが肝心と、プラトンをいくつか岩波文庫で買いそろえて。私は何事からも形からはいるので読むかどうか別にして買いそろえることから始めます。
プラトンはなかなかよかったのですが、やはりニートは、経済に一家言あるとよろしいとマルクス経済学をよんで、私はブルジョアだから働かないといってみたり、ニーチェを読んで何にでも自己欺瞞だと言ってみたり、分析哲学こそが真実となにやら高くて分厚い本を買ってみたり、そんなこんなしているうちに金がなくなり世をはかなんで、発狂して入院し、まっつく人生の役にたたないと本はすべて処分しまたのに、まて哲学欲が出てきてバカスカ買って貯金がそこをつきた次第であります。
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