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【児童精神科エッセイ】発達障害の子どもの成長

  僕は東京都福生市で生まれた。父親は横田基地アメリカ軍の医者だ。母親は日本人。だから僕の家では日本語で話をする。福生市、青梅市、昭島市といった東京都市部には、似たような家庭環境の仲間も多い。だから話しも合うし、仲間意識を持つ子どもたちも多い。けど、僕はなぜか、ここに居場所はないと思ってしまった。小学生の頃はイジメも受けていた。いや、あれはイジメではなかったのかもしれない。何となく周りと距離ができて、何となく周りと話をしなくなって、気が付いた時には僕はみんなに無視されるのが当たり前になっていた。無視されることも、無視することも、それが当たり前のような日常。僕は自分が存在しているのかどうかさえ分からない毎日。
 ただ、クラスの空気は好きではなかった。僕はイジメを受けていたのではなく、馴染めなかったから、あんな風になったのかもしれない。ずっと友だちも出来ず、グループ分けをする時には、クラスの中の嫌われていて、どこのグループにも入れてもらえないような子たちと、余りものの子が集まったグループに入れられた。そのグループの中でも、僕は浮いていて、誰も話しかけてこなかったし、僕も話そうともしなかった。そしたら先生が、母親に何かを言ったらしく、僕は病院で検査を受けることになった。結果、発達障害だと判断された。
「僕が発達障害?」
 そう聞いた僕の言葉に、母親は悲しそうな表情をした。まるで可哀想な子を見るような、そんな目をしている。
「あぁそうだよ。祐樹君は、お友だちと話をするのが苦手じゃなかったかな?」
 先生にそう言われて、僕は頷いた。確かにクラスの子たちと、何を話せばいいのかわからず、頭の中がグルグルとしていたことがある。
「祐樹君は人とコミュニケーションを取るのが苦手で、思ったことを口に出すのが苦手だと思いますよ」
 先生が母親に説明をする。
「他にも、人込みが苦手だと思いますし、周りの人の視線も気になる方ですね。あと、うるさい音が苦手だと思うので、なるべくそういう場所には連れていかないようにして下さい」
「……わかりました」
 先生と母親の言葉を聞いて、僕は首を傾げた。確かにたくさん人がいる場所には行きたくないし、いつも誰かに見られている気がするし、うるさい場所も嫌い。でもそれって、誰もがそうなんじゃないの? 人込みが好きで、見られていることが好きで、うるさい場所が好きな人なんて存在するんだろうか? 僕にはそっちの方が、異常な気がした。
 その後、僕は何となく学校に行くのが嫌になって、家の中で過ごす生活が続いた。そんな生活が1年ぐらい続いた頃だろうか、母親が僕にアメリカに引っ越さないかと言ってきたのだ。
「アメリカ?」
「そうよ、アメリカに行くの。お父さんとお母さんの3人で引っ越しましょう」
 アメリカは日本じゃない場所ということは、小学生の僕でもわかった。そして、一度行けば簡単には戻って来れないことも。しかし、この街に、僕が通っていた小学校に、執着する気持ちは一切ない。どこに移動しようが、問題はなかった。
「わかった」
「そう、よかったわ。きっと祐樹には日本は狭いのよ。もっと広い場所に行けば、変わることができるわ」
 母親はそう言った。どうやら母親は僕に変わってほしいと思っているということを、僕は初めて知った。つまりそれは、今の僕では母親は納得していないということなのだろう。
 今の僕。
 だけど今の僕に対して、僕は何が悪いのかがわからない。というよりも、母親や周りは僕にどうなってほしいと思っているのかがわからない。こんな状態でアメリカに行って、何かが変わるのだろうか?
 僕の頭の中は、疑問だらけだった。
 アメリカに着いた。アメリカのハイスクールは、日本とは全く違うものだった。小学六年生だった僕は、アメリカのハイスクールでは日本でいう中学1年生のような形になっているという違いもあって、周りはみんな大人っぽいという印象だ。それに僕は英語が話せない。だから普通のハイスクールでは難しいということもあって、最初の1年は英語を話せるようにするために、別の学校に通った。そして、日本では中学生の年齢(アメリカでは中学2年生)の時に、ようやく編入することができた。
 編入してからが大変だ。英語は話せるようにはなったものの、ハイスクールに通う多国籍の人たちは、それぞれ考え方が違う。日本では考えられないような光景もたくさん見たし、言葉も聞いた。それに何より、みんな自分の意見を堂々と言う。僕は自分の意見を考えるのに時間がかかるし、それを言葉にするとなると、さらに時間がかかる。そうしているうちに、周りは別の話になっていて、結局僕は誰とも打ち解けることができなかった。僕は、この場所でも自分の居場所を見つけることができなかったのだ。
 母親は、僕が変わることを望んでいたので、多大な期待をしていただろうと思うと、申し訳ない気持ちになる。だけど僕が、学校に馴染めていないことを伝えると、母親はため息をついた。
「じゃあ、引っ越しをしましょう」
「日本に帰るの?」
「いいえ、アメリカにはね、リトルトーキョーという場所があるのよ」
「リトルトーキョー?」
 僕は初めて聞く言葉に首をかしげる。
「カリフォルニア州ロサンゼルスのど真ん中に、日本の街があるのよ」
「そうなんだ」
 そんなところに行くなら、日本に戻ればいいのにと思ったが、とっさにその言葉が出なかった。ただ親が引っ越すと言っているなら、子どもである僕は拒否をすることはできない。まだ僕は一人では生きていけないのだから。
「わかった」
「じゃあ、一週間後に引っ越しましょう」
 そう言う母親は、少しほっとしたような表情をした。その顔を見て、そういえばこっちに引っ越してきてから、母親は笑わなくなったことを思い出す。もしかしたら、母親もここでの生活があっていなかったのかもしれない。ただ、それがわかったからといって、僕に何が出来るわけではないのだが。
 父親はと言うと、アメリカに来てから、以前よりも家に帰って来なくなっていた。たまに家にいる時は、1週間ぐらいずっといたりするけれど、その後3週間ぐらい帰ってこないこともあるので、不規則な仕事をしているのだと思う。母親とはそこそこ話をするが、父親とはほとんど話をしないので、その辺りのこともよくわからない。でも話をしないのは、アメリカに来てからではなく、日本にいた時からなので気にしていなかった。
 僕にとってみれば、日本でもアメリカでも関係がないということだ。どこに行ったって、僕は人と交わることができない。そんな風に思い始めていた。
 母親が言った通り、一週間後、僕はリトルトーキョーに住むことになった。日本のようで日本ではない場所。でも、日本の雰囲気は強く、ここがアメリカの中にあるということは忘れそうだった。ただここに来てから、僕は自分が日本が嫌いではないということを知った。それは、高野山米国別院に日本の面影を感じ、なぜか心が落ち着いたからだ。落ち着いたというよりは、懐かしさを覚えたのかもしれないが、その感覚が嫌ではないから、きっと好きなんだと思う。
 リトルトーキョーに来てからは、もう学校には行かなかった。ただ、僕が学校に行かなくても、周りの人たちは特に気にしていない。母親は夕方から夜、土日はラーメン屋で働いていたので、昼間は母親と日本村広場を散歩しながら過ごした。母親がラーメン屋で働いている時は、僕もラーメン屋に行って本を読んで過ごした。一人で家にいるのは、何か嫌だったし、ラーメン屋の片隅で本を読むのは楽しいと思っていたかあだ。本は、僕の気持ちをわかってくれる。そんな気がした。
「ヘイ、ボーイ。こっちで話でもしようぜ」
「ぼく、ここでは何が美味しいの?」
 と、ラーメン屋にいると、色んな人が僕に話しかけてくる。話しかけられるのは好きではなかったけど、でも、話しかけてくる人は「ラーメン屋の片隅にいる僕」に話しかけていた。僕が学校に行っていないことは知らないし、知ったとしても責めたりもしない。それどころか、僕が学校に行かないことを選んだことさえ評価してくれた。それが、心地よかった。ようやく僕は、居場所を見つけた気がしたんだ。
 そう思うようになってから、僕は大人たちに何のメニューがお勧めだとか、どこどこのラーメン屋はいいとか悪いとか、他の飲食店はどうだとか、そういった話をするのが好きになった。人と話すのが楽しいと思うなんて、そんな日が来るなんて、僕は思っても見なかった。
「へー、ユーキって言うんだ」
 そんな時だ。僕が寿司屋のナミと出会ったのは。彼女はハーフで、このリトルトーキョーで生まれたらしい。年齢は僕と同じ。母親にお使いを頼まれたときに、偶然街で出会った。ナミは好奇心旺盛な女の子で、初対面からグイグイと僕に話しかけてくる。以前の僕だったら、そんなナミに対して拒絶をしてしまったかもしれないが、今の僕は積極的なナミに好感を持った。
「ユーキ、大変なの!!」
 ある日のこと。いつものようにラーメン屋の片隅で本を読んでいると、ナミがラーメン屋に駆け込んできた。
「ナミ! どうしたの?」
「お父さんのお店に強盗が入って……!!」
 詳しく話を聞くと、夜のうちに強盗に入られ、お金が盗まれたということだった。ただ、ナミの父親は英語をうまく話せないため、警察に相談できなかったというのだ。しかし、ナミがラーメン屋でその話をしたおかげで、街の人にこの話が広まった。リトルトーキョーはサムライ精神の街。彼女の店にみんな食べに行っては、たくさんのチップを置いていき、店は持ち直すことができたのだった。
 このことがきっかけというわけではないが、僕はナミと付き合うようになった。結局学校へは行かなかった僕だけど、この街が好きだし、この街にいる人たちが好きだ。そして働くなら、日本っぽい事がしたいと思った。
「ナミのお父さんみたいに、僕もすし職人になりたいな」
「本当! じゃあ、お父さんに弟子入りしなよ」
 ナミが嬉しそうに言う。その表情を見て、僕の考えは間違いではないと思った。だけど……。
「だめだ」
 ナミの父親は、僕の弟子入りを断った。
「どうしてよ! ユーキは本気なのよ!」
「それはわかっている。けどな、すし職人になりたいなら、私じゃなくて、ちゃんと本場で修業をした方がいい」
「本場って……日本ですか?」
「そうだ。難しい魚をさばいたりして練習をすることで、技術の奥行きができるからだ。この街で寿司屋をやりたいんだとしても、日本で修業をした方がいい」
 ナミの父親は、ちゃんと僕のためにそう言ってくれているんだということが分かった。僕はナミと離れ離れになるのは嫌だったし、今さら日本に戻るというのも複雑な気持ちだったけど、この街ですし職人になるなら、それしかないと思った。
「わかりました。修行してきます」
 僕は、久々に帰ってきていた父親に事情を話した。すると、横須賀に知り合いの寿司屋がいるから頼んでやると言われたのだ。僕はそれから単身で日本兵器、すし職人の修行を10年間行った。途中で何度も投げ出したい気持ちにもなったけど、これもすし職人になるためだと自分に言い聞かせた。
 そして10年後。僕は修行を終えて、リトルトーキョーに戻ってきた。
「ユーキ!」
「ただいま、ナミ」
 僕はすし職人として、ナミの父親の店で働き始め、ナミと結婚をした。

 自信を持って生きる。言葉にすることは簡単でも、実際にはとても難しいことだ。でも僕は、自分で決めて、自分で生きていけるようになった。医者に発達障害だと診断されても。この自尊感情が大事なのだと、改めて思った。
 今なら言える。僕はこういう人間だ。僕は僕という唯一無二の存在なのだと。

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